バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 知る

【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第26回〉姫君たちのバレエ教師、ミシェル・サン=レオン

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

??

現代でも、親子や兄弟姉妹でダンサー、バレエ教師、振付家、という方が比較的多くみられるバレエの世界。小さな頃に兄弟姉妹がバレエの教室に通っていて……とか、親がバレエ教室を開いていて……というところから、バレエに出会った方もいらっしゃるでしょう。これまでの連載でもたびたび触れてきましたが、18世紀や19世紀にも、親族が同業者、というパターンは、珍しいことではありませんでした。とくに有名なのは、タリオーニ一家(父フィリッポ、母ソフィー・カルステン、娘マリー、息子ポール)や、エルスラー姉妹(姉テレーゼ、妹ファニー)でしょうか。

19世紀の後半にも、「バレエの血」を受け継いだバレエ史上の著名人物がいます。それは、《コッペリア》などの振付家として知られるアルチュール・サン=レオン(1821-1870)。彼もまた、ダンサー兼バレエ教師だった父親の導きで、バレエの道へ足を踏み入れた一人でした。じつはこのお父さん、歴史の表舞台には出てこないながらも、とても興味深い仕事を残してくれた人なのです。では、サン=レオンの父親とは、どのような人物だったのでしょうか?今回は、「《コッペリア》の生みの親」の父、ミシェル・サン=レオンについて、先行研究や資料を参照しながらご紹介します。

ミシェル・サン=レオンの初期キャリア

ミシェル・サン=レオンは、おそらく1777年に、「レオン・ミシェル」という本名でフランスに生まれました(ややこしいので、この記事ではミシェルのことを「サン=レオン」と呼ぶことにします)。彼がプロのダンサーとして公の場に現れるまで、どのような教育を受けたのか、またどのような家庭環境で育ったのか、は、残念ながら明らかではありません。しかし、ダンサーで舞踊史家のサンドラ・ノル=ハモンドは、キャリア初期のサン=レオンが、「ブールヴァール劇」という当時の娯楽演劇に出演していた、と推測しています。

その後、サン=レオンの名前はバレエの世界に、しかもパリ・オペラ座と関連する形で登場します。ノル=ハモンドによると、サン=レオンがオペラ座の舞台に出演するようになったのは、ナポレオン・ボナパルトがもうすぐ皇帝になるという1803年のこと。この時期、オペラ座バレエの舵取りは、メートル・ド・バレエのピエール・ガルデル(1758-1840)や、ルイ・ミロン(1766-1849、本連載の第9回参照)といった面々が行なっていました。

このオペラ座バレエの上層部たちから、サン=レオンは好意的に評価されていたようです。彼はフェンシングにも長けており、その技術を見込んだガルデルから、オペラ座で上演されるオペラやバレエの戦闘シーンを振付ける、という役割に推薦されたこともありました。フランス国立公文書館に所蔵されている、サン=レオンに関する史料によると、当時のオペラ座では戦闘シーンが「非常に軽視されて」いたため、メートル・ド・バレエの部下として、フェンシングの先生を必要としていたのだとか。これは、時代劇で言うところの、「殺陣」の指導役のようなものでしょうか。他にもガルデルは、サン=レオンが音楽家としても優れており(書類中の「音楽家」という単語が、わざわざ下線を引いて強調されています)、人柄も正直、と捉えていたようです。

オペラ座時代のサン=レオンに関する報告書。フランス国立公文書館所蔵 ©️Tamamo Nagai

オペラ座の舞台に出演していた時期のサン=レオンは、決してスターダンサーなどではありませんでした。ダンサーとしての階級も「フィギュラン」、つまりコール・ド・バレエ相当(本連載の第8回を参照)だったので、抜きん出て注目されるソリストたちとは立場が異なります。それでもガルデルやミロンが、サン=レオンの存在を認めていた、ということは、やはり彼が、それなりに見所のあるダンサー・役者だったことのあらわれといえるでしょう。

ちなみに、ガルデルから推薦された戦闘シーンの振付の役割に関して、サン=レオンは仕事の報酬額でモメたらしく、すったもんだの末、タダ働きでバレエとオペラの戦闘シーンを構成することになってしまいました……。

ダンス教師としての仕事

1817年ごろ、サン=レオンはダンサーとしての現役を退き、オペラ座バレエから離れます。彼のセカンドキャリアは、もちろんダンス教師。最初の就職先は、北イタリアのトスカーナ大公国の宮廷でした。その後、いったんパリに戻ったサン=レオンは、そこでドイツ南西部の都市、シュツットガルトに宮廷を置いていた、ヴュルテンベルク家への就職をオファーされたようです。

「シュツットガルト」で「バレエ」といえば、日本への来日ツアーも記憶に新しい、シュツットガルト・バレエの存在が思い出される方も、少なくないのではないでしょうか。振付家のジョン・クランコ(1927-1973)の活躍によってその名を知られるようになったため、シュツットガルトとバレエの繋がりは、20世紀以降のことと思われるかもしれません。ところが、じつはこの街は、ドイツの中でもバレエの長い歴史を持つ都市の一つであり、ドイツにおける最初のバレエ上演と言われるのも、シュツットガルトでのことなのです。

1819年9月から1年間の契約を宮廷と結んだサン=レオンは、ヴュルテンベルク家の子どもたちへのダンス・レッスンをはじめ、貴族の家のメートル・ド・バレエとして要求される仕事をこなします。契約更新時に報酬関係でモメたことで(またか)、1821年9月にパリへ戻るものの、翌1822年10月には再びシュツットガルトへ。このとき、サン=レオンは1年前に生まれたばかりの息子、アルチュールを伴っていました。

その後、サン=レオンは1842年まで、主にヴュルテンベルク家の子どもたちのダンス教師として活動するのですが、その中で彼は、レッスン用のアンシェヌマンと音楽をまとめた、『ダンスの練習帳Cahier d’exercices de danse』というタイトルの著作を書き上げます。

『ダンスの練習帳』

ダンス教師によるレッスンノートの作成は、歴史上、いくつか似たような例があります。サン=レオンが活動していた19世紀前半の場合、イタリアの名バレエ教師にして舞踊理論家のカルロ・ブラジス(1797-1878)の『舞踊芸術の基礎・理論・実践』や『テルプシコールのコード』が代表的でしょう。

いっぽう、サン=レオンの『ダンスの練習帳』は、1829年から30年にかけての2年間で作成された3冊の著作物で、内容がたいへん充実していることと、それぞれのエクササイズで使用する音楽の例が豊富なことが大きな特徴。とくに後者は、音楽家としての能力をガルデルに評価されていたサン=レオンならではの特徴でしょう。前出のノル=ハモンドは、『練習帳』にクラコヴィアクやマズルカといった民族舞踊の楽曲(どちらもポーランドの舞曲です)が含まれていることを指摘していますし、モーツァルト作曲のオペラ《フィガロの結婚》のアリア〈恋とはどんなものかしら〉の旋律や、バレエ《ラ・フィユ・マル・ガルデ》の第2幕で聴かれる〈タンブール・ド・バスクのダンス〉*の旋律も登場しているのです。

*第2幕の序盤、糸車を回す母親のシモーヌのまわりでリーズがタンバリンの音に合わせて踊る場面

現在のバレエ・レッスンでも、人気の既成曲や季節の楽曲を、レッスン用にアレンジしてピアニストさんが演奏してくださることがありますが、19世紀前半にも同じようなことが行われていたのでしょう。当時のダンス・レッスンで使われていた曲の一例として、大変興味深いですね。

上の2枚の写真が、バレエ《ラ・フィユ・マル・ガルデ》第2幕〈タンブール・ド・バスクのダンス〉の旋律を用いたエクササイズのページ。19世紀前半(1830年代)のエクササイズなので、用語が意味するパが現代のものと違っている可能性は大いにあります。また、書かれているとおりのかたちではアンシェヌマンを行うのが不可能であったりと、不自然なところも。楽譜のどの音でどのパを行う、といったところまで詳細に記されてはいないので、リーズのあの曲でどうやってこのアンシェヌマンを実施するのか、はっきりしないのがちょっと残念なところです。©️Tamamo Nagai

\図版を解説!/
●写真上=エクササイズの指示が書かれてあります

A:楽譜(曲の出だしのみをメモ)

B:エクササイズ①
(原文)Le Pied gauche devant
Assemblé devant du pied droit sissonne à la 2de du même, pas de bourrée dessous et dessus coupé dessous ronde de jambe sauté assemblé derrière; 2 pas de basque en avant, jeté dessus glissade devant en reculant assemblé devant, C. F.
Le Pied gauche fini devant, dans l’épaulement contraire

(日本語訳)左足前からスタート→右足のアッサンブレ・ドゥヴァン→右足を第2ポジションにシソンヌ→パ・ド・ブレ、ドゥス&ドゥスュ→クペ・ドゥス→ロン・ド・ジャンブ→ソテ→アッサンブレ・デリエール→パ・ド・バスクを2回アン・ナヴァンで→ジュテ・ドゥスュ→グリッサード・ドゥヴァン、退きながらアッサンブレ・ドゥヴァン
左足前で終わり、エポールマンは反対側

C:エクササイズ②
(原文)Jeté dessus une glissade devant, en reculant, jeté dessous 2 glissades derrière en revenant, jeté derrière sur le coup de pied en changeant d’épaulement et fini pilé relevez immédiatement, fin la pointe et l’autre en l’air C. F.

(日本語訳)ジュテ・ドゥス→グリッサード・ドゥヴァン1回→退いて→ジュテ・ドゥスュ→グリッサード・デリエール2回、退きながら→ジュテ・デリエール、スュル・ル・ク・ド・ピエ、エポールマンを変えながら→プリエで終わり、すぐにルルヴェ→ポワントで終わり、もう一方はアン・レール

●写真下=楽譜をフルに記載したページ。『練習帳』の後半部分に記載されています

さて、このお父さんに育てられた息子のアルチュールくんは、シュツットガルトでバレエと音楽のレッスンを始めます。バレエはもちろんお父さんから習うのですが、音楽面の教育も、ヴァイオリンをニコロ・パガニーニ(1782-1840、超絶技巧の持ち主として知られる)という当時の超有名奏者から習う、スーパー英才教育っぷり。のちの彼の活躍は、ミシェルお父さんの教育方針が結実した成果だったのかもしれません。

★次回は2023年9月5日(火)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/84, Rapport daté le 5 juin 1807.

Archives Nationales. AJ/13/84, Rapport daté le 16 septembre 1807.

Noll-Hammond, Sandra. 1992. “A Nineteenth-Century Dancing Master at the Court of Württenberg : The Dance Notebooks of Michel St. Léon”, in Dance Chronicle, Vol. 15, No.3. Abingdon: Taylor & Francis, 291-315.

——. 2006. “The French Style and the Period”, in Dance Chronicle, Vol. 29, No.3. Abingdon: Taylor & Francis, 302-316.

Saint-Léon, Michel. 1829-1830. Cahier d’Exercices (de danses) Pour LL. AA. Royalles les Princesses de Wurtemberg 1830. F-Po : Res.1137 (1-3).

Saint-Léon, Arthur. 1981. Letters from a Ballet Master the correspondence of Arthur Saint-Léon. Ed. by Ivor Guest. London, Dance Books.

永井玉藻、2023。『バレエ伴奏者の歴史 19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々』東京、音楽之友社。

——.「ミシェル・サン=レオン著『ダンスの練習帳』―19 世紀前半のクラスレッスン用音楽に見られる特徴―」『武蔵野音楽大学紀要』第50号、25-41頁。

【NEWS 】永井玉藻さんの新著が好評発売中!

「バレエ伴奏者の歴史〜19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々」

バレエにおいて、ダンスと音楽という別々の芸術形態をつなぐために極めて重要な役割を果たしている存在、それがバレエ伴奏者。その職業が成立しはじめた19世紀パリ・オペラ座のバレエ伴奏者たちの活動や役割を明らかにしながら、華やかな舞台の“影の立役者”の歴史をたどります。

●永井玉藻 著
●四六判・並製・224頁
●定価2,420円(本体2,200円+税10%)
●音楽之友社
●詳しい内容はこちら
●Amazonでの予約・購入はこちら

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

もっとみる

類似記事

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ