バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 知る

【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第28回〉皇帝暗殺未遂事件発生! オペラ座を移転せよ!

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

バレエチャンネル読者のみなさんにとって、ご自身の「ホーム」といえる劇場はどちらでしょうか? 最初はきょろきょろしながら席を探していた劇場も、座席案内板なしに自席に直行するようになり、幕間ルーティーンもでき、劇場に愛着が湧いてくると、そこはもう自分にとっての「ホーム」の劇場かもしれません。劇場付きのバレエ団で仕事をしているなら、なおさらですよね。

これまでの連載でもたびたび触れてきたように、19世紀の多くの時期において、パリ・オペラ座バレエが「ホーム」としていたのは、現パリ9区に位置する、ル・ペルティエ通りの劇場でした。パレ・ガルニエへの引っ越しは19世紀末の1875年に行われ、以来、オペラ座はパレ・ガルニエを本拠地劇場(の一つ)としています。じつは、このオペラ座の引っ越しの発端には、当時のフランスの政治体制を揺るがしかねない一大事件があったことをご存じでしょうか? 今回は、パレ・ガルニエ建設のきっかけとなった1858年の皇帝暗殺未遂事件について、資料を参照しながらご紹介します。

現在のパリ・オペラ座ガルニエ宮

フランスの「第二帝政期」とは?

事件が起こった1858年当時、フランスはのちに「第二帝政」と呼ばれる政治体制下にありました。国を統治していたのは、皇帝ルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世、1808-1873)です。妻はスペイン出身の貴族、ウージェニー・ド・モンティジョ(1826-1920)。大きく膨らんだスカートのクリノリン・ドレスを愛好したことでよく知られています。

皇帝ルイ・ナポレオン・ボナパルト(1852年撮影)とウージェニー皇后

19世紀半ばのフランスというと、バレエの世界では《ラ・シルフィード》や《ジゼル》といったロマンティック・バレエが大盛り上がりを見せた、大変華やかな時期です。いっぽう、この時期のフランスは政治体制が非常に頻繁に変わり、不安定な社会状況が続いていました。ちょっと長くなりますが、事件の背景を知るためにも、19世紀前半のフランス国内の動きを確認しておきましょう。

1815年にナポレオン・ボナパルトが失脚したのち、フランスは王政に回帰し、ルイ16世の弟だったルイ18世、ついでシャルル10世が即位します。さらに1830年に起こった革命後にオルレアン公ルイ・フィリップが即位、「七月王政」と呼ばれる時期が始まりますが、1848年2月にまたも革命が起こり、紆余曲折あった後に、共和制の国が成立しました。

ここで台頭してきたのが、ナポレオンのおいに当たるルイ・ナポレオン。彼はまず共和国の大統領に選出され、その後、憲法をさまざまに書き換えた上で国民投票を行い、1852年に皇帝に即位します。第二帝政下のフランスは経済・産業面で急成長し、パリの街中でもさまざまな変化が起こりました。

事件の内容

さて、ルイ・ナポレオンが皇位についてから6年が経った1858年1月14日の夜、彼は皇后ウージェニーを伴い、ル・ペルティエ通りのオペラ座での観劇へ向かいました。要人の観劇は現代の日本でもしばしばあることですが、当時のオペラ座はトップクラスの社交の場であり、フランス第一の歌劇場でもあるため、皇帝や皇后が観劇に訪れることはとても重要でした。また、この日の公演は人気オペラ歌手の引退公演でもあり、バレエを含め、複数の演目からの抜粋でプログラムが構成されていました。

夜8時半、皇帝夫妻は公演が行われている最中のオペラ座に馬車で到着します。と、その瞬間、夫妻が乗る馬車に次々と投げつけられる3つの爆弾! 8人の死者を含め、150人近くの怪我人が出た劇場周辺は、大混乱となります。狙われたルイ・ナポレオンとウージェニーは無事でしたが、乗車していた馬車の窓ガラスが爆弾で割れるなど、危ない状況でした。

H.Vittori. “L’attentat d’Orsini, le 14 janvier 1858”. Huile sur toile, 1862. Paris, musée Carnavalet. ナポレオン3世暗殺未遂事件(1858年1月14日)の様子を描いた画/H.ヴィットーリ・ロマーノ作(1862年)

事件の主犯は、イタリア人政治活動家のフェリーチェ・オルシーニという人物でした。イタリアの活動家が、なぜフランス皇帝を狙ったのか? その答えには、当時のイタリアにおける国家統一運動が関連しています(高校の世界史Bで習う「リソルジメント」ですね)。

歴史的にオーストリアやスペイン、フランスといった国々から介入されてきたイタリアでは、19世紀初頭以降、国家統一と独立への動きが続いていました。オルシーニもイタリアの独立を目指す活動家の一人であり、彼はルイ・ナポレオンを、祖国独立の最大の障害と考えていたのです。事件の翌日に逮捕されたオルシーニはギロチン刑に処され、共犯者や関係者たちも、それぞれ死刑やフランス植民地での重労働罰といった判決を受けました。

なお、この事件の記録は当時のオペラ座の舞台監督日誌にも記録されています。1858年1月14日のページを見ると、細かな字でびっしりと事件のあらましが書かれており、「《ウィリアム・テル》の第2幕が終わったところで……」など、臨場感のある記述が見られます(この日誌は、2022年末〜2023年始にアーティゾン美術館で開催されていた、「パリ・オペラ座 響き合う芸術の殿堂」展でも展示されていました)。

パリ改造とオペラ座の移転

では、この国家元首の暗殺未遂が、なぜル・ペルティエ通りの劇場からパレ・ガルニエへの引っ越しに関わっているのでしょうか? その答えは、ル・ペルティエ劇場の周囲を含め、当時のパリの街の構造にある、と言われています。

19世紀後半になるまで、パリはごちゃごちゃした街並みの都市でした。大通り以外は道も狭く、建物が密集していて、日陰が多いことで知られていたのです。このような事情があったので、暗殺未遂事件の前からすでに、パリでは街並みの大改造計画が進んでいました。狭い道に建物が密集していると、風通しが悪く公衆衛生上の問題がありますし、街中での戦闘行為が起こったさいに、簡単にバリケードを作れるいっぽうで、大勢の軍隊を迅速に動かしにくい、という、軍事上の問題もありました。度重なる革命やクー・デタを経験して皇帝に即位したルイ・ナポレオンにとって、暴動を素早く鎮圧することは、国を支配していく上での重要なポイントでした。

当時のオペラ座周辺の地図を実際に見てみましょう。劇場の入り口が面しているル・ペルティエ通りはイタリアン大通りに接続している脇道で、劇場の周辺には小さめの建物が寄り集まっています。本連載の第11回でご覧いただいた動画でも確認できるように、この道路事情は、現代にもそのなごりが見られます。

1860年頃のパリ市街の地図(フランス国立図書館所蔵)。当時のオペラ座が建っていたル・ペルティエ通り周辺(赤枠で囲んだ箇所)を拡大してみると……↓

赤く囲んだ建物が当時のオペラ座。その周囲に小さめの建物が寄り集まっているのがわかります

そのパリ改造のさなかに起こった暗殺未遂事件。やはり今のパリの街の構造は危険だ、なぜならオルシーニのように、要人の暗殺を企てる人物たちが隠れやすいから……ということで、要人が観劇に訪れるオペラ座は、もっと見通しの良い場所に建てるべき! という話が持ち上がったのでした。そこで、ルーヴル宮殿を背に、建物をガンガン薙ぎ倒して大通りを作り、キャプシーヌ大通りとイタリアン大通りがつながる地点に行き着くようにして、その箇所にできる大きな広場を整備して新しく建てられたのが、現在のパレ・ガルニエです。

劇場の建設作業は1862年に始まります。その後、12年にわたって工事が行われている間に第二帝政は崩壊、フランスの政体はまたも変化し、第三共和制下の1875年1月15日に行われたこけら落とし公演に、ルイ・ナポレオンの姿はありませんでした。先代のオペラ座であるル・ペルティエ通りの劇場も、1873年に原因不明の火事で消失してしまいます。

劇場の移転、という単純な出来事も、深掘りしていくと世界史にまで繋がるのが、面白いところ。文化と社会と歴史が絡み合う約360年の重みこそが、パリ・オペラ座とオペラ座バレエの魅力でもあるのです。

★次回は2023年11月5日(日)更新予定です

参考資料

F-Pn : IFN-53028373. Archives de l’Opéra. Régie. Journal de régie. Première série [Document d’archives]. https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53028373z/f19.item

F-Pn : IFN-53085514 . Plan de Paris en 1860 divisé en 20 arrondissements [Document cartographique] / gravé… par J.-N. Henriot. https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53085514h

【NEWS 】永井玉藻さんの新著が好評発売中!

「バレエ伴奏者の歴史〜19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々」

バレエにおいて、ダンスと音楽という別々の芸術形態をつなぐために極めて重要な役割を果たしている存在、それがバレエ伴奏者。その職業が成立しはじめた19世紀パリ・オペラ座のバレエ伴奏者たちの活動や役割を明らかにしながら、華やかな舞台の“影の立役者”の歴史をたどります。

●永井玉藻 著
●四六判・並製・224頁
●定価2,420円(本体2,200円+税10%)
●音楽之友社
●詳しい内容はこちら
●Amazonでの予約・購入はこちら

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

もっとみる

類似記事

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ