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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第23回〉初代ジゼル!カルロッタ・グリジの契約書(前編)

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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 早いもので、この連載も今回で2周年を迎えることができました。読者のみなさんには厚く御礼申し上げます! 連載開始当初、「パリ・オペラ座とバレエの歴史を紹介するとはいえ、ディープな視点で大丈夫なのだろうか……」と思いつつも、第1回からどう考えてもマニアックな内容を取り上げた本連載。普通のバレエ史には出てきづらい情報を、今後も読者のみなさんと一緒に楽しんでいけたら幸いです。

さて、その連載初回で取り上げたテーマの「アーティストの就業規則」は、ある特定の時代や社会におけるアーティストの実態を示してくれる、大事な情報です。とくに、歴史上のアーティストの「労働者としての姿」を読み取る上で、就業規則や契約書といった資料の読み込みは欠かせません。

では、フランス・バレエの超黄金期の19世紀半ば、オペラ座はダンサーの雇用時に、彼らとどのような契約を結んでいたのでしょうか? 今回は、《ジゼル》の初演でタイトルロールを踊ったダンサー、カルロッタ・グリジ(1819-1899)がオペラ座と取り交わした雇用契約書を参照しながら、19世紀半ばのトップダンサーたちの労働条件についてご紹介します。

カルロッタ・グリジ(1819-1899)

オペラ座の舞台で輝いたイタリアの至宝

カルロッタ・グリジはマリー・タリオーニと並んでロマンティック・バレエ期を代表する女性ダンサーの一人であり、その名を知る人も多いと思います。とはいえ、まずは、ざっとグリジの生涯をおさらいしましょう。

1819年、現在はクロアチア領で当時はオーストリア支配下の北イタリアの町、ヴィシナーダに生まれた彼女は、早くから踊りの才能を発揮し、ミラノのスカラ座バレエ学校でバレエを学びます。その後、グリジは南イタリアのナポリへ移りました。ナポリには、イタリアの主要なオペラ劇場として長い歴史を持つサン=カルロ劇場があり、彼女はここで、フランスからやってきたオペラ座出身の名ダンサー、ジュール・ペロー(1810-1892)と出会います。

すでに技術力の高さを評価されていたグリジは、ペローの公私にわたるパートナーとなり、1836年にロンドンでプロデビュー。続いて、パリを含むヨーロッパ中のさまざまな都市で人気を博しました。満を持してのオペラ座デビューの演目は、1841年2月12日に上演された、ドニゼッティ作曲のオペラ《ラ・ファヴォリット》のバレエシーンです。そして、彼女の立場を不動のものにしたのが、1841年6月28日にパリ・オペラ座で初演された《ジゼル》でした。《ラ・シルフィード》でタリオーニが時代を代表するダンサーとなったのと同様に、グリジも《ジゼル》で空前の成功を収めました。

1850年代にはサンクトペテルブルク、そしてワルシャワへと居を移したグリジは、ポーランド貴族との間に子どもができたのを機に34歳で舞台を退きます。ヨーロッパ中を類まれな技術力で席巻した彼女は、余生をスイスのジュネーヴで静かに過ごし、80歳になる直前で亡くなりました。

契約書から読み取れること

では、彼女が《ジゼル》でその名を轟かす直前に、オペラ座と交わした雇用契約書の内容を見てみましょう。今回参照するのは、本連載では毎度おなじみの、フランス国立公文書館(Archives Nationales)に所蔵されているもの。契約書の用紙はほとんどの文面がタイプ打ちされており、個々のアーティストに関わる部分(氏名やオペラ座での所属、住所、報酬額など)は、後から手書きで記入するようになっています(写真1)

契約書の末尾には、「パリにて1840年12月10日に、読了後、我々の間で誠実に行われたFait souble et de bonne foi entre nous, après lecture, à Paris, ce dix decembre mil(sic) huit cent quarantes.」との一文があり、このうちの日付の部分は、おそらくグリジ本人によると思われる手書きで記入されています(写真2)。このことから、当該の契約書が、グリジのオペラ座デビューの約2ヵ月前である1840年末に作成されたことがわかります。

また、この契約書は、内側に2つ折りにした4ページ構成(最終ページは空白)なのですが、冒頭には、彼女の居住地として「リシェ通り42番地Richer n°42」と読めるアドレスの書き込みがされています(写真1)。この「リシェ通り」とは、1840年代にオペラ座が本拠地としていたル・ペルティエ通りの劇場から歩いてすぐ、当時のオペラ座が大道具のアトリエやオペラ座バレエ学校の校舎を構えていた通りです(本連載の第11回第12回参照)。グリジは劇場の徒歩圏内に住む、職住接近のダンサーだったのですね。

写真1:グリジの契約書の表紙(1ページ目)。ページ上部、手書き文字の部分に彼女の居住地「Richer n°42」の文字が見えます。フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

写真2:契約書の中の、グリジ本人の署名(写真内最下部の手書きの箇所)があるページがこちら。フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

「オペラ座専属」の証

グリジが1840年に作成したこの雇用契約書は、全部で10の項目から構成されています。その第1の項目は下記の通り。

「1° 契約者(*)の劇場、または契約者が望む他の劇場、国内あるいは国外、いかなる場所であろうと、契約者が指定する日、時間に、契約者が上演を希望するすべての作品、一般的に契約者が適切と判断するすべての役を演じ、出演すること。いかなる口実であれ、その出演を拒否することはできず、また、監督の書面による明確な同意がない限り、その出演を返上、譲渡、離脱することはできず、一般に、(オペラ座の)管理部門に役立つことであれば、何にでも身を投じることができる。」
*ここでの「契約者」とは、グリジがこの雇用契約を結んだ相手、つまり当時のオペラ座総裁であるレオン・ピレ(1803-1868)。

つまり、オペラ座と契約した以上、グリジのダンサーとしての活動は、まずオペラ座が管理するものになる、ということですね。この第1の項目に続く第2の項目も、

「2°指示された場所でのリハーサルおよび公演に、昼夜を問わず正確に出席すること。(違反した場合は)罰則として、私の月給の10分の1を当該給与から差し引くこと。」

として、オペラ座の舞台への出演だけでなく、稽古にも規則正しく出席することを定めるものです。

続いて、第3項目では不測の事態が起きた場合、第4項目では劇場が閉鎖された場合、第5項目では病気になったとき……と、多くのアーティストに共通する基本的なものごとが記載されています。19世紀初頭の場合と同様に、管理部門の許可なく他の劇場やコンサートなどで「その才能を利用しないこと」も、きちんと定められています(第7項目)。オペラ座のアーティストとして、第一にオペラ座のために仕事をすること。それが、この雇用契約書がグリジに示す事柄です。

雇用期間と報酬額、そして《ジゼル》の影響

雇用の期間とグリジの報酬額も、契約書で注目すべき内容です。この1840年12月の契約書に書かれたグリジの雇用期間は、「1841年1月1日に始まり、同年12月31日に終了する」、つまり1年間でした。この期間の記述はタイプ打ちではなく、手書きで書かれているため、この時点でのグリジは1年間のみの契約だった、ということですね。ただし、その直後にある「管理部門の裁量により、相互の関係なく、最初の年の終わりで契約解除可能il sera résiliable à la fin de la première année, à la volonté (d)e l’Administration et sans réciprocité.」というタイプ打ちの文章がインクで消されているので、グリジは1842年以降に継続しての雇用も、示唆されていた可能性があります。

そして、オペラ座側が契約書でグリジに示した報酬額は「月ごとの支払いで、年額5000フラン」。オペラ座へのデビューを果たす前に、グリジはすでにヨーロッパの主要都市で踊ったキャリアを持ち、1840年2月末にパリのルネッサンス座へ出演したさいも、多くの注目を集めています。オペラ座でバリバリ踊っていた頃のタリオーニやペローの報酬額と比較すると(本連載の第16回参照)、グリジのような前評判を持つダンサーへの報酬額として、年額5000フランはちょっと低めの額かもしれません。これは、スターダンサー候補に対しても、「初めて我らがオペラ座の舞台で踊るなら、それなりに」というオペラ座のプライドでしょうか。

さて、この1840年末の契約書を通して、私たちは、期待の新人としてオペラ座と契約するグリジのステータスを見ることができました。そして、じつはフランス国立公文書館には、1841年以降のオペラ座とグリジとの契約書も、ちゃんと所蔵されているのです(ありがたい)! では、《ジゼル》での大成功を勝ち取ったあとのグリジと、オペラ座との関係は、契約書の中でどのように変化していったのでしょうか? この点については来月の記事で深掘りしていきましょう。

★次回は2023年6月5日(月)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/194, Contrat d’engagement de Mlle Carlotta Grisi, 1840.

Guest, Ivor. 2008. The Romantic Ballet in Paris, Hampshire, Dance Books.

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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