バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 知る

【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第16回〉ロマンティック・バレエの時代の高額給与ランキング……第1位はいったい誰?!

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのために、マニアックすぎる連載を始めます。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

いきなり生々しい話で恐縮なのですが、古今東西、人が生活を営んでいくために必要なもの、それはお金。生活の三大要素である「衣・食・住」も、それらを手に入れるための金銭がないと、苦しい状況になってしまうことは否定できません。では、ロマンティック・バレエの大流行が始まったばかりのころ、オペラ座バレエのダンサーたちは、どのくらいの生活水準にあったのでしょうか? 今回は、1833年6月1日から翌34年5月31日までの1年間に、オペラ座から給与を得ていた全勤務者の名簿である、「1833〜34年の劇場年度間の王立音楽アカデミー人員簿」の記述をご紹介します。

《ラ・シルフィード》初演時期のオペラ座バレエ

まずは、当時のオペラ座バレエの規模を把握しておきましょう。1833年〜34年にパリ・オペラ座バレエと雇用契約を結んでいたダンサーおよびメートル・ド・バレエは、全部で139名。そのうち、メートル・ド・バレエ、およびソリストなどを踊るダンサーは「ダンス部門Service de la Danse」に、コール・ド・バレエである群舞担当のダンサーは「バレエ部門Service du Ballet」に分けられていました。各部門の当時の在籍人数は、前者が30名(メートル・ド・バレエ2名、女性ダンサー15名、男性ダンサー13名)、後者が109名(女性ダンサー65名、男性ダンサー44名)です。現在のオペラ座バレエより少し規模が小さいですね。

この139名は、全員が同一額の給与を得ていたわけではありません。19世紀のオペラ座では、在籍年数の長さによって大まかな給与額が決められていた部門もあるのですが(オーケストラなど)、バレエ団に関しては、どちらかというと団内での役割によって給与が決まっていたようです。ソリストと群舞ではもちろん差がありますし、資料を良く見ていくと、群舞の中でも、必ずしも在籍年数が長いダンサーがより高い給与を得ていたわけではないことが分かります。

なお、給与額との直接の関係はありませんが、個々の姓が書かれたその横に、「兄」「姉」「息子」などと付け加えられているダンサーがしばしば見られます。この時代にも、一族がダンス関係者だったり、兄弟姉妹でダンサーになったりするケースは、決して少なくなかったのですね。その一例が、ロマンティック・バレエ時代の名花、マリー・タリオーニ(1804-1884)の家系。今回の史料が作成された当時、マリーの父親、フィリッポ(1777-1871)もメートル・ド・バレエとしてオペラ座に雇用されていましたので、ちゃんと名前が載っています。では、そのソリスト級ダンサーたちやメートル・ド・バレエ、つまり「ダンス部門」所属のメンバーの給与状況は、どのようなものだったのでしょうか。

年額20000フランも! 高額給与のダンス部門

「ダンス部門」所属の人員の給与額は、人によってかなりの開きがあります。その差はなんと15倍以上。33〜34年にダンス部門に所属していたダンサーで、最も低い給与額は年額1200フラン、最高額は20000フランなのです。当時の1フランはおおよそ現代の日本円の1000円くらい、と換算できるので、ダンス部門内でも圧倒的な違いがあることがわかるでしょう。もっとも、この最高額の年額20000フラン、というのはマリー・タリオーニの給与で、バレエ団内でもぶっちぎりの額なのですが……。では、この当時のダンス部門における高額給与トップ5は、どのくらいの額なのでしょうか。

第1位 20000フラン(マリー・タリオーニ)

第2位 15000フラン(ジュール・ペロー)

第3位 14000フラン(リーズ・ノブレ、モントゥスュ(女性ダンサー)、フェルディナン(男性ダンサー))

第4位 10000フラン(フィリッポ・タリオーニ)

第5位 8000フラン(ジョゼフ・マジリエ)

資料に記載されているダンサーは、今日では忘れられてしまった人たちがほとんどで、第3位のモントゥスュフェルディナンも例外ではありません。そのため、彼らがどのようなダンサーだったのか、はっきりしませんが、マジリエやタリオーニ・パパよりも高額の給与を得ていることからすると、この当時は名の知れたダンサーだったと考えて良いでしょう。いっぽう、リーズ・ノブレ(1801-1852)は、1832年の《ラ・シルフィード》初演の際にエフィ役を踊ったダンサーで、マリー・タリオーニの活躍前までは、オペラ座バレエの看板ダンサーの一人でした(1828年初演のオペラ《ポルティチのもの言えぬ娘》で彼女が演じた失語症の主人公、フェネッラなどが当たり役です)。

タリオーニ父子の給与の差も、興味深い点です。娘のマリーはトップダンサー、父のフィリッポはメートル・ド・バレエなので、立場の違いがありますが、それにしてもマリーの給与額は父親の2倍。《ラ・シルフィード》の初演以降、彼女がいかに絶大な人気を得たか、容易に想像できますね。ちなみに、マリー・タリオーニの給与額は、当時のオペラ座総裁、ルイ・ヴェロン(1798-1867)の給与額(年額12000フラン)よりも高額だったのです。

つましい生活のバレエ部門

群舞のダンサーたちである、バレエ部門所属のダンサーたちの場合も見てみましょう。コール・ド・バレエにはさすがにダンス部門のような5桁越えダンサーはいませんが、下は年額200フランから、上は1800フランまで、と、こちらも最高額と最低額に大きな差があります。ただし、この年額200フランのダンサーたちには、「公演ごとの出席により」という但し書きが添えられているので、他のダンサーたちとは契約条件が異なっていたようです。

その最低額メンバーを除くと、当時のバレエ部門所属のダンサーで底辺の給与額は、年額500フランが相場。いっぽう、1000フラン以上を得ているダンサーは、109名のうち男女合わせても約4分の1の25名しかいません。つまり、大方のダンサーは年額1000フランに満たない額で、日々つつましやかに、というか、わりと貧しく暮らしていたものと考えられます。もっとも、この時期の女性ダンサーに関しては貴族やブルジョワのパトロンがつくこともあったので、そのような場合は、貧しさとは無縁の生活を送ることもできたかもしれませんが……。

また、この群舞のダンサーたちの給与額は、オペラ公演の合唱団メンバーの給与額より、全体的にちょっと低めです。当時のオペラ座では、バレエの場合と同様に、オペラ公演で主役あるいは準主役級などの役柄を歌う「歌唱部門Service du Chant」の歌い手と、合唱団である「合唱部門Service des Chœurs」の歌い手とが区別されていました。前者に所属する代表的な歌手としては、大人気のテノールで、《ラ・シルフィード》の台本も執筆したアドルフ・ヌリ(1802-1839)がいます(そのヌリの給与は年額25000フランで、これまた歌唱部門の中でもぶっちぎりです)。

そして後者の合唱部門ですが、所属歌手73人のうち、最低額の年額450フランの歌手は1人、次に低い額の年額500フランは5人、いっぽう年額1000フラン以上の歌手は37人、と、合唱団全体の半数以上は年額1000フラン以上の給与を得ていたようです。合唱団内での最高給与年額は1600フラン。合唱団内での給与の差それ自体はバレエ部門と大差ないですが、バレエ部門より合唱団の人数のほうが少ないため、平均給与額は合唱団のほうが少し高かったようですね。

もちろん、個々のダンサーの価値は、給与額ですべて語れるものではありません。各々が各々にしかない個性と魅力を持ち、舞台上でそれらを発揮すること、またそうした個性や魅力を観客が見られることは、決して金銭には変えられない何よりの「価値」です。

いっぽうで、職業は金銭と、そして社会と深い結びつきを持ち、職業のあり方は、その職業が属する社会の動向、考え方、価値観に大きく左右されます。ダンサーの社会的地位や処遇は、ダンサーたちだけの問題ではなく、観客の私たち自身も、真剣に考えなければいけないことがらなのではないでしょうか。

★次回は2022年11月5日(土)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/190, Académie Royale de Musique Personnel des artistes, employés et préposés de l’Académie Roy.le de Musique pendant l’année théâtrale 1833-1834.

鹿島茂、2009。『新版 馬車が買いたい!』東京、白水社。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

もっとみる

類似記事

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ