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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第12回〉「パリ・オペラ座バレエ学校」はじめて物語

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのために、マニアックすぎる連載を始めます。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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パリ・オペラ座バレエ学校 その始まりと最初の歴史

日本の春は新しいものごとが始まる季節。4月から学校に進学された方や、そうしたお子様をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。新しい場所で新しい学びを見つけるのはつねに大きな楽しみの一つであり、知的好奇心がバリバリ刺激される機会ですね。

ところで、バレエの世界の「学校」といえば、バレエ団付属の学校の存在を無視するわけにはいきません。パリ・オペラ座バレエの卓越した実力がほぼ途切れなく保たれてきたのは、もちろんトップレベルのダンサーたちによるところが大きいですが、劇場付属のバレエ学校における専門教育と、そこで鍛えられる若きダンサーたちにも多くを負っています。この学校も、オペラ座バレエ本体と同様に長い歴史を持つ機関のひとつ。今回は、パリ・オペラ座のバレエ学校であるエコール・ド・ダンスについて、最初期から19世紀初頭にかけての様子をご紹介します。

「偉大なる王」ルイ14世設立の学校

設立当初は公演を行うことが主たる役割だったオペラ座に、学校を作ることが決まったのは、本連載の第3回でご紹介したように1713年のこと。このころまで、オペラ座ではアーティストたちが守るべきことがらなどが明文化されておらず、またオペラ座の公演を担うアーティストの確保についても、文章の形で決められたものはなかったようです。至高のオペラ座には、その名にふさわしい優れた出演者が必要なのに……なんたること! そこで、ルイ14世は1713年に発行した規則集の中で、音楽(この場合は声楽)とダンス、楽器教育のための学校を、それぞれ設立することを決めました。

ただし、この最初期のエコール・ド・ダンスに通っていた「生徒」とは、すでにオペラ座に所属していたダンサーたちでした。つまり、素質ある人材(とくに子どもたち)が基礎からじっくりバレエを習う場ではなく、プロのダンサーがその技術の完成度をより高めるための場、というのが、エコール・ド・ダンスのはじまりだったのですね。とはいえ、当時は親の家業を子どもが継ぐのが一般的で、ダンサーの子どももまたダンサーになります。そのため、フランスのバレエ史家、シルヴィ・ジャク=ミオシュによると、そうした子どもたちが大人ダンサーに混じってクラスを受けることも、それほど珍しくはなかったようです。

現代ではちょっと考えられない状況ですが、当時はまだ、「大人と子どもは違う」という考え方が社会の共通認識ではありませんでした。そのため、子どもの身体発達や理解の仕方に合わせたクラスなど、存在するはずもなかったのです。

ルイ16世の学校改革

大人と子どものダンサーが同じレッスンを受ける、という(私たちからすると)カオスな状況のエコール・ド・ダンスでしたが、18世紀末に変化が訪れます。しかも、その立役者となったのは、あのルイ16世でした。

1789年に起こったバスティーユ牢獄の襲撃後、国家のあり方が大きく揺らぐ中で、1790年にルイ16世がオペラ座の運営権をパリ市に委譲し、それが結果的にオペラ座の廃止を回避する一因にもなったことについては、本連載の第6回でご紹介しました。この出来事から遡ること6年前、革命の足音が少しずつ忍び寄っていた1784年に、ルイ16世は「王立音楽アカデミーの規則を含む国務院裁決Arrêt du conseil d’état du Roi contenant Règlement pour l’Académie Royale de Musique」を発行します。この裁決の中には「メートル・ド・エコール・ド・ダンス(の役割)」と題した条項があり(裁決の第1部第10条)、そこでは以下のことがらなどが定められました。

  • 学費は無料(第1項)
  • すでに王立音楽アカデミーに在籍している場合を除き、12歳以上の人はエコール・ド・ダンスに入学できない(第2項)
  • 入学できるのは、アカデミーの委員会によって許可された者のみ(第3項)
  • メートル・ド・ダンス(注:この場合はバレエ教師の意味)は、毎朝9時に学校に出向くこと。クラスは午後1時にならないと終わってはいけない(第4項)

「王立音楽アカデミーの規則を含む国務院裁決Arrêt du conseil d’état du Roi contenant Règlement pour l’Académie Royale de Musique」の表紙。フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

入学年齢の下限については記載がないのですが、少なくともこの1784年の裁決によって、当時のエコール・ド・ダンスで、11歳以下の子どもがレッスンを受けるための決まりが出来始めたことがわかります。これは、将来的にオペラ座で踊るダンサーを早期から学校で鍛え、のちにリクルートすることを踏まえていたためでしょう。

また、エコール・ド・ダンスには、希望すれば誰でもが入学できるわけではなく、委員会からの許可がないとダメ、と明言されているのも興味深いですね。実際にどのような入学審査が行われたのか、詳細は不明ですが、おそらくは何らかの基準があり、それに沿って選抜が行われたものと考えられます。

19世紀前半の学校と生徒

19世紀に入ると、エコール・ド・ダンスではさらに教育改革が進みます。ナポレオンが皇帝となった直後の1805年から1807年にかけての時期には、入学時に6歳から10歳までの子どもが学校の生徒になれること、そして、男子のクラス、女子のクラス、アンサンブルのパの練習クラス、の3つのクラスが設置されることが決まり、生徒はそれぞれのクラスを担当する先生の指導のもと、日々の研鑽に励むことになりました。さらに1806年には、より優れたダンサーを育成するための「完成クラスClasse de perfectionnement」が設置されます。このクラスに進めるのは、13歳から16歳の生徒の中でも最も優れた素質を持つもののみ。生徒たちは職業ダンサーとしてやっていけるだけの技術を磨くだけでなく、バレエ団の最下級ダンサーとして、オペラ座での公演にも出演していました。

ただし、この頃にもまだ、入学を許可される生徒の細かい基準(身体の作りや脚の形など)はなく、また男女別のクラスというのも、実態とは異なっていたようです。少し時代は進みますが、1842年からオペラ座バレエのダンサーとして『ジゼル』のヒラリオン役などを踊り、その後、エコール・ド・ダンスの教師も務めたレオポルト・アディス先生に、19世紀半ばの生徒についてお伺いしてみましょう。先生、当時のエコール・ド・ダンスの生徒たちはどのようだったのでしょうか?

性別で分けられることもないすべての年齢の、あんなにたくさんの子どもたちに、私は恐れをなした。彼らはほとんど(身体の)作りも良くなく、貧弱で、平凡だし、骨張っていて、ふくらはぎの形もなく膝は巨大、脚はぺったんこで長く、でこぼこしている

結構な言われようですね……。レオポルト・アディスは、マリー・タリオーニの父フィリッポ(1777-1871)に指導されたダンサーで、1859年には自身のダンス理論書『劇場用ダンスの体育理論Théorie de la gymnastique de la danse théâtrale』を出版しています。そのアディスから見ると、エコール・ド・ダンスの生徒といっても、19世紀の生徒たちは、皆が必ずしもダンサーとしての条件に恵まれたものばかりではなかったのでしょう。

リシェ通りの学校校舎

では、そうした生徒たちが日々練習を重ねる学校の設備は、どのようなものだったのでしょうか? ナポレオンの支配が終わり、フランスが再び王政に戻ったのちの1819年、エコール・ド・ダンスはパリ2区(現9区)のリシェ通りに、新しく校舎を建設することになります。その際、校舎の詳細な建築設計図や予算書などが作成されており、今年(2022年)の3月にフランス国立公文書館で行った調査によって、内容を確認することができました。

筆者が2022年3月に行った調査で出てきた、リシェ通りの校舎の図面。この資料が日本語で紹介されるのはおそらく本記事が初めてだと思われます。フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

1819年7月に作成された一連の資料によると、リシェ通りに向かって入り口があるこの校舎は2階建ての建物で、2階部分まで天井が吹き抜けのレッスン室が2つありました。また、男女別の更衣室が複数あり、生徒たちはそこで普段着からレッスン着への着替えをして、クラスに出席していたようです。中でもとくに興味深いのは、2つのレッスン室の床に、どちらもしっかりと傾斜がついていること。のちのパレ・ガルニエの舞台と同様、ペルティエ通りのオペラ座の舞台も傾斜つきの床だったため、当時のエコール・ド・ダンスの生徒も、同じような舞台の床に慣れるための訓練を、早い時期から行なっていたのですね。

時期にもよりますが、19世紀のエコール・ド・ダンスの授業は、このリシェ通りの校舎と、ペルティエ通りのオペラ座の中(とくにフォワイエ・ド・ラ・ダンス *注)で行われました。その後、1875年にパレ・ガルニエが開場すると学校も劇場内に移転し、現在は、1987年に移転したパリ郊外のナンテールにある校舎で、プロのダンサーを目指す8歳から17歳までの子どもたちが日々の学業とレッスンに励んでいます。

*フォワイエ・ド・ラ・ダンス=舞台奥にある、出番前のダンサーがウォーミングアップをするスペースのこと

★次回は2022年6月5日(日)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/142 (I). « Construction Projettées sur le terrain dépendant des Menus Plaisirs du Roi, is rue Richer » et les plans. 1819.

—–. AJ/13/1886. Arrêt du conseil d’état du Roi contenant Règlement pour l’Académie Royale de Musique. 1784.

Auclair, Mathias et Ghristi, Christophe (dir.) 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris, Albin Michel.

Giroud, Vincent et Serre, Solveig (dir). 2019. La règlementation de l’Opéra de Paris (1669-2019): édition critique des principaux textes normatifs. Paris, École nationale des chartes.

Noll-Hammond, Sandra. 1995. “Ballet’s Technical Heritage: The Grammaire of Léopold Adice” in Dance Research: The Journal of the Society for Dance Research, 13, no.1. Edinburgh, Edinburgh University Press, 33-58.

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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