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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第24回〉たった2年でタリオーニに並んだ!? カルロッタ・グリジの契約書(後編)

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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先月の記事では、《ジゼル》の初演でジゼル役を踊ったロマンティック・バレエの名ダンサー、カルロッタ・グリジ(1819-1899)が、オペラ座デビューにあたって劇場と交わした契約書をご紹介しました。すでにロンドンなどの他都市で踊り評判を得ていた彼女が、1840年の末にオペラ座に足を踏み入れようとしたとき、その条件は「新人さんだったらこんなもん」という程度だった……というところで、前回は字数が尽きてしまったのですが、《ラ・ファヴォリット》バレエシーンでのデビュー、そして《ジゼル》の大ヒットは、グリジの立場や生活にどのような影響を与えたのでしょうか。先月の前編に引き続き、今回は、フランス国立公文書館が所蔵する、1841年以降にグリジとオペラ座とのあいだで交わされた契約書を参照しながら、一躍時の人となったダンサーが経験した変化を2つ、ご紹介します。

カルロッタ・グリジ(1819-1899)

ホップ・ステップ・ジャンプ! グリジとオペラ座の契約書

グリジが最初にオペラ座との契約書を交わしたのは、1840年12月のことです。そして、オペラ座公式デビューは1841年2月12日、《ジゼル》の世界初演が同年6月28日でした。その間に、グリジは一度、オペラ座との契約内容を更新しています。さらにその後、彼女は1843年5月18日付で、再度の契約更新を行いました。この流れをまとめると、下記のようになります。

【グリジとオペラ座の契約の流れ】
  • 1840年12月10日:オペラ座デビュー前の契約(契約書①
  • 1841年2月12日:オペラ《ラ・ファヴォリット》のバレエシーンでオペラ座デビュー
  • 1841年5月24日:契約更新(契約書②
  • 1841年6月28日:《ジゼル》初演
  • 1843年5月18日:契約更新(契約書③

今回は、契約書②に書かれた内容をと比較しながら、当時のグリジの状況を読み解いていきましょう。
(以下、1840年12月10日の契約書を「契約書①」、1841年5月24日の契約書を「契約書②」、1843年5月18日の契約書を「契約書③」と記します)

変化その1:グリジ、引越しをする。

読者のみなさまは、どのような時に引越しを決断されるでしょうか。お仕事やプライベートの状況の変化、あるいは気分転換に、あるいは人生の節目に……と、いろいろな理由があると思います。19世紀のバレエダンサーであるグリジにも、《ジゼル》の初演以降に、引越しをするに至る何かの理由があったようです。

1840年末にオペラ座と契約した際(契約書①)、グリジは現在のパリ9区に位置するリシェ通り42番地を住所としていました。しかし、約2年半後に作成された契約書③を見ると、彼女の住所が変わったのがわかります。この年の契約書でグリジが自らの住所としているのは、同じく現パリ9区のトレヴィス通り13番地です。

じつはこの2つの通り、互いにまったく離れていないのです。グリジの新住所となったトレヴィス通りはリシェ通りに突き当たる道であり、モンマルトルを背にしてセーヌ川方面に通りを下っていけば、リシェ通りに出たところでオペラ座バレエ学校の校舎が見える、という配置。近所どころか隣の通りなら、別に引っ越さなくてもいいじゃない? と思いますが、トレヴィス通りの家のほうが、《ジゼル》後のグリジにとっては良かったのでしょう。

余談ですが、のちにトレヴィス通りとリシェ通りが交差する場所には、画家のエドゥアール・マネやトゥールーズ・ロートレックが絵の題材とした劇場、フォリー・ベルジェール(1869年開場)が誕生します。

変化その2:グリジ、報酬額がアップする。

引越しによってグリジの住環境がどのように変化したのか、契約書からは詳細な変化を読み取ることはできません。しかし、彼女の暮らしぶりは(グリジがよほどのドケチでない限り)、契約書③が作成されるよりも前の、オペラ座公式デビュー直後に向上したと思われます。というのも、《ジゼル》初演の約ひと月前にグリジがオペラ座と交わした契約書②では、彼女の報酬に関する事項の記載内容が大きく変化しているからです。

先月の前編でご紹介した、デビュー前のグリジがオペラ座から提示された報酬額は、「月ごとの支払いで、年額5000フランà lui payer par portions égales et de mois en mois, la somme annuelle de cinq mille francs」でした。これが契約書②では、次のように改められています。

「私(注:オペラ座総裁のレオン・ピレ)は、カルロッタ・グリジ嬢を、月ごとに等しい額で、1年目は5000フラン、2年目は1万フラン、3年目は1万3000フランを固定給で支払い雇用するJe m’engage envers Melle Carlotta Grisi à lui payer par portions égales et de mois en mois, la somme annuelle de cinq mille francs pour la première année, dix mille franc pour la seconde, et treize mille pour la troisième, pour appointements fixes;」

こちらが1841年に交わされた「契約書②」。報酬額について書かれたページです。 フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

さらに契約書③では、彼女の報酬額は「年額2万フランla somme annuelle de vingt mille francs」にアップ。なんと、ありし日のマリー・タリオーニと同額の報酬(連載第16回を参照)になったのです!

こちらが1843年に交わされた「契約書③」。ついに報酬額がタリオーニと並んだ瞬間……グリジの胸にはどんな思いが去来したのでしょうか……。 フランス国立公文書館(Archives Nationales)所蔵 ©︎Tamamo Nagai

しかもグリジには固定給の他に、公演に出演することで支払われるご祝儀feuxまでつけられました。その額は、契約書②では「2年目は60フラン、3年目は80フランsoixante franc pour la seconde année et de quatre-vingt francs pour la troisième.」、契約書③では「142フランcent-quarante deux franc.」当時のフランをおおざっぱに現代の日本円に置き換えると、1フラン=だいたい1000円なので、契約書③が作成された1843年の時点で、グリジのご祝儀はワンステージおよそ15万円。真面目にオペラ座の舞台に出演していれば、それだけでも相当な額の収入になったはずです。報酬額は彼女のステータスを如実に反映しているのでした。

成功したスターダンサー

この報酬額アップが果たされた期間についても考えてみましょう。1840年末にオペラ座の(期待されているけれど、超高待遇というわけでもない)新人ダンサーとして交わした契約書①に比べ、契約書②での金銭的待遇はグッと向上しています。しかも、グリジの場合は2年目、3年目と続くオペラ座での契約を明確に示されたもの。この点から、1841年2月に行われたグリジのオペラ座公式デビューの結果が大変好ましいもので、彼女をオペラ座に留めておきたいと考えたのであろう、劇場上層部の意図が見て取れます

いっぽう、彼女が契約書③での高待遇に至ったのは、《ジゼル》の初演から2年が経過しようという時期のことでした。初演から爆発的な人気を得た作品の主役を踊っているダンサーに対する扱いとして、この劇場側の対応はちょっと遅めかな? という印象を受けます。グリジが報酬額の交渉などに対して控えめな性格だったのか、あるいはオペラ座側との協議がすんなりとは行かなかったのか、はたまた1842年やその他のタイミングで、段階を追って報酬額が上がっていたのか……。その経緯については、他の資料を見る必要があります。

いずれにしても、2年間で報酬額が4倍になる、というのは、それだけ《ジゼル》という作品が大きな人気を誇り、またその創作ダンサーであるグリジが、成功したスターダンサーだったことを示す証拠の一つと言えるでしょう。

★次回は2023年7月5日(水)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/194, Contrat d’engagement de Mlle Carlotta Grisi, 1841.

Archives Nationales. AJ/13/194, Contrat d’engagement de Mlle Carlotta Grisi, 1843.

Bibliothèque nationale de France. IFN-53085225, Nouveau plan de la ville de Paris divisé en 12 arrondissemens et 48 quartiers [Document cartographique] / dressé… par Pierre Tardieu. https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b530852257

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1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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