
(写真左から)ウェイン・マクレガー、渋谷慶一郎、妹島和世 Photo: Ayaka Endo
作曲家の渋谷慶一郎と振付家のウェイン・マクレガーが国際共同制作で新作を発表する。舞台美術は建築家の妹島和世が手掛け、世界初演は2027年。詳細は2026年に発表されるが、これに先立って、去る2025年6月9日、渋谷の音楽とマクレガーの振付によるダンス作品『COEXISTENCE』が上演された。アート、音楽、食、エンターテイメントの分野を横断し、一期一会の体験を提供する現代文化をテーマにしたイベントシリーズ「PRADA MODE OSAKA」の一環として行われた公演だ。
会場は、大阪・うめきた公園内の、長さ120メートルの大屋根がかかるイベントスペース「ロートハートスクエアうめきた」。渋谷が上手脇で演奏する中、白いステージ上で、主にモノトーンの衣裳をつけたカンパニー・ウェイン・マクレガーのダンサー5名が躍動する。奇抜な動きも多いマクレガーの振付だが、今回はあるがままの人間の存在や関係性を、虚飾なく伸びやかに描いた印象。とくに中盤までデュオが多くリフトを多用しており、そのところどころに対立や葛藤も感じさせつつ、やがて、照明や音楽の変化・展開とともに、踊りのエネルギーも上へ、外へとどこまでも広がり、飛翔していくかのよう。それはCOEXISTENCE=共生というテーマに対して、ポジティブなイメージを大いに感じさせる世界だった。
2日後の6月11日に東京で開かれた記者会見には、マクレガー、渋谷、妹島が登壇。マクレガーは「コラボレーションとは、タッグを組むアーティストの手法に、時間をかけて自分を没入させること。私は自分のダンサーたちとは一緒に長い時間を過ごす中でよく理解しているわけですが、そのダンサーたちを通して渋谷さんの音楽にどう関わり、どうリアクションを取っていくのかについては、様々な可能性がある。『COEXISTENCE』ではその可能性の1バージョンを観ていただいたわけです」とし、今後創作される新たな作品については「演出というより、自分と渋谷さんと妹島さんの3人のアイディアをどう紡ぐか。可能性を模索し、コラボレーションのための場を開いていく立ち位置になると思う」と述べた。

記者会見に登壇したウェイン・マクレガー Photo: Ayaka Endo
未発表、未確定のことが多いが、2027年初演が今から楽しみな、国際的ビッグプロジェクト。ここからは、その発案者である渋谷のインタビューをお届けする。

渋谷慶一郎 Photo: Grégoire Alexandre
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- マクレガーさんとの初めてのコラボレーションである『COEXISTENCE』を経ての手応えや、見えてきたものについて、教えて下さい。
- 渋谷 率直に相性がいいなと思いました。今回は時間がなかったので、あらかじめ僕が送った音楽に彼がロンドンで振付けて、僕がダンサーの動きを見たのは本番の1日前。そこからその場でシンセサイザーで音を足すなどして演奏したのですが、この過程を通して、動きに対して音楽を作るという作業が自分にはすごく向いているかもしれないというか(笑)、積極的に取り組むことができたので、2027年の舞台でも良いものができるんじゃないかな、と感じました。
- ダンサーの動きを見て新たに音を足した、その時の感触が良かったということでしょうか?
- 渋谷 それもそうですし、そもそも僕の音楽自体、作曲する時の要素として、音の組み合わせだけではなく音の持つ「身振り」というか、音の動き、フローが大きな位置を占めています。例えば即興でピアノを弾く時、この音を組み合わせてこのメロディーを入れて……というふうに演奏すると、だいたいろくなことにならない。ピアノの椅子に座らず立って弾いて、鍵盤も見ずどの音を弾くかわからない状態でも、自分の身体の動きが自然に流れていると、どんな音を弾いても音楽と空間はうまく出来上がっていく。
そういう僕の音楽の性質とダンスは合うなと、今回、確信したわけです。『COEXISTENCE』は完全にアブストラクトな作品だったのに、すごくオーディエンスの反応が良かったので、ダンスとやることで僕の音楽が可視化され、人に伝わりやすくなるのではないかと思いました。
- 次の作品は、2022年に渋谷さんが作曲した新国立劇場のオペラ『Super Angels スーパーエンジェル』が企画の発端になっているそうですね。
- 渋谷 『Super Angels スーパーエンジェル』はCOVID19のために万全の状態で創作できず悔いも残ったので、リメイクしたいとの思いからフランスのユニバーサルミュージックとプロジェクトを進め始めたんです。その中で「演出は誰と一緒にやりたいか」と尋ねられて、長い間、YouTubeやInstagramで見て「かっこいいな」と思っていたウェイン・マクレガーの名前を出しました。連絡を取ってみると、彼は僕が2017年にパリ・オペラ座のエトワールであるジェレミー・べランガールの引退公演で演奏していた時期に劇場にいたそうで、すぐに意気投合し、やろうということになりました。彼はいわゆる“職人”みたいな人ではなくて、その時その時の自分の興味や基準に従っていろいろなことをやっているという意味で、僕と近いと感じています。
あと、多くの人はアンドロイドが自分の振付や演出に応えられるかと聞いてくるけど、彼は最初にアンドロイドと会った時、「このアンドロイドの奇妙な動きをダンサーに学習させる」と言っていて、“クラシック一本”の人たちとはパースペクティブが違うのと、オープンなところに感激しました。
オペラを作るということで始まったけれど、僕は別にオペラの作曲家ではないし、彼はダンスの人。それも、基本的にはバレエではなくコンテンポラリーダンスの振付家であり演出家です。なので、今は、オペラやバレエという形式自体を脱構築するような作品になったらいいんじゃないかと話しています。

マクレガーが率いるダンスカンパニー、Comany Wayne McGregorによる「Deepstaria」 Photo: Ravi Deepres
- 『Super Angels スーパーエンジェル』では、アンドロイドの“オルタ3”とカウンターテノールの藤木大地さんが共演しましたが、カウンターテノールは西洋の伝統を踏まえているにも関わらず、その声の響きやフラットな歌い方によってアンドロイドとの間に親和性が生まれていて面白かったです。次の作品では渋谷さんが制作した「アンドロイド・マリア」が出演するそうですが、人間の声とのバランスはどのように構想していますか?
- 渋谷 現時点では、アンドロイドが歌うことは決まっているけど、人間の歌手が必要かどうかは検討しているところです。さらにはダンサーも呟いたり言葉を発したりするというイメージをしています。どこまでがダンスでどこまでが歌か分からない、フレームが揺れ動くような形をイメージしています。

アンドロイド・マリア ©ATAK
- 渋谷さんが作曲した初音ミク主演のボーカロイド・オペラ『THE END』(2012年)の際の拙インタビューでは、企画の理由を「単純に誰もやっていないから」とおっしゃっていました。その後もAIを搭載した人型アンドロイドがオーケストラを指揮しながら歌うアンドロイド・オペラ®︎『Scary Beauty』(2018年)、今も話に出た『Super Angels スーパーエンジェル』や『MIRROR』と、ボーカロイドやアンドロイドをモチーフにした創作を続けているところを見ると、ご自身の中でもどんどんテーマとして深まっているのでしょうか?
- 渋谷 ヨーロッパの芸術では人間の身体と人間の物語が常に真ん中にいますが、僕は西洋音楽を勉強し、西洋で活動している日本人だから、違うパースペクティブを提示しないと意味がない。そういう意味で、人間だけが中心ではない芸術のフォーマットを提示することが、有効だと思っています。自分に対してもオーディエンスに対しても、常に問いになるようなものを作りたくて、その一つとしてやっぱり西洋の伝統的なスタイルには物申したい気持ちがある。
それから、『THE END』からずっと関心を持っているのは、終わりとは何かということです。それは生命的な終わりであったり、地球だったり世界だったり、あとはマインドだったり、と色々な視座がありますが、音楽には必ず終わりがあるので、それを表すことは大きなテーマとしてとらえています。
- その終わりとは、再び始めるための終わりである可能性もありますか?
- 渋谷 次の作品の場合は、本当に1時間後にすべてが終わるという時、どんな言葉や動きを発するのか、シミュレーションしてみようと話し合っています。ウェインに最初に話した時には「So stressful!」と言われたけれど(笑)。あと1時間後に何もかもが完全に終わるという時、どういうことを考えたり歌ったりするのかということに興味があります。
- 世界の完全な終わりというのは、誰も知らない感覚ですね。
- 渋谷 でも、誰もが想像している感覚ですよね。今だって世界中が、離婚寸前の夫婦みたいな感じだから(笑)。
- ロボット、アンドロイドなどを扱うとディストピア的な方向に行く人が多い中、渋谷さんはそれだけではないというか、最終的にはむしろポジティブにとらえるというか、何か希望を残したものにする印象があります。
- 渋谷 避けようのないことだったら、なるべく美しいプロセスを描きたい。世界が物凄い速さで終わりに向かっている現在だからこそ、美しいことは新しい意味を持ち得るし、新しい美しさみたいなことも考えられるのではないでしょうか。僕は音楽の中で、やはりノイズの可能性は使い尽くされていないと思う反面、世界が壊滅的にノイジーな状況な中、それだけでは表現が成立しないことにも自覚的です。「大きな物語は死んだ」という荒涼とした時代を経て、もう一度「人にはどのような物語が可能か?」と問う時代がしばらく続き、それなりの成果と弛緩が一巡したのが現在ですが、世界の状況はあまりにも壊滅的な物語に突入していて、僕には表現上の安易な物語化がすべて陳腐に見えるのです。これから制作に入りますが、多様なノイズ、破壊、解体を内包した新しい感触ができることを予感しています。

Photo: Ayaka Endo