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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第20回〉ロマンティック・バレエの名ダンサー、マリー・タリオーニ

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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16世紀以降のバレエの歴史を辿っていくと、その歴史を塗り替えることになったバレエ作品がたびたび登場します。時代や地域によって、それらの作品の趣は様々ですが、どの作品にも共通しているのはやはり、「それまでにない、革新的なこと」を含んでいる、という点でしょうか。

19世紀フランスの場合、そうした「歴史を変えたバレエ作品」の筆頭に挙げられるのが、1832年にパリ・オペラ座で初演された《ラ・シルフィード》です。白くふんわりとしたチュチュ、トウシューズでのつま先立ち、軽やかに舞台上を飛び回るダンサー……そして、「バレエ」のイメージに欠かせないこれらの要素とともに、歴史にその名を刻んだ一人のダンサーが、パリ・オペラ座の舞台に君臨しました。今回は、《ラ・シルフィード》のタイトルロールを踊り、ロマンティック・バレエの時代を代表するダンサーの一人となった、マリー・タリオーニ(1804-1884)についてご紹介します。

マリー・タリオーニ(1804-1884)

生涯をざっとおさらい

マリー・タリオーニは1804年4月23日、スウェーデンの首都であるストックホルムに生まれました。姓の綴りの「Taglioni」が示すように、彼女の父親フィリッポ(1777-1871)はイタリア出身で、18世紀末から19世紀初頭にかけてのパリで名教師として知られた、ジャン=フランソワ・クーロン(1764-1836)に師事したダンサーです。いっぽう、母親のソフィ・カルステン(1783-1862)はスウェーデンの出身で、彼女もまた、ダンサーとしてストックホルムの王立劇場で踊っていました。

プロのダンサーとしてウィーンでデビューしたタリオーニは、その後、ミュンヘンやシュツットガルトといったドイツ語圏の街で活動し、徐々に評判を得ます。晩年の彼女が執筆した回想録によると、パリ・オペラ座への道が開けたのは、シュツットガルトで踊っていた1826年頃のことだったそう。当時のオペラ座総裁と親しかった人物が、シュツットガルトでの彼女の踊りを見て、パリへの道を開いてくれたのでした。最終的に、タリオーニは1827年に劇場と正式な契約を結び、弟で同じくダンサーのポール(1808-1884)と共に、7月23日にオペラ座でのデビューを果たしました。

オペラ座におけるタリオーニの活躍については、私たちも良く知る通りです。1831年、彼女はマイヤーベーア作曲のオペラ《悪魔のロベール》第3幕のバレエ・シーンで修道院長エレーヌ役を踊り、一躍有名になると、翌年3月12日に初演された《ラ・シルフィード》で、爆発的な人気を得るに至ります。タリオーニ自身は1847年にダンサーとしての現役を引退しますが、オペラ座の記録によると、作品自体は1860年までレパートリーとして上演されていました。

タリオーニが亡くなったのは1884年4月22日、南仏の港町のマルセイユでのことでした。ほとんど80歳まで生きた、というのは大往生ですね。じつは彼女だけでなく、両親も弟も当時としては長寿だったのですが、それは若い頃からダンサーとして鍛えた体力があったためかもしれません。実際、彼女の徹底したトレーニングについては、幼い頃からの多くのエピソードが残されています。では、ロマンティック・バレエの時代を代表するダンサーである彼女の舞踊技術は、どのように作り上げられていったのでしょうか?

タリオーニのバレエ・レッスン

子どもは親の職業を継ぐのが一般的だった19世紀において、タリオーニのダンサーとしての教育は、父フィリッポの家系を通して受け継がれたものが主だったと考えられます。フィリッポの父カルロは、イタリアの様々な劇場に出演していたダンサーでしたし、タリオーニの叔父であるサルバトーレも、イタリア南部の都市ナポリにある名オペラ劇場、サン・カルロ劇場のバレエ学校で教師職についていました。

19世紀初頭のバレエ・レッスンにおける技術的トレーニングに詳しい、舞踊史家のサンドラ・ノル=ハモンドによると、当時、パリでのダンサー育成の目標は「名人芸的な技術やスタイルの融合が、無理なく優雅に見えること」で、18世紀ごろまではアクロバティックにも思えた踊りのテクニックを、いかにエレガントに見せるか、が重要なポイントだったそうです。そのために重視されたと思われるのが、下半身および脚の動きです。

ノル=ハモンドはレオポルト・アディス(本連載の第12回で、エコール・ド・ダンスの生徒たちについて激辛コメントをした、あのアディス先生です)の回想を参照しているのですが、それによると、19世紀前半のバレエ・レッスンでは、バーではバットマン・タンデュやグラン・バットマン、ロン・ド・ジャンブなどを、様々な速度と種類でひたすら繰り返したのだとか。この「様々な速度と種類で」というのが凄まじく、「128のグラン・バットマン」や「256のロン・ド・ジャンブ」が、センターに行く前のウォームアップなのだそう。128や256という数字が具体的に何の数なのか資料には書かれていませんが、8カウントや16カウントで割り切れる数字であることを考えると、回数のことを指しているのかもしれません(ウォームアップにしてはやりすぎでは……?)。

そしてセンターでも、同様の練習を繰り返したのちに、「様々なポーズでバランスの取れた動きを保持する力を発展させるために考えられた、一連の長いコンビネーション」や、ピルエット、素早く小さなパを様々な方向で行うアンシェヌマンなどが続きました。アディスはタリオーニの父、フィリッポの指導を受けているので、タリオーニ自身も同じようなレッスンを行っていたと考えても、不自然ではないでしょう。

また、彼女が日々行っていた練習として、「両手で床に触れることができるくらい、背中を曲げずにひざだけで可能な限りゆっくりと深くプリエし、その後、つま先立ちの極地まで、楽に、滑らかに、ゆっくりと立ち上がる」というものもありました。おそらくこれは、現代のグラン・プリエの状態から、ドゥミ・ポワントかそれ以上の状態に上がる、ということだと考えられるのですが、ノル=ハモンドの指摘によると、タリオーニのこの練習は、かなり珍しいものだったようです。というのも、当時のプリエはかかとを床から一切上げずに行うのが一般的で、イタリアの舞踊理論家、カルロ・ブラジス(1797-1878)も、足の5つのポジションを取るさいには、「かかとを上げないでひざを曲げなければいけない」と述べているとのこと。ここでもやはり、タリオーニが行っていたエクササイズが、脚の強化に重点を置いていたのであろうことが分かります。

タリオーニとトウシューズ

その彼女の強靭な足を支え、ロマンティック・バレエの時期以降、「バレエ」のイメージを代表するアイテムの一つになったのが、トウシューズです。現代のトウシューズは、完全に脚のつま先で立てるように、シューズ自体に様々な補強がなされていますが、タリオーニが《ラ・シルフィード》を踊っていた時期には、まだそのような強いシューズはありませんでした。実際、東京のアーティゾン美術館で2月5日まで開催中の「パリ・オペラ座展」で展示されている、タリオーニが着用したとされるトウシューズ(オペラ座図書館所蔵)は、裏は全面にしっかりした革が貼られているものの、シューズの素材自体は柔らかくぺたんとしたサテンで、つま先もペラペラです。そのため、「ポワント」と言っても、現代のポワントで出来る全ての舞踊技術が、この時代のトウシューズでも可能だったわけではない、ということは、踏まえておく必要があるでしょう。

オペラ座で活躍していたときのタリオーニは、パリの「ヤンセンJanssen」という靴職人のところで、彼女のトウシューズを作成してもらっていました。彼女いわく、ヤンセンはパリでは唯一、トウシューズを完璧に作る方法を知っている職人だったとのこと。オペラ座図書館が所蔵しているシューズもこのヤンセン製で、タリオーニは一晩で2〜3足を使っていたそうです。現役時代のタリオーニは多くの舞台に上がっていたので、トウシューズの消費量もかなりのものになったでしょうが、彼女も、シューズを長持ちさせるためにつま先部分にステッチを入れていました(自ら縫ったり、元ダンサーの知り合いに頼んだりしていたそうです)。現代のダンサーたちが行う作業と似たようなことを、タリオーニもやっていたのですね。

なお、オペラ座図書館には、他にもタリオーニが着用した黒のトウシューズや、タリオーニのライバルとなったダンサー、ファニー・エルスラーのトウシューズ、タリオーニの弟子のエマ・リヴリーのトウシューズも所蔵されています。ロマンティック・バレエ時代の名花たちを支えたトウシューズ、機会があればぜひじっくりと見てみてください。

★次回は2023年3月5日(日)更新予定です

参考資料

F-Pn: IFN-52517876. Chaussons de danse ayant appartenu à Marie Taglioni. 1 paire de chaussons en satin blanc ; 23 cm, Signature de la Taglioni à l’intérieur des deux chaussons.

Noll Hammond, Sandra. 2012. “Dancing La Sylphide in 1832: Something Old or something New?” in La Sylphide Paris 1832 and beyond, Ed. By Marian Smith. London, Dance Books, pp.31-56.

Taglioni, Marie. 2017. Souvenirs Le manuscrit inédit de la grande danseuse romantique, Edition établie, présentée et annotée par Bruno Ligore. Paris, Gremese.

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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