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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第34回〉「バレエはイタリアで生まれ、フランスで育ち……」と言うけれど。

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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「バレエはイタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで完成した」。このフレーズ、バレエの歴史に少しでも関心のあるみなさまなら、一度は耳にしたり目にしたりしたことがあるのではないでしょうか。たいていのバレエ史本で書かれるこの一文が示すように、イタリア、フランス、ロシアの3つの国は、バレエの歴史をたどる上で欠かせない重要な国々です。

ただ、バレエの歴史をその起源からずっと追っていると、フランスとロシアの圧倒的な存在感に対し、イタリアのバレエは、16世紀ごろを境に、歴史上で触れられる機会ががぜん少なくなります。もちろん、現在のイタリアには、ミラノ・スカラ座バレエをはじめバレエ界に燦然と輝く著名バレエ団があり、またカルラ・フラッチ、ロベルト・ボッレ、アレッサンドラ・フェリなど、スーパースターダンサーが続々と登場し続けていますが、「発祥の地」なのに、17世紀以降、19世紀までのイタリアのバレエって、どこにいっちゃったの???

その「どこかにいってしまった」イタリアのバレエ、じつは19世紀のパリ・オペラ座に対して非常に大きな影響を及ぼしているのです。今回は、オペラ座とイタリア・バレエの深い関係(の一部)を、資料をもとにご紹介します。

フランスとイタリア、社会と政治的な違い

バレエがイタリアからフランスへ輸入されたのは、フィレンツェの豪族、メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスが、フランス王アンリ2世のもとへ嫁いだ時期、といわれます。この時期以降、バレエ史ではルイ14世による王立舞踊アカデミー設立の許可(1661年)と「5つの足のポジション」の整備、王立音楽アカデミーの設置(1672年)、フランス革命を経て19世紀前半のロマンティック・バレエの大流行……と、主としてフランスでのバレエの展開にスポットが当てられていきます。そしてバレエ文化も、19世紀後半に至るまではパリ、とくにパリ・オペラ座を中心として、フランスで大きく発展していきました。

いっぽう、同時期のイタリアでのバレエについては、ミラノやナポリといった都市でのバレエ文化が折に触れて言及されたり、個別のダンサーや振付家の名がしばしば語られたりします。ただし、イタリア全体でのバレエ文化の動きについては、一般的なバレエ史の本を眺めているだけでは、なかなか様子が見えてきません。

ここで注目したいのが、17世紀〜19世紀前半ごろまでの、フランスとイタリアの社会・政治状況の違いです。首都のパリを中心に、中央集権型の国家体制が17世紀には出来上がっていたフランスに対し、イタリアは、規模の大きい地方都市を中心とした小さな国に分かれた状態が続いていました。こうした都市国家の中には、ヨーロッパの別の国からの支配下に置かれていたところもあります。今の私たちがイメージする、長靴のような形の国土を持つ国のイタリアが出来たのは、19世紀の後半になってからのことでした。ですので、「イタリアの」バレエ、といっても、実態は都市ごとの情報を整理していかないと、全貌は見えてこないのですね。

ミラノ・スカラ座とブラジス

18世紀から19世紀のイタリアにおいて、とくにバレエと深い関わりを持った街としては、まずミラノが挙げられるでしょう。

18世紀初頭からオーストリアの支配を受けていたミラノでは、帝国首都のウィーンとの繋がりを保ちながら、多くのバレエダンサーや振付家が登場します。たとえば、ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(マリー・アントワネットのダンス教師、本連載の第4回参照)とのバレエに関する論争で有名なガスパロ・アンジョリーニ(1731-1803)や、作曲家のベートーヴェンが手がけた唯一のバレエ作品《プロメテウスの創造物》で、振付を担ったサルヴァトーレ・ヴィガーノ(1769-1821)は、後年、ミラノ・スカラ座でメートル・ド・バレエを務めています。しかしなんといっても、ミラノのバレエの歴史に欠かせないのは、1813年創立のスカラ座舞踊学校と、振付家で舞踊理論家のカルロ・ブラジス(1797-1878)の存在でしょう。

カルロ・ブラジス Carlo Blasis(1797-1878)

現在のスカラ座は1776年に当時のオーストリア皇帝のマリア・テレジア(アントワネットのお母さんですね)の命によって建設されたもので、19世紀以来、世界中のオペラ歌手が一度は舞台に立つことを夢見るオペラの殿堂として、音楽界に君臨してきました。このスカラ座に舞踊学校を開設したのはベネデット・リッチという興行師で、ここから19世紀のスターダンサーが多く生まれることになります。

そのスカラ座舞踊学校で、19世紀の半ばに校長を務めたのが、ブラジスです。ナポリに生まれ、フランスでバレエ教育を受けたブラジスは、オペラ座で踊ったのちにミラノ・スカラ座のダンサーとして活躍しました。さらに彼は、1820年に『舞踊芸術の基礎・理論・実践』と題した舞踊理論書を出版するのですが、この中でブラジスは、バレエのアティテュードのポーズについて情報を整理したと言われています。

片脚を軸にして立ち、もう片方の脚を体の前や後ろに上げるアティテュードは、バレエのさまざまなポーズの中でも、アラベスクとともに極めて「バレエっぽい」ポーズ。ブラジスはこのポーズを、16世紀に活躍した彫刻家であるジャンボローニャの手によるメルクリウス(マーキュリー)像から考案されたもの、としています。

イタリア系スター名鑑の19世紀オペラ座

ブラジスのレッスンは非常に厳しいものだったと言われており、実際に彼の指導下で育ったダンサーの中には、19世紀半ば〜後半にパリ・オペラ座の舞台で大活躍する者が少なくありません。その一部をちょっと挙げてみると……

  • ファニー・チェリート(1817-1909):《コッペリア》の振付家、アルチュール・サン=レオンの妻になったダンサーで、ロマンティック・バレエ時代を代表する一人です。
  • カロリーナ・ロザーティ(1826-1905):1850年代のオペラ座に欠かせないバレエダンサー。《海賊》の初演時に、メドーラ役を踊り大成功を納めました。
  • アマーリア・フェラリ(1828-1904):ロザーティのライバル的存在で、超絶技巧派として評判を取りました。1862年に遣欧使節団としてやってきた侍たちがオペラ座で観劇したのが、このフェラリです。

ブラジスの弟子に限らず、「イタリア系ダンサー」というところまで範囲を広げてみると、19世紀のパリ・オペラ座に登場したスターたちは、《ジゼル》のカルロッタ・グリジ、《コッペリア》のジュゼッピーナ・ボザッキに始まり、ソフィア・フォーコ(1830-1916)、アミーナ・ボチェッティ(1836-1881)、リタ・サンガリ(1849-1909)と、ぞろぞろいます。そういえば、《ラ・シルフィード》のマリー・タリオーニも、イタリア系の血筋をひいていますね。

オペラ座におけるこのようなイタリア人ダンサーの系譜は、20世紀前半まで途切れることなく続きます。カルロッタ・ザンベリ(1875-1968)は代表的な例で、彼女の名前がついたパレ・ガルニエ内のバレエ用稽古場、「ロトンド・ザンベリ」をご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。また、女性ダンサーばかりが目立ちますが、本連載でたびたび名前が上がるオペラ座バレエ学校の毒舌教師、レオポルト・アディス(本連載の第12回参照)もイタリア出身で、ナポリのサン・カルロ劇場でキャリアを積んだのちにパリにやってきた人です。

オペラ座がイタリア・バレエの教育方法を真似していた…?

ところで、次々とオペラ座の舞台に登場するイタリア系(特に女性)スターダンサーたちを、当時のオペラ座はどのように考えていたのでしょうか? まがりなりにも17世紀からの輝かしい歴史を持つ「バレエの殿堂」パリ・オペラ座は、フランス第一の劇場であり、付属のバレエ学校もあって、これまでにも数多のスターを自前で輩出してきました。

しかし、押し寄せるイタリア系スターダンサーの波に対して、この時期のオペラ座バレエ学校からは、生え抜きのスターと呼べるダンサーが、わずかしか登場しません。特に女性ダンサーに関しては、(「マダム・ドミニク」ことキャロリーヌ・ラシアのような中堅はいるものの)完全にイタリア系のダンサーたちにお株を奪われた状態です。

劇場経営の面々にとっては、バレエ学校育ちだろうが、外部からのスターだろうが、話題と評判になるダンサーがいて、チケットの売り上げがよければそれで良し。ただ、いっぽうで「なぜイタリアのダンサーたちにはスターが多いのか……?」とも思っていたのでしょうか、じつは19世紀半ばのオペラ座では、イタリアのバレエ学校の教育方法を参考にしようとしていた形跡があるのです。

実際、フランス国立公文書館が所蔵するオペラ座関連の資料の中からは、「ミラノのバレエ学校」の規則集と、それをフランス語に翻訳したものが見つかっています。この資料、現在必死に(笑)手書きとタイプ打ちのイタリア語を解読していますので、詳しい内容が分かりしだい、どこかで何かの形にまとめたいと思っています。

★次回は2024年5月5日(日)更新予定です

参考資料

Archives Nationales. AJ/13/479, Regolamento per la scuola di ballo in Milano.

Archives Nationales. AJ/13/479, Lettre de Léopold Adice, datée 19 Mai 1858 (19 Maggio 1858).

デッラ・セータ、ファブリツィオ、2024年。『19世紀イタリア・フランス音楽史』、園田みどり訳。東京、法政大学出版局。

ノヴェール、ジャン=ジョルジュ、2022年。『ノヴェール 「舞踊とバレエについての手紙」(1760年)全訳と解説』森立子編著・訳。東京、道和書院。

ミラノ・スカラ座公式ウェブサイト https://www.teatroallascala.org/it/index.html (2024年3月14日最終閲覧)

譲原晶子、2007。『踊る身体のディスクール』東京、春秋社。

 

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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