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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第31回〉「コッペリア」「シルヴィア」の作曲家、ドリーブの生涯とその偉業。

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

バレエチャンネル読者のみなさまが、「バレエ音楽の作曲家ベスト5をあげてください」と言われたら、誰の名前を思い付きますか? 《白鳥の湖》や《眠れる森の美女》、《くるみ割り人形》を作曲したチャイコフスキー、《ジゼル》のアダン、《ライモンダ》のグラズノフ、《ロメオとジュリエット》のプロコフィエフ、はたまた《春の祭典》のストラヴィンスキー……他にも、もともとはバレエ曲としては作られていない音楽作品が、バレエの中で親しまれている作曲家も多いですよね。

バレエ作品にとって、音楽は不可欠な要素。19世紀のパリ・オペラ座でも、数々の作曲家たちがバレエの音楽を手掛けました。とりわけ、レオ・ドリーブ(1836-1891)の名は、みなさまにもおなじみではないでしょうか? 名前にピンと来なくても、音楽を聴けば、「あっ、あの曲!」となる方が少なくないと思います。

レオ・ドリーブ Léo Delibes(1836-1891)

ところが、その知名度に反して、彼の人生の歩みや作品が広く知られている……とは言い難いのも事実です。今回は、《コッペリア》《シルヴィア》の作曲家であるドリーブの生涯とその仕事を、2018年に出版された、初の本格的な研究書などをもとにご紹介します。

音楽家としてのスタート

1836年、ドリーブはフランス中部のロワール地方に位置する、サン=ジェルマン=デュ=ヴァルという町に生まれました。ロワール地方といえば、世界遺産にも認定されている溪谷と、川に沿って建つ古城の数々で知られる、風光明媚な地域。《眠れる森の美女》の城のモデルとなったユッセ城があるのも、このロワール地方です。

ドリーブと音楽との繋がりは、母方の家系で育まれたものでした。彼の祖父はナポレオン1世の礼拝堂専属歌手、叔父はオルガン奏者、母はプロでこそないものの、才能ある音楽愛好家だったのです。この叔父と母が、ドリーブの音楽教育を後押ししました。そして、彼は19世紀の音楽家教育の王道コースに従い、パリ音楽院への入学を目指すことになります。

パリ音楽院は、現在のパリ国立高等音楽・舞踊学校の前身となった学校です。19世紀には、ヨーロッパにおいても最高峰の音楽院のひとつで、フランスはもちろん、周辺の国々からも入学希望者が集まる学校でした(もちろん現在も)。ドリーブも1848年に、音楽の基礎能力を養う訓練の一つである、ソルフェージュのクラスへの入学を許可されます。

音楽院でのドリーブは、登録したクラスによって成績に差がある学生でした。ソルフェージュや和声学などのクラスでは高評価を得るいっぽうで、ピアノのクラスでは教師から散々な言われよう、でもオルガンのクラスでは誉められて……というガタガタっぷり。そんな中、ドリーブは作曲の師となる人物に出会います。その師こそが、《ジゼル》の作曲家のアドルフ・アダン。19世紀を代表するバレエの音楽を作曲したアダンとドリーブは、じつは師弟関係にあるのです! バレエファンとしては非常に胸熱なポイントですね!

アドルフ・アダン Adolphe Adam(1803-1856)

ドリーブがアダンに習うことができたのは、たった2年間と短かったのですが、アダンはドリーブに目をかけていたようです。ドリーブは1855年から、パリのテアトル・リリック座という劇場で、オペレッタやオペラ・コミックといった音楽劇の稽古伴奏者として働き始めるのですが、その職にドリーブを推薦してくれたのも、アダンだったと考えられています。この仕事を皮切りに、ドリーブはパリのさまざまな歌劇場と縁を持つことになるので、後世の我々としては、「師匠グッジョブ」としか言いようがありません。

こうしてプロの現場で働き始めたドリーブは、作曲家としても主に舞台もののジャンルを手掛け、活躍し始めます。残念なことに、今日では演奏されることがなくなってしまった作品ばかりですが、1856年の《二人の老看護婦》、1859年の《フォランビッシュ風オムレツ》、1862年の《我が友ピエルロ》などが、ドリーブの初期キャリアを代表する作品です。

オペラ座、そしてバレエの作曲へ

1863年には、ドリーブはテアトル・リリック座での仕事を離れ、オペラ座の副合唱指導者のポストを得ました。彼にとって、「国の第一劇場」であるオペラ座での職は、大きな肩書きになりました。それだけでなく、ドリーブは当時のオペラ座総裁、エミール・ペランに、作・編曲家としての才能を認められ、バレエの編曲や改訂にも携わります。

こうした経験を踏まえ、満を辞してドリーブが作曲した初のバレエ作品が、1866年初演の《泉》です。この作品、2012年にジャン=ギョーム・バールの振付により、オペラ座で改訂上演されたので、タイトルをご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。初演時の振付はアルチュール・サン=レオン、台本はシャルル・ニュイッテル、稽古指導はリュシアン・プティパ、主役のナイラ役として当初予定されていたのは、人気ダンサーのアデル・グランツォフ(グランツォーワ)という、なんとも豪華なメンバー揃い。このとき、ドリーブは、《ラ・バヤデール》などの作曲家であるリュドヴィク・ミンクスと共作で音楽を担当しました。ただ、初演を報じた新聞評などによると、ドリーブが作曲した部分の音楽は、ミンクスのものよりもずっと評判だったのだとか。ミンクスの「ぶんちゃっちゃ♪」な音楽を聴くと、さもありなん、というエピソードです……。

バレエの分野におけるドリーブの2作目の仕事となったのが、1870年初演の《コッペリア》です。この作品でも、ドリーブはサン=レオンとニュイッテルのコンビとともに制作に取り掛かりました。物語のアイデアは、ニュイッテルのもとで1867年には構想されていたのですが、ドリーブの筆が遅く、なかなか制作が進みません。イラついたサン=レオンは、「彼(ドリーブ)はオーケストレーション(注:ピアノ用の楽譜からオーケストラの各楽器用の編曲をすること)は終えたのですか? 急かしてくれ」「ドリーブは仕事をしていないのでは? 早くさせてください」「ドリーブを急かしてくれ、私が(パリに)到着する前に準備が終わっているように」と、ブチ切れモード寸前な手紙を、何度もニュイッテルに宛てて送っています。

ドリーブの仕事がゆっくりだったのは、音楽をかなり念入りに作り込んでいたためと思われるのですが、ロシアとフランスとの行き来で多忙なサン=レオンには、我慢ならなかったのでしょうか。ともあれ、作品は1870年5月25日に初演され、ドリーブの音楽も高い評価を得ます。ところが、《コッペリア》初演直後の1870年7月19日、フランスはプロイセンとの戦争に突入し、オペラ座は9月から閉鎖されることになってしまいました。

踊りと音楽のための《シルヴィア》

オペラ座の閉鎖は翌71年7月まで続きます。その間に、ドリーブは結婚してフランス北部のノルマンディー地方で過ごしたり、オペラ座での副合唱指導者職を辞して、ウィーンで仕事をしたりしていました。

ドリーブの3作目にして最後のバレエとなったのは、《シルヴィア》です。1874年10月、ペランのあとを継ぎオペラ座総裁となったアランツィエは、「新しいオペラ座のための、神話的テーマによるグランド・バレエ」の制作を発表しました。パリのバレエファンのあいだでは、台本はジュール・バルビエと匿名の人物(実際には、ジャーナリストで銀行家のバレエ愛好家、ジャック・ド・レイナッハ)が手掛けること、主演はオペラ座の新たなスターダンサー、リタ・サンガリが務めることなどが、瞬く間に広まります。

ドリーブも、「音楽家を喜ばせるためにすべての努力をしよう!」と気合いを入れて作曲を始めました。この言葉にも反映されているように、ドリーブは《シルヴィア》の作曲において、演奏者たちの意見を聞き、「オペラ座オーケストラにふさわしい作品」を作ることを考えていたようです。

この考え方は、バレエ音楽の作曲家としては、かなり大胆だと言えるでしょう。というのも、一般的に、舞踊芸術であるバレエの音楽は、「踊るためのもの」と捉えられているためです。音楽面での面白さや独自性は、時として犠牲になることもあり、歴史的にも、バレエ音楽の作曲は「二流の作曲家の仕事」で、バレエ音楽は「質の低いもの」とされてきました。

いっぽう、《シルヴィア》でドリーブが目指したのは、踊りのためにも音楽上も工夫された楽曲でした。ドリーブの研究者であるポリーヌ・ジラールも、「(登場人物による)アクションの単なる描写からはほど遠く、人物の感情や心理面の展開の表現に関心が向けられるようなやり方」をドリーブが心得ていたことが、《シルヴィア》の音楽に見られる独自性である、と指摘しています。

オペラ座での《シルヴィア》の初演は、1876年6月に行われました。フランス国内では、《コッペリア》のような大成功を収めることはできなかったものの、《シルヴィア》は、同年10月以降にウィーンやハンガリーで行われた公演によって、評判の一作となります。そうした公演のうちの一つを観劇したのが、「三大バレエ」の作曲家、ピョートル・チャイコフスキーでした。

「ウィーンで、レオ・ドリーブのバレエも“聴き”ました。じつは、本当に“聴いた”のです。というのも、これは音楽が主要であるだけでなく、唯一の興味深い点であるバレエとして、史上初のものだからです。何たる魅力、何たる優雅さでしょう。旋律やリズム、和声に満ち溢れて……私は恥ずかしくなりました。もし私がこの音楽をもっと前に知っていたら、私は《白鳥の湖》など書かなかったでしょう」(1877年12月、チャイコフスキーが友人に宛てた手紙より)

その後のドリーブ

《シルヴィア》ののち、ドリーブはバレエの作曲から離れ、1880年には《ニヴェルのジャン》、1883年には《ラクメ》、という2つの代表的なオペラを作曲します。さらに、母校のパリ音楽院で後進の育成にも励み、多くの生徒を育て上げました。名誉ある仕事にも恵まれ、作曲家として満ち足りた生活を送っていたドリーブ。ですが、死の瞬間は突然やってきます。1891年1月15日、音楽院へ出勤する準備をしていたドリーブは、急に激しい頭痛に襲われ、ベッドに倒れ込み、そのまま意識を失います。彼の妻のエルネスティーヌが助けを呼びに行くものの、作曲家の意識は戻らず、翌16日の午前3時に54歳の生涯を閉じました。

ドリーブがなし得たバレエ音楽の発展は、19世紀のフランス・バレエだけでなく、バレエの歴史上でも、大きな貢献の一つだったと言えるでしょう。とくに《シルヴィア》に関しては、もっと音楽面からの再評価がなされるべきだと、個人的にも思います(そのうちちゃんと研究したいですね)。それだけに、今日ドリーブの音楽が聴かれる機会が非常に少ないのは、とても残念なこと。フランスでは少しずつドリーブへの再評価が始まっているようなので、これからの展開に期待したいところですね。

★次回は2024年2月5日(月)更新予定です

参考資料

Girard, Pauline. 2018. Léo Delibes Itinéraire d’un musicien des Bouffes-Parisiens à l’Institut. Paris, Edition Vrin.

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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