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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第29回〉オペラ座でバレエを観た初の日本人は誰?!

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

「バレエチャンネル」読者のみなさんは、日本にオペラ座バレエが初めて公演にやってきたのがいつのことか、ご存じでしょうか? 日本の新聞のアーカイブなどを調べてみると、バレエ団全体としての来日は、1963年5月に行われた第6回大阪国際フェスティバルで、演目はリファールの《レ・ミラージュ》や、ハラルド・ランダーの《エチュード》などだったそうです。また、所属するダンサーの来日公演としては、1952年に、当時のメートル・ド・バレエ、セルジュ・リファールとエトワール3名による公演がありました。ほとんどの日本人バレエファンにとって、この2つの機会のどちらかが、オペラ座バレエ団、あるいはそのダンサーが踊るのを、初めて直に見た経験だったと言えます。

では、日本人がオペラ座バレエ団の公演を観劇したのは、この第二次世界大戦後の出来事が初めてだったのでしょうか? じつは、オペラ座バレエが来日するよりも100年ほど前の19世紀半ばに、パリ・オペラ座で(つまり現地で!)バレエを観劇した日本人たちがいるのです! 今回は、その人々がどのような人物だったのか、なぜ彼らがオペラ座のバレエを観劇することになったのか、2回に分けてご紹介します。

日本人、フランスに上陸する

1963年のオペラ座バレエ初来日に先立つ100年前、というと、日本では幕末(江戸時代!)の1860年代です。この頃の日本では、諸外国との外交をめぐり、開国派と攘夷派が激しくぶつかり合っていました。江戸幕府は、ヨーロッパの列強5ヵ国との間に締結した修好通商条約によって、日本の4ヵ所を開港することを迫られていましたが、国内の対立は一向に収まりません。そこで幕府は、条約を結んだ国々の駐日公使たちの勧めもあって、開港の延期を交渉するために、ヨーロッパの条約締結国に使節団を派遣することにします。

このような使節団派遣が行われたことによって、日本人は、初めてフランスの地を踏むことになりました。そして、この使節団一行こそが、パリ・オペラ座バレエ団を生で観た初の日本人だったのです。

1862年の文久使節団

前回の連載でも見たように、1860年代のフランスは、ナポレオン3世が皇帝として主権を握る第二帝政期です。この時期のフランスは、「日本大使Ambassadeurs japonais」一行を、2回迎えています。

初回は、1862年にヨーロッパに派遣された総勢38名の使節団、通称「文久使節団」でした。この使節団は、フランスを含む6ヵ国を回る旅程を組んでいて、最初の訪問地がフランスでした。竹内下野守保徳(たけうちしもつけのかみやすのり、1807–1867)を正使(全権大使)とした一行は、1862年1月22日に品川を出発したあと、香港、シンガポール、スリランカを通って、スエズから陸路でエジプトのカイロに向かい、そこからマルタ島を経由して4月2日に南仏のマルセイユに到着します。その後、一行はリヨンに立ち寄ったあと、4月7日にやっとパリに到着し、約3週間に渡って滞在しました。

1862年、ナポレオン3世に謁見する文久使節団のようす

この時、フランスの外務省はオペラ座に対し、使節団の観劇の手筈を整えるよう、通達しています。省からオペラ座に送られた手紙には、劇場が「6人の日本人士官と12人の家来たち」を迎えることが書かれており、手紙の余白には、オペラ座側がメモしたと思われる、使節団員のための座席番号も記入されています。

38人の使節団員のうち、誰が実際にオペラ座へ足を運んだのかは明らかではないのですが、1862年4月16日、ちょんまげに羽織袴のサムライたちは、ペルティエ通りのオペラ座に現れました。このことは、オペラ座の舞台監督の日誌である「レジー・ド・ジュルナルRégie de Journal」にも記されています。4月16日に使節団のメンバーが観劇した演目は、ジョゼフ・ポニアトウスキー侯爵(1816–1873)作曲のグランド・オペラ《ピエール・ド・メディシス》で、第2幕のバレエシーン「ディアーヌの恋人たち」では、当時人気を博していたイタリア人スターダンサー、アマーリア・フェラリ(1828–1904?)が踊りました。

文久使節団が目にしたバレエが、全幕作品ではなくオペラの中の一場面だったことに、疑問を持たれる方もいるかもしれません。現在では、全く別の芸術ジャンルとしてそれぞれに成り立っているオペラとバレエですが、当時のフランスでは、オペラの中にバレエのシーンがあることはむしろ普通でした。とくに、「グランド・オペラ」と呼ばれた長大なオペラの場合は、バレエシーンが含まれるのが慣習となっていました。さらに、当時の主役級バレエダンサーがオペラ座の初舞台を踏むのも、バレエの全幕作品ではなく、オペラの中のバレエシーンであるのが一般的だったのです。

文久使節団の主要メンバー。左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)

使節団の反応は? フランス人の反応は?

さて、使節団のオペラ座での観劇を、当時のフランス人たちはどのように感じたのでしょうか? 4月18日のル・タン紙では、観劇に赴いた使節団の様子について、次のようにわりと詳細な内容を伝えています。

日本大使一行は、彼らの士官たちほとんどとその医師たちと共に、オペラ座で彼らのために催された類まれな公演に出席した。客席の真ん中には壇が組み立てられ、そこに、このアジアの知性あふれる人々とその通訳を迎えることになった。

選ばれたのは《ピエール・ド・メディシス》で、作品は彼らの好奇心を大変掻き立てた。公演の間、彼らが舞台の意味合いにも、そこで起こる物語にも物申さなかったのは疑問の余地がない。舞台装置の照明システムは特に、彼らに深い称賛の念を与えた。

いくつかあった幕間のうちの一回に、大使たちとその随行員たちは、オペラ座監督の事務室で監督のロワイエ氏に紹介された。その部屋には、劇場で最も傑出したアーティストたちと、パリの社交界でも卓越した様々な人々が集まっていた。

士官のうちの一人は、公演の間中、片ひざで支えた横長のノートに、劇場や作品について気づいたことを書き込み続けていた。

大使と士官、そして彼らの家来たちは、ほとんど同じような装いだった。この衣服はとてもシンプルで、色使いも暗めのものだった。そのそれぞれには、彼らが住んだり統治したりしている領地の主君であることを示す勲章が見られた。

大使とその随行員たちは、第3幕からすでに、そして公演が終わると、少しばかりかの高名なホメロスのような仕草をし、彼らが公演に対して示した興味と、受けた歓待によって、大変感銘を受けた様子を示していた。

当時の新聞記者の中には、思い込みで文章を書いたり、創作と受け取れるような記述をしたりする者もいたようなので、彼らの記述を全て文字通りに信用することは出来ません。しかし、ル・タン紙以外にも、使節団のオペラ座観劇に紙面をさいた新聞社がいくつかあります。それらの記事からは、使節団の面々が、初めて見るオペラ座や公演に大変興味をそそられた様子を想像できます。

ところで、この文久使節団には下級団員の一人として、のちに慶應義塾大学の創立者となる福澤諭吉が参加していました。オランダ語に通じ、英語の知識もあった福澤は、通訳担当として使節団に加えられたのでした。彼は滞在した諸国で見聞きしたものごとについて詳細な記述を残していますが、フランス滞在記には、見たところオペラ座の話題は登場していません。しかし、観劇した使節団員は「大変感銘を受けた様子」だったとのこと。初めてバレエを目にした日本のサムライたちの感想、ぜひ聴いてみたいですよね!

文久使節団のメンバー。右から2番目が福沢諭吉。その他は左から、福田作太郎、太田源三郎、柴田剛中(写真は1862年、オランダにて)

★次回は2023年12月5日(火)更新予定です

参考資料

AN : AJ/13/529 Cotes : IV. Visites de personnalités : ambassade japonaise (1862, 1864). Lettre du Ministère des Affaires Étrangères, signé par M.Ballieu, non datée.

AN : AJ/13/529 Cotes : IV. Visites de personnalités : ambassade japonaise (1862, 1864). Plan de la salle du Théâtre impérial de l’Opéra (Août 1861).

AN : AJ/13/529 Cotes : IV. Visites de personnalités : ambassade japonaise (1862, 1864). Lettre du secrétariat général du Théâtre impérial de l’Opéra « Service des japonais », non datée.

F-Po : IFN-53028370. Archives de l’Opéra. Régie. Journal de régie. Première série, 1862, p.115.

F-Po : NUMP-15214. Le Monde, daté le 19 avril 1862. Paris.

F-Po : NUMP-1048 N°358. Le Temps, daté le 18 avril, 1862.

永井玉藻、2023。「1860年代のパリにおける日本人のバレエ観劇——文久遣欧使節団およびパリ約定使節団の場合——」『哲學』第151巻、三田哲学会、p.163-182。

宮永孝、2006。『幕末遣欧使節団』、東京:講談社学術文庫。

著者不明 1962 「パリ・オペラ座バレエ団も参加 来春の大阪国際フェスティバル」『朝日新聞』1962年7月24日朝刊14ページ文化面(『聞蔵IIビジュアル』http://database.asahi.com.kras1.lib.keio.ac.jp/library2/smendb/d-image-frameset-main.php 2023年9月25日閲覧

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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