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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第36回〉渋沢栄一と「ジゼル」の幸福な出会い

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

2024年はパリ・オリンピックの開催年。夏のバカンスの真っ只中で開催される今回のオリンピックでは公式種目としてブレイキンが採用されており、ダンス好きの読者のみなさまにとっても興味深い大会となるのではないでしょうか。もっとも、日本(とくに関東圏)の今夏も、ここぞとばかりに開催される大量のバレエ公演が目白押しで、バレエファンのみなさまにおかれましては大忙し間違いなしなのですが……。

さて、19世紀のパリで、オリンピック並みにさまざまな国が集まる大イベントだったのが、万国博覧会です。19世紀に開催された万博のうち、日本にとってとくに重要な意義を持ったのが、1867年の第2回パリ万博。じつはこの67年の万博、オペラ座バレエの歴史と日本のバレエ史の双方にも、ちょっとした役割を果たしているのです。今回は、「近代日本経済の父」と呼ばれ、大河ドラマの主人公にもなった渋沢栄一(しぶさわえいいち、1840-1931)と、彼が1867年にオペラ座で観劇した《ジゼル》の抜粋上演について、資料をもとにご紹介します。

渋沢栄一(1840-1931)

そもそも「第2回パリ万博」とは

外務省による「国際博覧会」の定義によると、博覧会とは「公衆の教育を主たる目的とする催し」であり、その中でも「二以上の国が参加するもの」が、国際博覧会と呼ばれるのだそうです。この国際博覧会の歴史は、1851年に開催されたロンドン万博に始まり、19世紀のフランスでは、1855年の第1回パリ万博以降、67年、78年、89年、1900年に万博が開催されました。

1867年の第2回パリ万博が行われたのは、オペラ座とも縁の深いナポレオン3世の治世下の、第2帝政期です。会場は、現在はエッフェル塔が立っているパリ7区のシャン・ド・マルス。売店や遊園地、レストランなどを併設した万博会場では、水圧式のエレベーターなど、新しい機械や技術を楽しむこともでき、第1回のロンドン万博を凌ぐ来場者数を記録しました。2021年にNHKで放送された、渋沢を主人公とする大河ドラマ『青天を衝け』でも、万博の賑わいが描写されていたので、ご記憶の方も多いと思います。

渋沢は、江戸幕府によって派遣された使節団の一員としてこの万博に出席するため渡仏し、西欧のさまざまなものごとに直に触れることになるのですが、なぜ彼がオペラ座での観劇に臨むことになったのでしょうか?

徳川家の少年と渋沢、パリへ行く

現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた渋沢は、もともと強い尊皇攘夷思想の持ち主でした。しかし、1866年に主君だった徳川慶喜の命令を受け、慶喜の異母弟である徳川昭武(とくがわあきたけ、1853-1910)に同行し、パリ万博に出席する幕府の使節団の一員としてフランスに派遣されることになります。当時13歳の少年だった昭武は、将軍家に次ぐ別格の大名家の一つである、水戸徳川家の出身でしたが、幕末の水戸徳川家といえば、攘夷の急先鋒。そのため、渋沢が使節団員に加えられたのは、急進的な攘夷派に対してのクッション役の意味もあった、とも言われています。

本連載の第29回第30回でもご紹介したとおり、幕末のサムライたちがフランスへ向かうのは、これが初めてではありません。しかし1867年の万博は、日本が初めて公式に参加した万博で、国際的な場に「日本の幕府」の存在をアピールしようとした場でもありました。使節団には、前回派遣のパリ約定使節団員として渡仏しフランス語を学んだ山内堤雲(やまのうちていうん、1838-1923)や、のちにフランス法研究の第一人者となった箕作麟祥(みつくりりんしょう、1846-1897)らも選ばれ、1867年2月、一行はパリへ向けて出発します。

第2回パリ万博(1867年)に派遣された使節団。写真中央が徳川昭武。後列左端が渋沢栄一

万博の開催期間は4月1日から10月31日と長く、その間にパリではさまざまな祝賀行事やイベントが催され、オペラ座でも記念公演が数回行われました。それらの中でも、バレエ史上、とくに注目したいのが、6月4日に開催されたガラ公演です。

ロシア皇帝訪仏記念ガラと《ジゼル》

この公演は、当時のロシア皇帝、アレクサンドル2世(1818-1881)のパリ万博訪問を祝うために行われたものでした。劇場の1階奥に位置するアンフィテアトル(日本では2階席)に設置された特別ボックス席には、ナポレオン3世とその妃ウージェニー、アレクサンドル2世のほか、プロイセン王国国王のヴィルヘルム1世とアウグスタ妃、ヘッセン大公ルートヴィヒ3世、ロシア皇帝家に属するバイエルンのロイヒテンベルク公爵夫妻、ザクセン=ワイマール大公など、ロシアあるいはドイツ系の王家・皇帝家メンバーがずらり。その中に、「日本の大君の弟君Le Frère du Taïcourn du Japon」(原文ママ)こと徳川昭武の姿もありました。1867年6月22日に出版されたロンドンの新聞「The Illustrated London News」には、特別ボックス席の右端に、右手に扇子のようなものを持ち、隣の席にいるザクセン=ワイマール大公の側へ体を向けて座っている、和装の昭武の様子が描かれています。

この日の演目は、19世紀のパリ・オペラ座で大ヒット作となったオペラやバレエからの抜粋で構成されており、バレエの演目としては《ジゼル》の第2幕が上演されました。ロシア皇帝を迎えてのガラだったためか、出演者も当時のオペラ座バレエのスター・ダンサーが勢揃い。アデル・グランツォフ(グランツォーワ)、アンジェリーナ・フィオレッティ、ウージェニー・フィオクル(女性ダンサーですが《コッペリア》の初代フランツ役)、レオンティーヌ・ボーグラン、ルイ・メラント(《シルヴィア》の振付家で、のちにオペラ座バレエのメートル・ド・バレエに就任)、マリー・サンラヴィル(《二羽の鳩》の初代ペピオ役)など、オペラ座バレエの歴史に名を残すダンサーたちが出演しています。夜9時50分に開演した公演は、真夜中近くの11時50分に終演しました。

渋沢栄一の《ジゼル》評

この《ジゼル》に特に強い印象を受けたのが、昭武の観劇に同行していた渋沢です。彼がフランス旅行中のさまざまな出来事を認めた『航西日記』には、かなり具体的な観劇の感想が、以下のように記されています。

「一幕置位に舞踏あり。此舞踏も二八の娥眉名姣五六十人。裙短き彩衣繍裳を着し。粉妝媚を呈し冶態笑を含み。皆細軟軽窕を極め。手舞足踏。婉転跳躍。一様に規則ありて百花の風に繚乱する如し。且喜怒哀楽の情を凝し。一段落の首尾を整へ数段をなせり。舞台の景象。瓦斯灯。五色の玻璃に反射せしめて光彩を取るを自在にし。又舞妓の容輝。後光。或は雨色。月光。陰晴。明暗をなす。須臾の変化其自在なる。真に迫り観するに堪たり。」

つまり渋沢は、「踊りの上手い美人のダンサー5〜60人が、短い裾の美しい模様のある衣裳(=ロマンティック・チュチュ)を着て、メイクをした顔で微笑みながら、優しくたおやかに舞い、しなやかに動いて跳躍」していたこと、それはまるで「たくさんの花が咲き乱れるよう」だったこと、ガス灯の明かりで舞台の彩りがさまざまに変化し、ダンサーたちを美しく照らしていたこと、などを、非常に感慨深く受け止めたようなのです。まるで現代の私たちが、観劇後に興奮しながらSNSに書き込む感想みたいですね(笑)。

そして、この渋沢の観劇はその後、明治時代の日本におけるバレエ発展の萌芽に、多大な貢献を果たすことになります。渋沢のオペラ座観劇から約20年後の1886年、日本では渋沢らの支援を受けて「上流階級の観劇にふさわしい劇場」の建設が計画され、さらにその25年後の1911年に、日本初の西洋式劇場として帝国劇場が開場しました。劇場の取締役はもちろん渋沢。この帝国劇場の歌劇部で、イギリスからやってきたイタリア出身のダンサー、ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシー(1867-?)により、日本で初めて西洋舞踊(バレエ)の稽古が行われ始めたのです!

もし渋沢が、オペラ座で《ジゼル》を観ていなかったら。もし昭武が、6月4日のガラ公演に招待されていなかったら。もし渋沢が、67年パリ万博への使節団にメンバーとして加わっていなかったら。「近代日本経済の父」は、もしかすると、「日本における初代オペラ座バレエファン」でもあったのかもしれません。

★次回は2024年7月5日(金)更新予定です

参考資料

F-Po : IFN-53032467. Archives de l’Opéra. Régie. Journal de régie. Première série, 1867, p.162.

公益財団法人渋沢栄一記念財団『デジタル版 渋沢栄一伝記資料』第1巻、p.490-491. https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK010036k_text (2024年5月14日最終閲覧)

関水信和、2018。「渋沢栄一における欧州滞在の影響——パリ万博(1867年)と洋行から学び実践したこと——」千葉商科大学『千葉商大論叢』第56巻第1号、p.61-134.

デプレ、ミカエル 2019。「パフォーマンスの空間、権力の空間——ル・ペルティエ劇場をめぐる諸考察」『《悪魔のロベール》とパリ・オペラ座 19世紀グランド・オペラ研究』第III部第2章、澤田肇ほか共編、p.258-275. (岡見さえ訳)。

山田小夜歌、2015。「G.V.ローシー[Giovannni Vittorio Rosi、1867-?]の帝国劇場におけるバレエ指導と上演作品」お茶の水女子大学大学大学院人間文化創成科学研究科『人間文化創成科学論集』第18巻、p.59-68.

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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