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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第33回〉マノンの劇的転落人生…その終着地はなぜルイジアナでなくてはならないのか?

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

今回の原稿を書いているのは、先月(2024年2月)のパリ・オペラ座バレエ来日中です。この来日公演のプログラムが《白鳥の湖》と《マノン》、と発表されたとき、「ついに日本でオペラ座の《マノン》が!」と思われた方も少なくなかったのではないでしょうか。ヌレエフ振付の見応えのある《白鳥》(盛りだくさんのパを追うので目が忙しい、とも)も、もちろん王道の演目ですが、いっぽうで、これまでにオペラ座による《マノン》の上演がなかった、というのは、意外な気がしました。

確かに《マノン》の振付家であるマクミランの諸作品は、英国ロイヤル・バレエの象徴的存在ですが、物語の舞台はフランスですし、アベ・プレヴォの原作はフランス文学の代表作のひとつ。作品で使用されている音楽を作った作曲家、ジュール・マスネも、19世紀フランスを代表する作曲家のひとりで、オペラ座に深い縁を持っていました。では、そんなフランス的視点から見たバレエ《マノン》の興味深い点は、どのようなところにあるのでしょうか? 来日公演後ではありますが、今回は《マノン》の鑑賞時の視点が広がる小話をご紹介します。

ジュール・マスネのオペラ版《マノン》

「マクミラン版の《マノン》の音楽は、ジュール・マスネによるものだが、マスネ作曲のオペラ《マノン》から取られたものではない」。バレエ《マノン》の解説ではよく添えられる文言なので、ご存知の方も多いと思います。いっぽうで、その「マスネ作曲のオペラ《マノン》」については、つまるところマクミラン版のバレエそのものとは縁がないこともあり、バレエ方面から関心が払われることが(残念ながら)あまり多くありません。では、そのマスネのオペラ《マノン》とは、どのような作品なのでしょうか?

19世紀フランスで活躍した作曲家、ジュール・マスネ(1842-1912)がとりわけ成功を収めた楽曲ジャンルは、オペラでした。とくに1892年初演の《ウェルテル》は、日本でも上演される頻度の高いフランス・オペラですが、1884年初演の《マノン》も、マスネの代表作の一つです[1]。聴きどころは、第2幕で贅沢な暮らしへの誘惑に揺れ動くマノンが歌うアリア〈さようなら、私たちの小さなテーブル〉と、第3幕第1場で祭りに湧く群衆の前に現れたマノン(原作やバレエにはない場面です)のアリア〈私は全ての道を歩く〉。どちらもソプラノ歌手のレパートリーとして知られます。とても素敵な曲なので、バレエファンのみなさんもぜひ聴いてみてくださいね。

ジュール・マスネ Jules Emile Frédéric Massenet(1842-1912)

さて、マクミランはバレエの制作過程で、このマスネのオペラ《マノン》の音楽の使用を考えていたことがありましたが、その話には前段階がありました。じつは、バレエの台本の土台として、別の作曲家によるオペラ《マノン》が挙がっていたのです。その別の作曲家とは、イタリア・オペラのド定番作曲家のひとり、ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)。このあたりの経緯については、来日公演のパンフレットに詳しい話が掲載されているので、購入された方はぜひお読みになっていただきたいのですが、最終的にマクミランは、プッチーニのオペラの音楽もマスネのオペラの音楽も使用しませんでした。その理由は、第一にプッチーニの楽曲は制作過程の時点で著作権が切れていなかったこと、そして第二に、マスネの《マノン》は原作と異なる部分が多々あり、とくに最終場面がルイジアナではなく、流刑の出発地であるフランス北部の港町、ル・アーヴルへ向かう途中で終わってしまうことです。

え! あのドラマティックなルイジアナの場面なしに、どうやって作品が終わるの!? と疑問に思われた方、ごもっともです。マスネの《マノン》の最終場面で、マノンは(バレエと同様に)衰弱死するのですが、それはアメリカに送られる前の時点に設定が変更されており、流刑の道中、しかもフランスを出てもいない時点で命を落とします。したがって、マスネの《マノン》では、アメリカ到着以降の出来事はいっさい登場せず、さらにはレスコーも死にません(それどころか、マノンの流刑を阻止できなかったデ・グリューに同情し、彼らの最後の面会の場を作る、いいやつ扱いです)。このことから、バレエ版《マノン》においては、第3幕のアメリカ到着以降の場面が非常に意味を持つことがわかるのですが、なぜ《マノン》の最終場面がアメリカであることが重要なのでしょうか?

なぜアメリカに流刑? フランス史と作品の接点

バレエ《マノン》の物語で最も衝撃的なのは、主人公2人の徹底した転落人生でしょう。つかの間の恋のひとときを得ても、浅はかな選択によって人生が次々に悪い方向に傾いていくようすは、救いようがありません。とくにその「落ちっぷり」が際立つのは、第3幕の幕開きです。直前の第2幕では、きらびやかな宝石やドレスに包まれていたマノンですが、第3幕ではボサボサのショートカットの髪と汚れた服で登場し、見た目にも強い印象を観客に与えます。この場面で、マノンはル・アーヴル港からアメリカのルイジアナに流刑となり、そこで人生最大かつ最後の悲劇に見舞われます。

バレエの原作であるプレヴォの長編小説『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語Histoire du chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut』が出版されたのは、18世紀半ばの1731年。このころ、フランスはアメリカのミシシッピ川流域を植民地としていました。大西洋を隔てて遠く離れたアメリカがフランスの植民地となったのは、15世紀半ばの大航海時代以来、西欧諸国がアメリカに次々と乗り込んでいったことが原因です。

15世紀から17世紀の半ばまで、ポルトガルやスペインなどの国をはじめとして行われた新大陸の「発見」後、17世紀の中頃からは、フランスやイギリスなどの国もアメリカ大陸に進出します。その過程でアメリカに渡ったフランス人がミシシッピ川の流域を探検し、フランスはその流域の領有権を主張。そんなむちゃくちゃな理由で……と思いますが、侵略者というのはもともとその土地に住んでいる人や文化のことなど一切考えないのが普通ですし、彼らにとってみれば先に手をつけたもん勝ちです。そして、当該の土地は当時の国王、ルイ14世(Louis IVX)にちなみ、「ルイジアナLouisiane」と名付けられました。1722年には、フランス領ルイジアナの首都がヌーヴェル=オルレアンNouvel Orléans、すなわちニューオーリンズNew Orleansになりました。

ルイジアナの沼地 ©︎Chuck Aghoian

本国フランスにとって、植民地は資源をもたらす財産のひとつであり、入植者もひと財産築くことなどを目的に植民地にやってきます。しかし、フランスとは大きく異なる自然環境や感染症の流行、先住民の襲撃など、アメリカでの生活は決して楽なものではありません。そもそも飛行機のない時代に、大西洋を渡るだけでも数ヵ月かかるので、その途上で亡くなる人も多かったといいます。そのため、本国は植民地への入植者をリクルートし、一定期間、強制的にルイジアナで生活をさせる、という手段に出ました。

リクルートの対象となったのは若い男性ですが、さらに植民地の人口増加を目的として彼らにあてがわれたのが(非常に嫌な言い方ですが)、生活に問題を抱えたさまざまな女性、つまり売春婦、路上生活者、犯罪者や、家族のいない女性でした。本国から遠く離れた植民地へ罪人や囚人などを島流しにする、というのはイギリス植民地時代のオーストラリアの例が有名です。簡単に帰ってこられるような場所では、本国としては困るわけで、究極の厄介払いといっていいでしょう。また、入植者の男性に対し国から売られたような状況で、女性が身を守り生きていけるとは考えられません。

このような背景があったことを踏まえると、第3幕でマノンがニューオーリンズの港に降り立った瞬間から、その後の悲劇は決まっていたようなものです。看守から見れば、マノンは「人口増加のためにあてがわれた女性流刑者」。プレヴォの原作よりもはるかに暴力的に描かれる第3幕は、道を間違えあれよあれよという間に転落していく人々の姿を、これでもかとばかりに描き出しています。だからこそ、マクミランにとっては、バレエ《マノン》の最終場面は沼地のパ・ド・ドゥで終わらなければならなかったし、またそこまでの経緯を描くために、マノンとデ・グリューをルイジアナに連れてこなければならなかった……のではないでしょうか。

こうしていろいろと書いていると、マスネのオペラとプッチーニのオペラ、そしてマクミランのバレエの全部比較!とかやりたくなってくるのですが、さすがに今回の連載でその余地はないので、いつか機会を改めてご紹介できたらと思います。

[1] 正確にいうと、マスネの《マノン》は「オペラ・コミック」という楽曲ジャンルに入ります。オペラは作品の全体に音楽が付き、セリフが全て歌われる演劇的作品のことを差し、オペラ・コミックは作品の中に語られるセリフ(音楽がつかない)があるのが特徴です。

★次回は2024年4月5日(金)更新予定です

参考資料

プレヴォ、アベ、2017。『マノン・レスコー』野崎歓訳。東京、光文社古典新訳文庫。

パリ・オペラ座バレエ2024年来日公演パンフレット

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この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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