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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第4回〉王妃とバレエ教師〜18世紀末を生きた二人のアウトサイダー

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのために、マニアックすぎる連載を始めます。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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芸術の発展には、時としてその時代の統治者・権力者の好みが強く反映されます。フランスのオペラやバレエの場合、ルイ14世の影響は言わずもがな、なのですが、その後の時代も、ブルボン家の面々と、彼らに深く関わった人々の趣味趣向は、この二つの舞台芸術のあり方を左右しました。

とくに18世紀半ばから後半にかけての時期は、フランス史上最も有名な人物の一人が、そしてバレエ史上極めて重要な人物の一人が、オペラとバレエの変革に大きく関わりました。今回は、青きドナウの岸辺に生まれ、セーヌの岸辺に咲いたフランス王妃、マリー・アントワネット(1755–1793)と、この時期のバレエの発展を語る際には欠かせないフランス人ダンス教師兼舞踊理論家の、ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727–1810)についてご紹介します。

宮廷ライフに欠かせない!芸術英才教育

歴代のフランス王妃の中でも、マリー・アントワネットほど、後世から多彩なイメージを与えられた人はいないでしょう。フランス王妃としての誇りを持って断頭台に消えた悲劇の女性、最新のファッションに目がなくじゃんじゃんお金を使うワガママ娘、パステルカラーの可愛らしいお菓子を口にして大喜びする女の子……これらのイメージが先行するため、マリー・アントワネットと舞台・音楽芸術との付き合い、とくにバレエとの関わりについては、あまり注目されることがないかもしれません。しかし、彼女がルイ16世の妃となり、宮廷内で存在感を発揮したことは、フランスの舞台・音楽界のあり方に少なからぬ影響をもたらしてもいるのです。

では、このオーストリア生まれのフランス王妃の存在が、なぜそれほど当時の舞台・音楽界に関係したのでしょうか? この疑問を解くには、マリー・アントワネットが子ども時代に受けた教育について見る必要があるでしょう。

18世紀後半のヨーロッパにおける貴族階級の子女は、子供の時からさまざまな教養を学んで育つのが一般的です。オーストリア・ハプスブルク家の姫君として生まれたマリー・アントワネットも、歌やクラヴサン(ピアノの前身楽器)のレッスンを受け、作曲の基礎を学び、またダンスを習いました。これだけの実技レッスンをこなすのは、いくら時間のある貴族といえども結構しんどいはず。しかし、当時の上流階級にとっては、舞台や音楽をただ単に観て楽しめる・聴いて楽しめるだけでなく、ある程度の実技もこなせるようにすることが、子女の教育のひとつでした。とくにダンスは「礼儀作法と洗練された身のこなしを身につけるための技能」と考えられていたため、宮廷人にとっては習得必須の項目です。

しかもマリー・アントワネット本人は、音楽も踊りも好んで学習したようです。1765年1月に兄のヨーゼフ2世が結婚した際も、彼女はシェーンブルン宮殿で上演されたオペラ《愛の勝利》[1]に兄弟姉妹と共に出演しました。その様子は、ヨハン・ゲオルグ・ヴァイケルト作と伝えられる絵画作品に描かれており、幼い頃のマリー・アントワネットの面影を今に伝えています。

姫のダンス教師、ノヴェール

ダンスや音楽の実技が貴族階級にとって重要なスキルである以上、ヨーロッパの宮廷では、それらの物事を教える先生が必要になります。生徒が王家の子女ともなれば、教師も逸材揃いでした。マリー・アントワネットの場合、音楽はハプスブルク家の宮廷作曲家、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714–1787)に師事します。いっぽう、彼女のダンス指導を受け持った教師の中でもとくに名前を知られている一人が、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールです。

オペラ座付属のバレエ学校ができるなど、フランスのバレエ教育がとても充実していたこの時期、フランスはダンス文化の最先端の地でした。そのため、ヨーロッパの他の国々でも、フランス人ダンサーが活躍したり、フランスでダンス教育を受けたダンス教師が求められたりするようになります。ノヴェールもそのような人々の一人で、彼は付属バレエ学校にこそ通わなかったものの、オペラ座のスターダンサー、ルイ・デュプレ(1689–1775)にバレエを教わりました。その後、彼はダンサーとして、また振付家として、リヨンなどのフランス国内の都市や外国を転々としたのち、1760年からはドイツのシュツットガルトの宮廷にて、メートル・ド・バレエとして仕事をしていました。バレエの歴史において、シュツットガルトに関しては20世紀後半以降の躍進が注目されがちですが、じつはこの街は、ドイツ語圏の中でもとても早い時期からバレエを上演していた土地なのです(この点については、ぜひ2019年の拙論「ミシェル・サン=レオン著『ダンスの練習帳』­––19世紀前半のクラスレッスン用音楽に見られる特徴­––」をご参照ください!)。

そのシュツットガルトの宮廷勤務時代、ノヴェールはバレエ史上の超重要著書の一つである『舞踊とバレエについての手紙』[2]を出版したりするなど、重要な活動を行っています。しかし、宮廷から彼へのお給料の支払いは、しだいに滞っていきました。そのためノヴェールは職場を変え、1767年から74年まで、ハプスブルク家の子供たちにダンスを教えたり、宮廷劇場で上演する演目の振付を担当したりすることになったのでした。

伝統の破壊者か、それとも改革者か

ノヴェールがウィーンの宮廷にダンス教師として着任したのは、マリー・アントワネットがルイ16世との結婚に向けて、日々準備を積み重ねているときでした。彼女は1770年4月にフランスへ旅立ったので、ノヴェールの指導を受けていた期間はそう長いわけではありません。しかし、ダンスを通して身につけた優雅で軽やかな物腰は、早い時期からフランス宮廷で注目されたようです。また、彼女はヴェルサイユの宮廷で頻繁に舞踏会を楽しむだけでなく、パリ・オペラ座などでの公演にも足を運びました。

そして1774年に王妃になったマリー・アントワネットは、フランスの音楽・舞台芸術に自分の好みをどんどん取り入れていきます。ウィーン時代の音楽教師だったグルックに対しては、彼の意欲的なオペラ作品の上演を積極的に支援しました。そのため、フランスではオペラのあり方について、多くの文化人を巻き込む大論争(*)が起こりました。そしてノヴェールにもマリー・アントワネットからの呼び出しがかかり、彼は王妃の後押しを得て、王立音楽アカデミーの舞踊部門の責任者であるメートル・ド・バレエに就任します。

*グルックのオペラのスタイルが当時のフランスのオペラよりもかなりラディカルだったことから、パリの音楽界を二分するほどの激しい芸術論争が燃え上がりました。これは「グルック=ピッチンニ論争」という名前で音楽史の本に絶対出てくる出来事です

このことは、オペラ座の面々にとっては大事件でした。というのも、フランス派バレエの聖地といっても過言ではないパリ・オペラ座バレエのトップに、オペラ座バレエ学校の出身でも、オペラ座のスターダンサーでもなかったノヴェールがやってきたからです。マリー・アントワネットとしては(フランスの女王なのですから)、自分が世話になった先生へ、恩返しとしてバレエ界最高のポストを用意したのかもしれません。しかしその行為は、普通はオペラ座の内部、それも生え抜きの人気ダンサーが就任するという習慣を破るものでした。当然、「よそ者」のノヴェールに対しては、オペラ座内で反発が起こります。それでもノヴェールは、モーツァルトに音楽をつけてもらったバレエ《レ・プティ・リアン》をオペラ座で上演するなどしましたが、結局、1781年にはオペラ座を去ることになりました。

革命の裏で…ノヴェールのその後

フランス革命の勃発後、マリー・アントワネットは1793年10月16日に、パリの革命広場に設置されたギロチンで処刑されました。その頃、ノヴェールはリヨンやロンドンで仕事をしていました。かつての生徒であり、自分をバレエ界の最高峰に導いた女性の死を、彼はどのように聞いたでしょうか。1794年にノヴェールはバレエの世界から引退し、パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで余生を送ります。

いっぽう、ノヴェールがいなくなったあとのオペラ座では、彼が1760年に出版した『舞踊とバレエについての手紙』の中で主張した先駆的なバレエ観が、少しずつ根を張っていきました。とくに、踊りによって一つの完結した筋書きを物語る、という考え方は、バレエがオペラの一部としてではなく、独立した芸術ジャンルとなっていく上で、とても大きな影響を及ぼすことになります。ノヴェールの舞踊論・バレエ作品観については、現在でも様々な研究が行われている最中なので、ご興味のある方はぜひ専門の研究書にトライしてみてください!

★次回は2021年9月5日(日)更新予定です

参考資料

●今谷和徳、井上さつき 2010 『フランス音楽史』東京、春秋社。

●永井玉藻 2019「ミシェル・サン=レオン著『ダンスの練習帳』­––19世紀前半のクラスレッスン用音楽に見られる特徴­––」『武蔵野音楽大学研究紀要』第50号:25-41.

●森立子 2016「ノヴェールにおける「パントミム」」『日本女子体育大学紀要』第46巻:67-74.

●ドラレクス、エレーヌ、他 2015 『マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯』岩澤雅利訳、東京、原書房。

[1] 前回の連載で出てきたリュリの作品ではなく、フロリアン・レオポルト・ガスマン作曲、ヒルファーディング振付、メタスタージオ台本のもの。1765年初演。ジャンル分類はazione teatraleなので、オペラと考えられる。

[2] リヨンとシュツットガルトの両方で同時出版された。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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