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新連載!【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第2回〉太陽王のオペラ座をめぐる仁義なき戦い

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのために、マニアックすぎる連載を始めます。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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太陽王のオペラ座をめぐる仁義なき戦い

フランス史上、最も偉大な王様の一人に数えられるルイ14世(1638-1715)。「神に与えられたルイ Louis-Dieudonné」の名を持ち、「偉大なるルイ王」「太陽王」とあだなされる彼の時代は、今でもフランスでは「ル・グラン・シエクル Le Grand Siècle」、つまり「偉大なる世紀」と呼ばれます。そしてこの時代は、フランスのバレエにとっても最も輝かしい時期の一つですね。王立舞踊アカデミーの創設、足の5つのポジションの整備、舞踊記譜法の発展、オペラ座創設、教育機関の整備……フランスの「偉大なる世紀」は、バレエの「偉大なる世紀」でもあります。

……なのですが、そんなルイ14世統治下のバレエ黄金期は、常にすべてが順調に光り輝いていたわけではありません。その裏には、様々なドラマと、火花散るバチバチの戦いが見え隠れしています。今回は、ルイ14世時代のバレエの世界やオペラ座について、資料を参照しながら様子を見ていきましょう。

誰がバレエを教えるか? 職業組合vsアカデミー

時は1661年。ルイ14世はフランスのすべてを思いのままに動かせるようになり、その権力の象徴として、ヴェルサイユ宮殿の建設を始めます。同じ年、自身も優れたダンサーだった王は、「王立舞踊アカデミー L’Académie royale de danse」の設立を勅令によって許可しました。このアカデミーの主な目的は、舞踊の正しいあり方をフランス国内に普及させるために、バレエの研究・教育を組織的に行うこと。初代の構成メンバーには、王のバレエ教師、ピエール・ボーシャン(1631-1705)〈*1〉をはじめ、王族のバレエ教師を務める人物たちがずらりと名を連ねました。

*1=バレエの足の5つのポジションを定めたことで知られるフランスのダンサー、振付家、バレエマスター、作曲家

ところが、このアカデミーの設立に対して反対の声をあげていた人たちがいました。それは「メヌストランディーズ Ménestrandise」という、楽器奏者や吟遊詩人たちを中心とした職業組合のメンバーです。なぜそうした人たちが文句を言い出したのか、というと、じつはこの時代までのダンス教育に関する、深い理由がありました。

そもそも中世以来、フランスでは、ダンサーを教育したり、その訓練を監督したりすることは、この1321年創立の「メヌストランディーズ」のメンバーにのみ認められていたことでした。楽器奏者や吟遊詩人の組合に、なぜダンス教育の特権が? と思われるかもしれません。じつは、ルイ14世時代のダンス教師たちは、ヴァイオリンなどの弦楽器で伴奏しながらダンスの指導をしたため、優れた音楽家でもあったのです。宮廷に仕えるレベルの教師ともなれば、子供の頃から踊りや楽器の訓練を受けて、組合のメンバーによる厳しい審査に合格する必要があったといいます。

このように、フランスでは「職業組合によって認められたものだけがダンス教育を行える」という長年の伝統があったので、ルイ14世の「舞踊の王立アカデミー」設立計画に対し、「メヌストランディーズ」のメンバーから反発が起こったのは当然でしょう。当時の組合代表、ギョーム・デュマノワール(1615-1697)は、宮廷での様々な演奏活動を担当するグループの一つである「王の24のヴァイオリン」に所属していた超エリート音楽家で、ダンス教師でもありました。1658年10月、アカデミー設立とその構成メンバーに関する知らせを見たデュマノワールは、新しく作られる組織のメンバーが、若い世代のダンス教師ばかりであることを知ります。300年以上にわたる組合の伝統(と利益)が失われるとは……そこで彼は意を決し、アカデミー設立を許可したルイ14世の勅令が正式に登録されないよう、なんと高等法院(王令の登録権を持つ最高機関)に対して嘆願状を出したのでした。

結果はみなさんもご存知の通り。デュマノワールの嘆願は退けられ、フランス国内のバレエ教育は、王立舞踊アカデミーを頂点として行われていくことになりました。それでも納得がいかなかったのか、デュマノワールは1664年に、『音楽とダンスの融合、この2つの芸術に触れつつ“アカデミスト”と称する13人の方々の書に対する返答を含む』という本を出版します。タイトルからしてデュマノワールの怒りがにじみ出ているこの書籍、今では当時のダンスや音楽に対する見解を知るための貴重な資料の一つとなっています。デュマノワールは1697年にパリで亡くなり、その約100年後、舞踊アカデミーもフランス革命の影響を受けて廃止されました。

誰がオペラを上演するか? ペラン??vsリュリ??

王立舞踊アカデミーとメヌストランディーズの火花が散り始めていたちょうどその時期、フランスでは新しい舞台芸術が生まれつつありました。それが、作品のセリフすべてを歌う演劇の「パストラル」です。これはもともと、イタリアから輸入された演劇と音楽の融合ジャンルだったのですが、フランスでセリフをすべて歌う形に発展していました。これが、フランスにおけるオペラの元祖スタイル、と言われています。

この少し前、フランスでは、ルイ14世の宰相を務めたマザランによって「イタリアのスタイルのオペラ」が紹介されたものの、このオペラはうまく根付かずに終わってしまっていました。しかし、1655年ごろからパストラルの上演が徐々に増えたことで、フランスでもオペラのような舞台芸術が、大ブレイクの予兆を見せていたのです。

そして1669年、ルイ14世は「イタリアで流行っているオペラというものを、フランス語でも上演させる」として、「オペラのアカデミー L’Académie de l’Opéra」の設立に関する特権を、ピエール・ペラン(1620頃-1675)という詩人に与えます。アカデミーのこけら落とし公演《ポモーヌ》は大成功。フランス・オペラの歴史は、ここに華々しいスタートを切ることになりました

ところが、オペラのアカデミーの成功に対して、「キーッ!くやしいぃぃ!!」と地団駄を踏んでいた人物がいました。作曲家でダンサーの王室音楽家、ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)です。

イタリア出身のリュリは、ルイ14世が出演した1653年初演の《夜のバレ》にダンサーとして出演し、王の目に留まったことで、スピード出世コースに乗った「勝ち組」でした。彼は踊りと芝居をふんだんに盛り込んだジャンル、「コメディ・バレ」を積極的に発表し、自他ともに認める「王のお気に入り」だったのですが、そこに飛び込んできたのがオペラのアカデミーの成功。もともと「オペラはイタリア語だからこそ成功したのであって、フランス語には向かない」と思っていたリュリにとって、これは寝耳に水でした。

このままでは、王のお気に入りの座が奪われてしまうかもしれない。しかし、そんなリュリにも幸運(?)が巡ってきます。《ポモーヌ》の成功で脚光を浴びたペランが、なんと策略にハメられて大きな借金を負い、牢屋に入れられてしまった〈*2〉のでした。リュリはすかさず、負債を負ったペランからアカデミー運営の特権を買い取ります。さらに彼は1672年に、このアカデミーに「王立音楽アカデミー l’Académie royale de Musique」という名称を使うことと、フランス国内でリュリに断りなくオペラを上演してはいけない、という決まりも、王に許可してもらいます。これによって、王立音楽アカデミーはフランスでオペラを独占的に上演できる団体になり、この頃から通称で「オペラ座 l’Opéra」とも呼ばれるようにもなりました。というわけで、この勝負はリュリの一方的な勝利。その後、彼は死ぬまでオペラ座を独裁します。

*2=「オペラのアカデミー」のマネージャーを務めていたスルデアック侯爵とその友人のシャンプロンという人物が、なんと《ポモーヌ》で得た収益を持ち逃げしてしまったのです! ペランは楽器奏者や歌手たちへのギャラや公演にかかった費用を支払わなくてはならなかったのに、公演の収益を奪われてしまったため、多大な負債を追うことになってしまったのでした。哀れ……。

「でも“オペラ”って、歌と楽器演奏の舞台ジャンルだよね? それとバレエはどういう関係?」と疑問に思われた方、素晴らしい観点です! じつはオペラ座では、リュリが過去に作曲したコメディ・バレも上演していましたし、そもそもイタリアのオペラにも、踊りのシーンが含まれていました。するとオペラ座には、必然的に、専属の歌手やオーケストラ奏者だけでなく、専属のダンサーも必要になりました。

そこで台頭してきたのが、「職業としてダンスを踊る人々」です。ルイ14世が積極的に踊りに励んでいた頃、宮廷での出し物には貴族たちも出演していました。しかし1670年代から、王は人前で踊ることを控えるようになったため、必然的に貴族たちも、出し物に出演するほどの踊りを極める必要はなくなります。また、オペラ座に所属する別の種類のアーティストたち、つまり音楽家や歌手たちは、「その道で食べている」人々です。そのためオペラ座でも、徐々にプロのダンサーが中心となって踊るようになった、と考えられています。また、研究・教育中心の王立舞踊アカデミーとは異なり、王立音楽アカデミーは公演を行なって収益を上げ、出演者にギャラを支払っていました。こうして、「舞踊の女王」と呼ばれたラ・フォンテーヌ嬢をはじめ、オペラ座ではオペラのバレエシーンにプロ・ダンサーが出演し、喝采を浴びていったのでした。

★次回は2021年7月5日(月)更新予定です

参考資料

●Dumanoir, Guillaume. 1664, R1870. Le Mariage de la musique avec la danse, contenant la réponse au livre des treize prétendus Académistes touchant ces deux arts, éd. par Jules Gallay. Paris, Librairie des Bibliophiles, Google Books, 発表年不明。https://books.google.com.ag/books?id=GNFSAAAAcAAJ&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false (2021年5月17日最終閲覧)

●Pruiksma, Rose A. 2003. “Generational Conflict and the Foundation of Académie Royale de Danse : A Reexamination” in Dance Chronicle 26, No.2. Abingdon, Taylor &Francis, Ltd. 169-187.

●今谷和徳、井上さつき 2010年。『フランス音楽史』東京、春秋社。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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