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【インタビュー】イサドラ・ダンカンの3代目継承者、メアリー佐野。「私が私のダンスを踊っても、そこにはダンカンの魂が入っている」

バレエチャンネル

イサドラ・ダンカン(1877〜1927)

20世紀初頭の舞踊界に革命をもたらしたダンサー、イサドラ・ダンカン(1877〜1927)。モダンダンスの祖として歴史に名を刻む偉大な舞踊家ですが、じつは、その3代目の継承者がこの日本で活躍を続けています。

その女性こそ、イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパンを拠点に、公演活動や後進への指導を手掛けているメアリー佐野さんです。
靴を脱いで、大地のエネルギーを感じつつ、ギリシャの彫像のような衣裳をまとい、まるで自然と溶け合うかのように踊る──そんなダンカン・ダンスに魅了され、その身を捧げてきたメアリーさんの半生をインタビューしました。

メアリー佐野さん

取材/阿部さや子(バレエチャンネル編集長)
文/加藤智子(フリーライター)

「マダム・バタフライ」と呼ばれた母は、明るく強く、私を育ててくれた

まずは幼少期のことを聞かせてください。出身は岐阜だそうですね。
メアリー そうです。生まれは岐阜県の各務原市で、小学校1〜2年生の頃に加納というところに移りました。各務原には米軍の基地があって、母はそこで父と知り合ったんですよ。でも私が生まれた頃にはもう父はいなくて、ずっと母ひとり子ひとりの環境で育ちました。
お父さまはアメリカ人だったのですね。
メアリー 父は海兵隊で、私が母のお腹の中にいた時にアメリカに帰り、二度と戻ってはきませんでした。「2年経ったら帰る」と言って去った父をずっと待っていた母は、よく周りの人から「『マダム・バタフライ』みたい」と言われていました。母は「私のハートには釘が一本刺さっている」とも言っていましたが、彼女がマダム・バタフライと違うのは、どんなに苦労してもたくましく、いろんな商売をしながら、私を育ててくれたところです。本当に芯が強くてポジティブな人でした。
私はそんなことは何も知らずに、すくすくと、自分のやりたいことをやらせてもらってきました。こうして好きなダンスを続けてこられたのも母のおかげ。彼女は2022年1月に亡くなりましたが、そんな母に育てられて本当に幸せだなと思います。

「当時はまだ男尊女卑も強かった時代。それでも母はいつもポジティブで、本当に芯の強い人でした」写真提供:メアリー佐野

最初にダンスを習い始めたのはいつでしたか?
メアリー そう尋ねられたイサドラ・ダンカンは「母のお腹の中にいた時に」と答えたそうですが、私も少し似たようなところがあります。西洋のものが大好きな“モガ”(モダンガール)だった母はよく洋画を観に行っていましたが、1歳の頃の私を膝の上に乗せると、ちょこちょこと踊り出していたそうです。

母はよく洋画のタイトルソングを歌ったりしていましたが、踊りも上手でした。チャンスさえあったらエンターテイナーになっていたかもしれない。私がイサドラ・ダンカン・ヘリテージ・ソサエティ・ジャパンを始めた頃、母がクラスに参加してくれたことがあったのですが、いちばん脚が上がっていたのは母じゃないかと思ったほどでした(笑)。

そんなお母さまの影響で、ダンスを習い始めたわけですね。
メアリー 3歳くらいのときに、各務原のバレエ教室に通い始めました。でも加納に引っ越す頃にはもう行かなくなりましたね。もともとバレエの教室には行きたくなかったんです。だって、シューズを履かなければいけないでしょう! 私は音楽に合わせて自由に踊るのが好きだったから、トウシューズなんて絶対に履きたくなかった。ただ、小学校では体操部に入っていて、器械体操をやっていました。鉄棒でくるくる回るのが得意で、私がいちばん多く回れる! って。本当に“トムボーイ”(お転婆)だったんですね。走るのも一番。成績は体育と音楽と美術だけが5で、あとは3ばかりでした(笑)!
体操はずっと続けたのですか?
メアリー いえ、中学の3年間で20センチくらい背が伸びてしまって、体操は難しくなってしまいました。それで、高校はバスケットボール部へ。音楽も好きで、フォークグループを作って歌ってもいましたし、よく映画も観に行っていました。
ところが最近、当時の同級生と話していて思い出したのですが、私は学校でモダンダンス部というのを作って、体育祭や文化祭で、自分が振付けたマスゲームのようなものをやっていたんですよ。コスチュームもみんなで手作りして、「ひまわり」とか私の大好きな映画音楽を自分で編集して、みんなに振付を教えて、学校じゅうの人を巻き込んで! みんなが並んで作った大きな円が、私が笛をふくとパーッとフォーメーションを変えていって、また別のセクションでダンスをする、みたいなことをしていました。
ダンスを習うことはやめてしまったけれど、自分で自由にダンスを作っていたわけですね。
メアリー 音楽に合わせて自由に身体を動かすのが大好きでしたし、ひとりっ子で寂しいものだから、みんなと何かをやりたくて。そんなふうに自分の好きなことをする精神が宿ったのは、母のおかげだと思っています。

ショー、雑誌、テレビ出演……レギュラー番組まで持っていたトップモデル時代

高校卒業後は京都の大学に進学。メアリーさんは若い頃に人気モデルとして雑誌やテレビで活躍していたそうですが、それもその頃ですか?
メアリー ええ、そうです。京都外国語大学に進学して、最初に住んでいた下宿の隣の部屋に、カメラが趣味という女性がいたんです。私の写真を撮っていいかというので、いいよと言って写真を撮ってもらったのですが、それが私の知らない間に、東京で開催されるミス・コンテスト「ミス・ジャパン」に応募されていて。あとで突然「コンテストに来てくれ」という通知が届き、何もわからぬまま初めて東京へ。結果、ミス・ジャパンにはなれなかったけれど、ミス水着というタイトルをいただいて、何かの行事のテープカットやいろんなイベントに呼ばれるようになりました。
その後スカウトされてモデルのお仕事を始めたと。
メアリー スカウトはたくさんされましたよ。青山を歩くだけで、次々と名刺を渡されて。でも本当にモデルになるなら一番いいモデルクラブに入りたいと思って、当時トップだった3つのクラブに面接に行き、「ナウファッションエージェンシー」というところに入りました。その後はあっという間にスケジュールが埋まっていき、トップモデルと言われるようになりました。

20歳前後の頃は、トップモデルとしてファッション誌の誌面を飾っていたそう 写真提供:メアリー佐野

雑誌やショーのお仕事だけでなくテレビ番組にも出演していたそうですね。
メアリー 事務所の社長が画期的な発想の持ち主で、ある時「モデルもいいけれど、歌ったり踊ったりするグループをやらないか」と。それで「ナウガールズ」という、女性5人でその大半がハーフというグループを結成しました。
ただ、ナウガールズとして出演していたテレビのお仕事は1年間で契約を終わらせました。もう1年続けてほしいと言われたけれど、エンターテインのために歌ったり踊ったりすることは、私には本当に興味がなかった。ほかのみんなはやる気でいたので、申し訳なかったなと思います。当時、映画の仕事にも誘われましたが、その時は俳優にもなりたくありませんでした。
20歳前後の若さで才能を見込まれ、そこまで声をかけられたら、たとえ興味がない分野でも「もしかしたら自分に向いているのかも……」と思ってしまいそうです。
メアリー 違う、と思っていたんです。何かが違うと。いま振り返ってみると、やはり私はダンカンのダンスに出会う運命だったのかもしれません。
ダンカンの伝記を執筆したフレドリカ・ブレアさんから、ご著書のあとがきを依頼されて、ダンカンのことを書いたことがあります。私はそこに、1979年の夏にサンフランシスコでダンカンのダンスに出会った時のことを振り返って、「多忙な生活の中で自分らしい表現を探して求めていた」と記しているんです。モデルをやらせてもらってものすごく忙しい日々を過ごしていたおかげで、「私はこれじゃない」ということがわかり、もっと精神的なものを探すようになっていたのでしょうね。

自分らしい何かを探して……電話帳で見つけた「ダンカン・ダンス」

サンフランシスコを訪れたのはなぜですか?
メアリー フィアンセがサンフランシスコにいたからです。モデルの仕事で忙しくしながらも、年に一度くらいは彼に会いにサンフランシスコに行っていました。
そこでダンカンのダンスに出会ったと。きっかけは?
メアリー 2週間くらい滞在している間に何かやれないかなと思って、パントマイムやダンスのクラスを受けていたんです。当時はインターネットなんてありませんから、電話帳で探してね。その中に、イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティがあった。創設者であるミニヨン・ガーランド先生がサマーワークショップを開いていて、それに参加してみたところ──もちろんインパクトはあったけれど、その時はまだふわーっとした、何ともいえない感覚が残っただけでした。でも、大事なことって、意外と後からじわーっとくるものでしょう? 東京に戻ってきてからもなぜか忘れられなくて、その後も何度かサンフランシスコへと行くようになったんです。
その後、最終的には完全にサンフランシスコに拠点を移したわけですね。
メアリー モデルのお仕事はまだ2年くらい先までスケジュールが詰まっていたので、少しずつシフトしていきました。その間に大学を卒業して、結婚して、息子のトニーが生まれて。出産は東京でしました。トニーが1歳の時に、私はミニヨン先生を日本にお呼びして、東京でワークショップを開催したんですよ。それがきっかけとなって、イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパンができました。それが1983年のこと。家族でアメリカに居を移したのは、1985年の夏でした。
メアリーさんは、ダンカン・ダンスを踊るだけでなく、アメリカの大学院で舞踊学も専門的に学んだとか。
メアリー そう、アメリカに住むようになってから、カリフォルニアのミルズ大学舞踊学部大学院に入りました。理由は、もっとダンスのことを勉強したかったから。自分はダンカンのダンスは上手くなっていたかもしれませんが、もっといい先生になりたかったし、教えるにはダンスというものをもっと全般的に勉強したかった。大学院ではダンス学、キネシオロジー、ラバン記譜法、とにかくいろんなスタディに取り組みました。さらには、舞踊学科を飛び出して、教育学部のクラスにも顔を出し、どうやって教えるかということも勉強して。美術のクラスにも行きました。いま、ダンカンのダンスを教える時、この大学院での学びが自分の中のベースとなっていると感じています。ダンカンの立ち位置がよくわかるようになりましたし、ダンカンのどこが素晴らしいのか、どこが他のダンスと違うのかということが実感できるようになりましたから。

写真提供:メアリー佐野

バレエとも他のダンスとも違う……ダンカン・ダンスのもつ“雰囲気”の秘密

それにしても、エネルギッシュで自由に育ってきたメアリーさんが、とても静寂な雰囲気をたたえるダンカンのダンスに、それほどまでに魅了されたというのが不思議に思えます。
メアリー ダンカンのダンスは静寂なように見えて、じつはとてもハードでパワフルなんですよ。例えば空を自在に飛ぶ鳥は、見た目ではふわーっと優雅に飛んでいるようですが、その動きを実際にやってみようとすると、そんなに簡単なものではありません。そういった自然界の動きをよく観察して、大地の鼓動や生命を感じ取って踊る。それがダンカン・ダンスには必要なんです。
大地の鼓動や生命を感じ取る……私にはとてもできそうにありません。
メアリー そんなことはありませんよ。誰でもできることですが、バレエや他のダンスと同じように、やはり2〜3年はやらないと掴めないことはあります。
ダンカンのダンスを学ぶ上では、イマジネーションが大切だと考えます。例えば雲とか蝶とか波とか、自然界の動きをよく観察し、想像を膨らませ、どうやって身体の動きに取り入れていけるかを探していく。そういうプロセスを重ねていくんです。

日頃のレッスンやワークショップでは、具体的にどのようなことをするのですか?
メアリー ふだんのクラスでは、自分のマインドとボディをリラックスすることから始めます。まずは呼吸。鼻から大きく吸って、口から吐いていく……それを大地に沈み込むようなイメージで横たわって行い、心身をニュートラルな状態に戻していきます。
床のことを、私は「大地」と呼んでいます。床の下にはコンクリートがあるかもしれない。でもその下には土があって、さらにずうっと深いところまで繋がっていて、大きな地球までイマジネーションを飛ばしてみる。この大地、地球が私たちをサポートしているということを感じるために、まずは寝て、次に座ってエクササイズをします。そこまでが40分くらい。最後に立ち上がって、エクササイズを行います。

ダンカン・ダンスを見ると、ステップ云々ではなく、立ち姿や存在の仕方そのものに独特な雰囲気を感じます。例えばバレエは上体を引き上げながら足裏は強く床を押し、身体の中にまっすぐな軸を作って踊るダンスですが、それとは全く違う風情が、ダンカン・ダンスには漂っているように見えます。
メアリー ダンカン・ダンスの場合、地平線を見つめて立っている時、頭のてっぺんは大きな宇宙と繋がっていて、足の裏に力はまったく入らなくて、大地のエナジーをしっかり感じています。そして動きの中心はみぞおちにあります。みぞおちは「太陽神経叢」とも呼ばれますが、とてもいい言い方ですね。英語だとソーラープレクサス。太陽がパーンと当たるような、エネルギーの中心という感じがします。
古代ギリシャの彫刻で、頭も手も失われたトルソーが発掘されていますが、胴体だけでも、何か踊っているように思えますよね。ダンカンのダンスはまさにその世界。手と脚は後からくるんです。
そういえば、ダンカンはギリシャの美術についてかなり研究をされたそうですね。
メアリー ダンカンは「舞踊を復活させるには太古のギリシャに立ち返らなければ」と言った人。壁画や壺絵、彫像についてもずいぶん研究し、「ギリシャの彫像が動きを示唆している」とも語っています。例えば『タナグラの彫像』という作品。ギリシャの彫像をよく見ると、必ず片方のヒップに体重をかけています。となれば、身体は必然的に次の動きを示唆しています。私たちは太古のタナグラの彫像のようになり、流れるように動きます。
ダンカン・ダンスというと静かで緩やかな踊りの印象が強いのですが、テンポの速い踊りもありますか?
メアリー ダンカンは音楽とひとつになろうとしていたので、例えばショパンのワルツなどを踊れば、テンポはかなり速くなります。
ショパンで踊る作品もあるのですね!
メアリー ええ、あります。私はショパンの曲に振付けられたものを20曲ほど継承していて、その中にはマズルカやエチュードなどありますが、ワルツも3〜4曲あります。ダンカンはお母さまがピアニストだったんです。
またダンカンは「私の舞踊の原点となったのは、カリフォルニア西海岸の波」という言葉も残しています。波の動きは絶え間なく、曲線的です。まさにそれが、ダンカンのダンスの中に強く表れています。

ダンカン・ダンスの3代目継承者として

メアリーさんがダンカン・ダンスの継承者になったのが1992 年。以後ずっとその真髄を追求し続けてきていますが、あらためて、ダンカン・ダンスの魅力とはどんなところにあると感じていますか?
メアリー このダンスには自由があります。自己の精神性を広げてくれるというか、自分をいつまでも高めてくれるものでもある。そして続けることによって、どんどん深さが増していくとも感じています。
日本には「鏡花水月」といういい言葉がありますね。目には見えるけれど、つかめない。ダンカン・ダンスを踊る私にとって、これはひとつのテーマです。
ダンカン・ダンスの継承者として、最も大切にしていることは何でしょうか?
メアリー ダンカンの素晴らしい作品は、その輝きを保ちながら踊り続けなければと思っています。でもダンカンのダンスを継承するということは、ダンカンが踊ったダンスを踊るだけではなく、自身のダンスを創造することでもあると考えています。ダンカンのダンスを長く勉強するということはつまり、ダンカンの哲学やスタイルを学び、継承するということ。だから、私が私のダンスを踊ったとしても、そこにはダンカンの魂も入っているのです。それこそが、継承するということ──いまになって初めて、こうした言葉が言えるようになったと思います。

ダンカン・ダンスに出会うことができて、私は本当にラッキーです。もし出会っていなかったら、私はこんなに前向きに人生を過ごすことができていなかったでしょう。私、ダンカン・ダンスに恋をしたんです。
私のように思う人はほかにもきっといるはずですから、これからは、ダンカン・ダンスを知らない人たちにリーチアウトできたらと。いま、若い人たちもいろんな悩みを抱えていると思います。私は、そういった人たちの思いを共有して、助けたい。身体を動かすことは健康にも繋がります。そのためにも、他のアーティストとコラボしたり、対話をしたり、いろいろなことをやっていきたい。その中で、ダンカンのダンスをもっと深く学びたいという人が出てきたなら嬉しいですね。

ダンカンのダンスを経験してみたいという人はたくさんいると思います。女性の踊りという印象が強いのですが、男性でもチャレンジできますか?
メアリー 東京で指導を始めた頃は、よく舞踏の方がいらっしゃっていました。みなさん男性です。私はそこではじめて舞踏というダンスを知りましたが、すごく精神的に近いところがあると感じました。ダンカンは女性のリーダーでしたから、ともすると女性だけのダンスというイメージがあるかもしれませんが、精神的なものはみな同じです。小さいお子さんからシニアまで、老若男女取り組んでいただけると思います。

パンデミックや戦争が起きて、先のわからない時代になってきているけれど、だからこそいま、こうした精神性の高いダンスが必要だと思っています。自分の精神と身体を、いいハーモニー、調和をもって育んでいくこと。それが一番大切なことだと感じています。

©️小木曽真土

 

メアリー佐野
ダンカンダンス3代目継承者。1979年よりミニヨン・ガーランドに師事。自然でスピリチュアルなダンカン・ダンスに魅了され1983年にイサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパンを東京に設立。サンフランシスコではメアリー佐野・ダンカンダンス・スタジオを1997年に創立。日米両国またヨーロッパにて数々の公演やワークショップを開催している。イサドラ・ダンカンの作品を継承する第一人者であるだけでなく、自身の新作を毎年発表しており、振付、演出、プロデュースも手掛け、国際的に活躍している。2019 年より東京・千代田区のアート空間シジィジーの芸術監督を務める。

公演情報

「イサドラのコロス:生と死 Isadora’s Choros: Life and Death 」

【日時】
2024年 3月3日(日)17:30開場/18:00開演

【会場】
TOKYO FM ホール(東京都千代田区麹町1-7 エフエムセンター2F)

【チケット】
全席自由 前売 4,000円 /当日4,500円

【主催】
アート空間 シジィジー(東京都千代田区三番町22-7-1F)
千代田区文化事業助成対象事業

【問合・予約】
SyzygyTokyo@gmail.com
☎️03-6256-8834

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