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ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第12回〉「老い」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

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老い

生きている以上は誰にでも必ず訪れる“老い”。そうと分かっていても、何も感じず心穏やかに迎え入れられる人はどれだけいるのだろうか。その延長線上に待つのが死だからこそ、人々は不安や恐怖、怒りや寂しさややるせなさを覚えずにはいられない。これらの感情は人の行動や関係性にも影響を及ぼし、様々なドラマを生み出す。

衰えた美女〜能&演劇『卒都婆小町/卒塔婆小町』、演劇『欲望という名の電車』、オペラ『ばらの騎士』〜

多くの人が老いを切実に感じ始めるのは容色の衰えだろう。実際には性別に関わらずやって来るものだが、舞台芸術に描かれるのは、圧倒的に女性。歴史的に見ても、若さと美貌を頼りにして生きるしかなかった女性は多く、武器を失うことはそのまま人生の凋落を意味していたのだから無理もない。

いや、時代が変わった今でも、女性はしばしば若さや美しさを求められ、あるいは自ら縛られるのではないだろうか。個人的な話で恐縮だが、筆者は30の声を聞く頃、老女物に無性に惹きつけられ感情移入していた。老女物とは文字通り老女を主役とする能で、その多くは、老女が若く美しかった過去を懐古する。今考えれば笑ってしまうほど若かったが、女性として衰えを感じ始めた身には、老女物に流れる計り知れない孤独と寂寥感が痛切に響いたのだ。

その老女物の中に、『卒都婆(卒塔婆)小町』(そとばこまち/そとわこまち)という曲がある。題材となっているのは、平安時代、美女としての名声をほしいままにした生きた小野小町(おののこまち)。当時の美男美女の条件には優れた和歌を詠む才知や教養が含まれていたから、小野小町はただ容姿に優れていただけではないのだが、「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」という歌を遺したこともあってか、美貌が衰えた小町の物語は幾つも生まれており、『卒都婆小町』はその代表的な作品の一つだ。

〈あらすじ〉
高野山の僧が都へ向かう途中、老婆と出会う。老婆が仏体を表した卒都婆の上に座っているので、僧が退くように促すと、「そうは言うけれど、卒都婆の文字も読めず形もはっきりせず、朽木にしか見えない」と反論し、「朽木でも花が咲けばわかるように、仏体を刻んだ木にしるしがないはずがない」と僧が言うと、「自分も賤しい埋もれ者だが、心の花はまだあるから、仏に供える花でないはずがない」と反論する。

このようにして応酬を重ね、老婆が只者ではないと気づいた僧が名を尋ねると、老婆は「自分は小野小町のなれの果てだ」と明かし、美女として全盛を誇った昔を懐かしみ、百歳の物乞いとなった現在を嘆く。

やがて老女は狂乱し、深草少将のことを話し始める。百夜続けて通ったらその求愛を受け入れるという小町の言葉を聞いて九十九夜通った深草少将は、最後の一夜を残して命を落としてしまう。その怨霊が小町に憑りついたのだ。

狂乱から醒めると、小町は仏に帰依して悟りの道へ入ることを誓う。

『卒都婆小町』の中でも小町自身が「昔は驕慢甚だしかった」とし、深草少将の霊には「恋の道に熟練し過ぎていた小町は、幾人もの男たちから恋文を受け取りながら、ついに一度も返事をしなかった。百歳の今、その報いが身に降りかかるのだ」と言われる通り、この主人公は美女として名を馳せながら誰の求愛にも応じず、そのために男の怨念に苦しめられる。

この作品から、三島由紀夫「近代能楽集」の中の一篇『卒塔婆小町』を生み出した。ここでの小町は、煙草の吸殻を拾い集めながら、カップルたちが愛をささやく公園のベンチに独り座る。その小町と出会うのは、僧ではなく酔った詩人。「私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと」と言う小町に、若かりし日の話をせがむ詩人。いつしか時はさかのぼり、詩人は鹿鳴館で美しい小町とワルツを踊る深草少将となっている。「九十九夜、九十九年」待って小町と再会した深草少将は、小町の制止も聞かずに「君は美しい」と禁断の言葉を口にし、百年後の再会を約束して息絶える。小町はこうして、男を百年待っては、結ばれることなく失い続ける。

美貌を誇りながらも男を受け入れず孤独と苦悩の老後を迎え、それでも成仏へと向かっていく能の卒都婆(卒塔婆)小町。美貌ゆえにこそ恋しい男に再会しては失い、老婆の姿で百年待つという、終わりなき輪廻の中に囚われる三島の卒塔婆小町。いずれも、哀しく寂しく、観る者の心に深く刻まれる女性の姿だ。

能『卒都婆小町』は6月、銀座SIXの中の観世能楽堂の「第49回 正門別会 特別公演」で観ることができる。シテは、観世流二十六世宗家の観世清和。『卒都婆小町』だけでも大曲なのだが、今回は、1日のうちに一人で6曲もの能のシテを演じるという、空前絶後の「独演翁付キ五番能」の一環として上演されることにも注目したい。公演は二部制で、朝10時に開演し、すべて終わるのは夜9時頃の予定。昨年、還暦を迎え、円熟期へ入っていくその至芸は必見だ。チケットは残り僅かだが、時間が許す方は、能尽くしの特別な1日に立ち会ってみてはいかがだろうか。

観世宗家『卒都婆小町』 写真提供:観世宗家

さて、年齢と共に凋落していく女性を考える時、やはり忘れられないのが、アメリカの作家テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』だろう。1947年に初演され、1951年にはヴィヴィアン・リー主演で映画化。このほか、振付家ノイマイヤーによるバレエ(1983年初演)、作曲家アンドレ・プレヴィンによるオペラ(1998年初演)などにもなっている。

〈あらすじ〉
アメリカ南部の名家に生まれ育ったブランチ・デュボワは、故郷を離れ、ニューオーリンズに住む妹ステラのもとに身を寄せるが、誇り高く繊細で気取っている彼女と、粗野なステラの夫スタンリーはことあるごとに対立する。やがてスタンリーによって、ブランチが教員を務める街で多くの男たちとベッドを共にし、挙句の果てには教え子の少年とも関係を持って街を追い出されたことが暴かれ、再起を図って近づいたスタンリーのポーカー仲間であるミッチとの結婚も壊されるブランチ。ステラが出産で家を明けた晩、彼女はスタンリーとの衝突の果てにレイプされ、発狂。施設に送られていく。

ブランチの崩壊には様々な要因があり、年齢はその一端に過ぎないのだが、彼女の過去をスタンリーから聞かされたミッチが、年齢を隠すため明るい場所を避けてきたブランチの顔を灯りで照らす場面の残酷さなどは、女性としていたたまれないものがある。能の老女物と同様、極端ではあるが、ある種のシンパシーを覚える女性もいるのではないだろうか。

とはいえ、より多くの女性が共感を覚えるヒロイン像としては、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』の元帥夫人マルシャリンこそがふさわしい。全3幕のうちの1幕のあらすじをご紹介しよう。

〈あらすじ〉
ウィーンの陸軍元帥の屋敷。元帥夫人マルシャリンは夫の留守中、ひと回り以上年下の17歳の青年貴族オクタヴィアンとベッドを共にしている。そこへいとこのオックス男爵が訪ねてくるので、マルシャリンはオクタヴィアンを女装させ小間使いに変装させてその場を切り抜ける。オックスは、財産目当てで婚約した成金貴族ファーニナルの娘ゾフィーへ贈る銀のばらを届ける“ばらの騎士”を紹介してほしいとマルシャリンに頼む。彼女は(そこにいる小間使い本人であることはもちろん明かさずに)オクタヴィアンの名を挙げ、朝の支度に取り掛かるが、髪結いが作った自分の髪型を鏡で見て「今日は私をおばあさんに仕立てたのね」と顔を曇らせる。

オックス男爵が去ると、マルシャリンは一人、昔を思い出しながら「私は小さなレジ(愛称)だった。そしてあっという間におばあさんになってしまった」「神様は何故、こんなふうになさるの? 私は私のまま変わらないのに、なぜそれをはっきりと見せつけるの」と嘆き、「でも人は耐えるのだわ。どのようにして耐えるかなのよ」とひとりごつ。

やがてオクタヴィアンが着替えて戻ってくると「近いうちにあなたは去り、私の代わりにもっと若くて美しい人を求めるのよ」と言って帰らせ、一人物思いに耽る。

マルシャリンがモノローグとして口にする思いは、ある程度年齢を重ねた人なら覚えのあるものではないだろうか。悲しそうにいつか来る別れの話をするマルシャリンにオクタヴィアンは「どうしてそんなことを言うの?」「愛しているのに」と反論するが、マルシャリンの予感通り、銀のばらを持っていったゾフィーと恋に落ちる。それをマルシャリンは援護し、晴れて結ばれたゾフィーとオクタヴィアンから深く感謝されるのだった。

★マルシャリンのモノローグの場面↓↓↓

来年になるが、この『ばらの騎士』は新国立劇場で観ることができる。ジョナサン・ミラーの演出では、1幕の最後、窓辺に立ってタバコをくゆらせるマルシャリンの姿があまりにも印象的。モノローグに限らず、心躍る序曲といい、ゾフィーとオクタヴィアンの出会いの二重唱といい、ラストのマルシャリンとオクタヴィアンとゾフィーの三重唱といい、胸に沁みる音楽でいっぱいのオペラだ。

新国立劇場『ばらの騎士』(2017年公演)より 撮影:寺司正彦

死と直面する男〜演劇『リア王』、演劇『父』(映画「ファーザー」)〜

ここまでに紹介したヒロインのうち卒都婆小町こそ究極的な100歳だが、ブランチとマルシャリンは30代前半。女性にとって老いの自覚はそれだけ早いと言える。一方、男性の場合、それは死に近い年齢で描かれることが多い。

例えばシェイクスピアが書いた『リア王』の主人公リアは、80歳を越す老齢だ。

〈あらすじ〉
高齢となったリア王は、退位して自国を3人の娘に分け与え、自身は娘の世話になって暮らそうと考える。分配のため、娘たちに自分への愛を語らせたところ、長女ゴネリルと次女リーガンはこれでもかと飾り立てた愛の言葉でリアを喜ばせたのに対して、末娘コーディリアの返答はあまりにもシンプルで控えめなものだった。怒ったリアはゴネリルとリーガンにのみ領地を与え、コーディリアを勘当する。しかし姉娘たちはどちらもリアを虐待し、厄介者扱いして追い払う。
後悔の念に苛まれながら、嵐の荒野をさまようリア。フランス王と結婚したコーディリアは父を救おうと姉たちに対して兵を起こす。父娘は再会いし喜ぶが、コーディリアは捕えられ、処刑される。絶望の中、リアもまた絶命する。

領土のすべてを手放したり腹黒い姉たちを評価したりするという判断力の低下といい、いちばん可愛がっていた末娘に対する癇癪や頑迷さといい、リアには老人特有の欠点が多く見られる。実際、ゴネリルやリーガンから老害扱いされ罵倒されるリア。また、サブストーリー的に描かれる王の廷臣グロスターもまた老人として同じように過ちを犯す。『リア王』はシェイクスピア作品の中で、最も老いにフォーカスを当てた作品と言えるだろう。

なお、“シェイクスピアと老い”絡みで、ぜひ触れておきたいユニークな戯曲がある。イギリスの劇作家・ドラマトゥルクのベン・パワーが2009年、20代の時に発表した『テンダーシング』だ。これは、『ロミオとジュリエット』の言葉にシェイクスピアのソネットの言葉を加えて再構成し、老夫婦の物語として作り直した二人芝居。シェイクスピアがしばしば若者に語らせる老人への嫌悪が自身の老いへの恐怖や嫌悪になったり、原作の様々な役の言葉が死を間近にした老夫婦の台詞にピタリとはまり込んだり。そして訪れる、若者たちのそれとはひと味違う、パートナーとの永遠の別れ。

ちょっとした入れ替えで若者たちの世界を老人たちの世界に変えるベン・パワーの見事な構成力は言うまでもないが、それを可能にするシェイクスピアの豊かな言語にもあらためて感服させられる。

とはいえ、もともとは別の文脈で使われていた言葉だけに、解釈や発し方によって印象がかなり異なる作品だと思われるが、今年2月の荒井遼演出、土居裕子・大森博史出演による日本初演では、しみじみとした哀感の中に、静かに深く強く愛情の炎が燃えるような世界となっていた。

『テンダーシング−ロミオとジュリエットより−』撮影:阿部章仁

さて、先ごろ米国のアカデミー賞が発表され、83歳のアンソニー・ホプキンスがフロリアン・ゼレール監督「ファーザー」で主演男優賞を獲ったが、この「ファーザー」はもともとゼレール自身が2012年に発表した戯曲。日本では2019年に『Le Père 父』のタイトルで、橋爪功主演により上演された。アルツハイマーの症状が出始めながらもそれを認めず、頑固な性格でヘルパーを何人も辞めさせる父。その父を案じ、どうにか支えようとする娘。「父」という娘から見たタイトルではあるが、物語は基本的に父の目線で描かれており、観客は混乱した世界をそのまま観ることになる。それだけに、老いの世界の厳しさや苦しさ、悲しみが痛いほど伝わる作品だ。作者自身がメガホンを取っただけあって、映画もほぼ戯曲そのままの流れで進むので、映画館で体感してみてほしい。

『ファーザー』2021年5月14日(金)TOHOシネマズ シャンテ他 全国ロードショー © NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF  CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  TRADEMARK FATHER LIMITED  F COMME FILM  CINÉ-@  ORANGE STUDIO 2020

老いを強みに〜大野一雄、さいたまゴールド・シアター〜

ここまで、老いがもたらす苦悩や悲しみを描いた作品を中心に紹介してきたが、年齢ゆえにこそ光輝く舞台・舞台人は多数存在する。というより伝統芸能のほとんどはそうなので、今回は敢えて触れない。

高齢になってから輝きを放ったスターの一人として、ここでは大野一雄を挙げよう。土方巽と並ぶ舞踏の創始者として知られる大野だが、じつは土方より22歳も上。1906年生まれの大野は舞踏の黎明期である1960年代、既に60代だった。1980年にナンシー国際演劇祭でのヨーロッパデビューした際の年齢は、73歳。この時に上演した『ラ・アルヘンティーナ頌』はその3年前に発表した作品で、ナンシーでの成功以後、代表作のひとつとして国内外で幾度も上演されることになる。

90歳を超えて踊り続け、103歳でこの世を去った大野。舞踏以前に現代舞踊の世界で踊ってはいたが、舞踊家としての真の名声は、一般に老年期とされる年齢から始まったのだ。老いがただの衰退・退化ではなく、新たな大輪の花たり得ることを、大野は教えてくれる。

老いが持つ表現の可能性を考える時、忘れられないのは、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督となった演出家・蜷川幸雄が、自身も70代となる中、2006年に創設した55歳以上のプロ劇団「さいたまゴールド・シアター」だ。蜷川は、ポーランドの名演出家タデウシュ・カントールが主宰した老人劇団をモデルに、この劇団を創始した。

「年齢を重ねるということは、様々な経験を、つまり深い喜びや悲しみや平穏な日々を生き抜いてきたということの証でもあります。その年齢を重ねた人々が、その個人史をベースに、身体表現という方法によって新しい自分に出会うことは可能ではないか? ということが、私が高齢者の演劇集団を創ろうと思った動機です。」

という蜷川の言葉が、今もゴールド・シアターのウェブサイトには掲載されている。オーディションで選ばれたメンバーの多くは演劇経験がない素人だった。

蜷川の盟友であった劇作家・清水邦夫の『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』ほかを上演する「Pro・cess」公演を経て、2007年、劇作家・岩松了の書き下ろし作『船上のピクニック』で第1回公演を行ったゴールド・シアター。以後、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、松井周、岩井秀人ら気鋭の現代劇作家の書き下ろし作品を、蜷川演出で上演し、話題に。2013年には『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』でパリ公演を行うなど、海外公演もこなした。

演劇の訓練を積むことなく老年期になって舞台に立ち始めた俳優たち。台詞が飛び、段取りが分からなくなることもあったが、一流の演出と戯曲を得て生き生きと演じる彼らの姿は、狭義の巧拙を超えた演劇のリアリティと魅力を存分に伝えてくれる。その新たな可能性に、客席から幾度目を見開き、胸を躍らせたことだろう。人生の終わりを迎えて姿を消すメンバーがいることすらも、彼らの物語、彼らのドラマだ。仕掛け人の蜷川は2016年に逝去し、彼らが繰り返しその作品を演じた劇作家・清水邦夫も今年4月にこの世を去ったが、ゴールド・シアターは今も続いている。今年2月には松井周の作・演出で新作を上演するはずだったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて公演中止に。いつの日か、また彼らの舞台を観るのを楽しみにしたい。

(上記写真2点とも)さいたまゴールド・シアター『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』2014年香港公演より 撮影:宮川舞子

老いの有りようを様々に映し出す舞台。描かれるのが恐怖にしろ悲しみにしろ平穏にしろ、観ていて何よりも人間への限りない愛おしさが湧き上がってくるように感じるのは、筆者だけだろうか?

★次回は2021年6月1日(火)更新予定です

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舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

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