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ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第9回〉「変身」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

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変身

子どもの頃、変身ごっこをして遊んだ記憶がある人は多いのではないだろうか。戦隊ヒーローものでも魔法少女ものでも、大抵の場合は変身シーンが一つの見せ場だ。
成人して社会に出てからも、人間はある種の変身と無縁ではない。状況によって名前や属性を変えたり、身につける衣服や化粧で変貌したり、身体に手を入れたり……。あくまで興味や楽しみとして行う人もいれば、切実な事情や思いゆえという人もいるだろう。
いずれにしても、変身の度合いが強ければ強いほど、それがわかった時のインパクトも大きくなり、ドラマが生まれる。今回は、舞台に描かれた様々な“変身”を見ていきたい。

ギリシャ・ローマ神話と変身〜オペラ『ダフネ』『ダナエ』、バレエ『レダ』『ナルシス』『メデューサ』、演劇『METAMORPHOSES(変身物語)』

変身にまつわる物語=“変身譚”は世界各地に残されているが、中でもヴァラエティに富むのはギリシャ・ローマ神話だろう。神アポロンの求愛から逃れるために月桂樹になったニンフのダフネ、女性と愛し合うために白鳥や黄金の雨など様々なものに化けた神ゼウス(ユピテル/ジュピター)、水面に映った自分の姿に恋をして命を落として水仙の花になったナルキッソス(ナルシス)、神の怒りを買ったために頭髪を生きた蛇にされ、自分を見る者すべて石にしてしまう怪物メデューサ……。こうして挙げていくだけでも、じつに多彩だ。

今挙げた物語はいずれも、舞台作品のモチーフになっている。
例えばダフネの物語は、16世紀の終わりにヤコポ・ペーリ『ダフネ』のタイトルで作曲。これが人類史上最初のオペラだと言われている。その後、リヒャルト・シュトラウスもオペラ化した。また、ナルキッソスゴレイゾフスキー振付のバレエ『ナルシス』となり、ウラジーミル・ワシーリエフやウラジーミル・マラーホフが踊って有名に。

しかしなんと言っても驚嘆すべきは、女性を求めて様々なものに化けたゼウス。彼が白鳥に化けたのはスパルタ王妃レダを得るため。白鳥の姿となった自分を鷹に追わせ、レダの同情を買って目的を達した。“レダと白鳥”といえば絵画や彫刻の題材として有名だが、モーリス・ベジャール『レダ』のタイトルでマイヤ・プリセツカヤとジョルジュ・ドンに振付けている。ギリシャ神話の世界と能『羽衣』の世界を重ね合わせ、雅楽で送るという、ベジャールならではの作品だ。

一方、ゼウスが黄金の雨に化けた時の相手は、アルゴスの王女ダナエ。男を寄せ付けまいと父王から監禁された彼女のもとへ行くため、雨となって窓から侵入したのだった。『ダフネ』と同じ作曲家リヒャルト・シュトラウスと詩人ホフマンスタールはこの物語に手を加え、独自のオペラ『ダナエの愛』を創り出した。

ポルックス王が治めるエオス王国は財政危機にあり、王女ダナエは、触るものをすべて黄金に変える力を持つプリュギアのミダス王と政略結婚することになっている。ある晩、黄金の雨が降り注ぎ、黄金の影に抱かれる夢を見て至福を味わうダナエ。しかしそれは、ダナエに目をつけて狙う神ユピテルの誘惑だった。

やがて、ミダス王の部下が到着する。しかし、これは実際のミダスが変装した姿だった。互いに惹かれ合うダナエとミダス。次にミダス王が到着するが、こちらはユピテルの変装だ。黄金の雨の夢を思い出し、ダナエは恍惚となる。じつは、ミダスはユピテルから黄金の力をもらうのと引き換えに、いつでも求めに応じて姿を入れ替えなければならなくなっていたのだった。

その夜、ダナエの前に現れて求愛する、ユピテルとミダス。ダナエがミダスを選ぶと、ユピテルは、ミダスに、自分が授けた力と愛と、どちらかを選ぶよう迫る。ミダスはダナエを選んで力を失うが、それでもダナエは彼を選んで貧しい生活を始める。ユピテルの怒りをものともせず、再三の誘惑にも応じないダナエの姿に、ユピテルも最後は祝福するのだった。

変身について言えば、ユピテルの黄金の雨を視覚的にどう見せるかは演出家次第だが、何よりもキラキラした音楽が雄弁に表している。さらに本物のミダスがダナエに口づけし、ダナエが黄金になってしまう場面も。音で、ビジュアルで、変身がどう描かれるか、ぜひ観てみてほしい。上演機会は多くないオペラだが、現在、バードカレッジのフィッシャーセンターが2011年に上演した舞台映像を公開中。現代的な衣裳・演出のプロダクションとなっている。

さて、オペラではダナエはユピテルとは結ばれないわけだが、神話のダナエはユピテルの子として英雄ペルセウスを生む。そのペルセウスに退治されたのが、怪物メデューサだ。シディ・ラルビ・シェルカウイが英国ロイヤル・バレエのナタリア・オシポワに振付けた『メデューサ』は、日本でも上映・配信されたので、ご覧になった方もあるだろう。蛇のような動きを交えながら、抑圧された女性の姿を浮かび上がらせた作品だ。

こうしたギリシャ・ローマ神話から、古代ローマの詩人オウィディウスは、変身にまつわる250ものエピソードを集め、『変身物語』を著した。この『変身物語』じたいを演劇にしたのが、メアリー・ジマーマン作・演出『METAMORPHOSES』。『変身物語』の15のエピソードを演者がさまざまなキャラクターに扮して綴っていくもので、水を用いた幻想的な世界も話題に。1996年に初演された本作はその後ブロードウェイでも上演され、ジマーマンに2002年のトニー賞最優秀演出家賞をもたらした。2015年には韓国でも上演されたのだが、日本では某団体が版権を買ったという噂はあったものの公演には至っていない。

なお、余談になるが、フランツ・カフカの小説『変身』も英題は「Metamorphosis」。主人公グレゴール・ザムザがある朝起きると虫になっているという、不条理小説の名作だ。その舞台版としては、1969年、俳優・劇作家・演出家スティーブン・バーコフが脚本・演出・主演し、その後、宮本亜門(現・亞門)や森山未來も演じたバージョンが有名だろう。バレエでは2011年、英国ロイヤル・バレエがアーサー・ピタ振付・演出で初演し、エドワード・ワトソンが主演している。

怨念から蛇になった女性〜能『道成寺』、歌舞伎『京鹿子娘道成寺』、人形浄瑠璃(文楽)&歌舞伎『日高川入相花王』

もちろん、日本の神話や伝承にも多種多様な変身が描かれている。中でも印象的なのが、人が蛇になったり、じつは蛇だったりする物語で、その一つが「安珍清姫」伝説。いくつかのヴァージョンがあるが、おおまかなストーリーは以下の通り。

僧・安珍は紀州熊野権現の参詣中、泊まった家の娘・清姫に恋慕され、今は参詣中だからあとで寄るとだましてそのまま出立する。怒った清姫は安珍を追いかけ、日高川まで来ると蛇体になって渡し船に乗る安珍に迫ろうとする。川を渡った安珍は道成寺に匿われ、釣鐘の中に身を潜めるが、清姫は鐘に炎を吐き、安珍を焼き殺す。

この物語がとして結実したのが、名曲『道成寺』だ。

かつて清姫が安珍を焼き殺した道成寺で、新しい釣り鐘の供養が行われることになった。住職は周囲に理由を話さぬまま「決して女人を入れてはならない」と言い渡すが、白拍子がやってきて、寺男に供養の舞を舞いたいと頼み込み、入れてもらう。白拍子は舞いながら鐘に近づき、「思へばこの鐘、恨めしや」と言って、落ちてくる鐘の中に入ってしまう。住職が、この寺の鐘で昔起きた出来事を周囲に話し、つれの僧と共に祈祷しながら、鐘を引き上げると、鐘の中からは女が変身した蛇体が現れる。祈祷を受けて、蛇は鐘に向かって吐いた息で自分の身を焼き、日高川へと姿を消すのだった。

能舞台の天井と柱には、この『道成寺』のためだけの滑車および金属の輪が設置されており、舞台上で“鐘後見”と呼ばれる係が鐘を吊るして上げ下げを行う。白拍子役のシテが、小鼓だけで15分間も続ける“乱拍子(らんびょうし)”は見せ場の一つ。さらに“鐘入り”は、落ちてくる鐘に飛び込む危険なもので、時には怪我をする能楽師も。さらに、落ちた鐘の中で、シテは一人で着替えなくてはならない。それだけ大変な曲であり、若手能楽師にとっては登竜門の意味も持つ。2021年2月23日には29歳の能楽師・小早川泰輝が本曲に挑む

この『道成寺』は、歌舞伎においては『京鹿子娘道成寺』『二人道成寺』『奴道成寺』『傾城道成寺』など様々な「道成寺もの」に発展。いずれも華やかな踊りが魅力で、元のテーマとは異なり、歌舞伎らしい明るさが基調だと言えるだろう。

また、安珍清姫の物語は、『日高川入相花王』のタイトルで人形浄瑠璃(文楽)にもなっている。全五段の長い物語で、ここでの僧・安珍は天皇の弟である桜木親王の世を忍ぶ仮の姿となっているのが特徴だが、その安珍に清姫が想いを寄せるところはほぼ従来の物語通り。有名なのは、清姫が日高川で蛇になる様子を描く四段目「渡し場の段」だ。安珍を追って日高川の渡し場まで来た清姫だが、安珍から言い含められていた船頭は、清姫がどれだけ頼んでも船を渡してくれない。そこで清姫は蛇になって日高川を渡るのだが、ここでの人形にはガブという首(かしら)が使われており、顔が一瞬で鬼の形相に変わるのも見どころ。

歌舞伎では同じタイトルでこの渡し場の段だけが上演され、オリジナルの文楽の趣向を取って、俳優が“人形振り”で演じるのが通例だ。

親を慕って人間に化ける狐〜文楽・歌舞伎『義経千本桜』

もう一つ、日本の古典芸能においてよく変身するのが、だろう。人を化かすと言われるだけのことはある。ここでは変身の醍醐味が味わえる『義経千本桜』の、狐に関わる場面をご紹介したい。

兄・源頼朝から追われ、都落ちする義経ら一行は、伏見稲荷まで来たところで、追いかけてきた静御前と会う。同行を願う静だったが、義経は形見として、後白河法皇から賜った“初音の鼓”を与え、ついて来ないようにと静を木に縛って去る。鎌倉方の早見藤太が縛られた静をみつけて捕らえようとするが、母と自身の病のため国に帰っていた義経の家来・佐藤忠信がこれを追いやる。戻ってきた義経は忠信に鎧と「源九郎義経」の名を与えて静の警護を言いつけて再び去る。(伏見稲荷)

義経を追って吉野の山を進む静御前。忠信は時折姿を消すのだが、静が初音の鼓を打つとどこからともなく現れる。(道行初音旅)

義経が匿われている吉野山の川連法眼(かわつらほうげん)の館を、国から戻った佐藤忠信が訪れると、静御前が忠信と共に到着したと知らせが入り、忠信は身に覚えがないので驚く。いっぽう、静が同道していた忠信は見当たらない。義経から真相究明を言い渡された静が鼓を打つと、一緒に旅をした忠信が現れる。静が訳を聞くと、じつはこの忠信は鼓の皮にされた夫婦の狐の子どもであり、親を恋し慕うあまり、忠信に化けたのだと話すと、これ以上は本物の佐藤忠信に迷惑はかけられないとして姿を消す。肉親である兄から追われる立場の義経は、狐の境遇を憐れみ、再び静に狐を呼び出させて鼓を与える。狐の忠信は喜び、義経らの身に危険が迫っていることを告げながら鼓をもって姿を消すのだった。(川連法眼館)

文楽の上演では、忠信が狐の姿となる際、人形も人形使いも同時に早替りする。人形遣いと狐の宙乗りや、太夫の見台や鼓など思いがけないところから狐が現れる演出(公演によって変わる)も、じつに愉しい。文楽『義経千本桜』は昨年4月に大阪、5月に東京で通し上演されるはずだったが、コロナ禍で公演中止に。昨年の宣伝用動画を観ながら(残念ながら早替りや宙乗りの瞬間は映っていないが)、実現を待ちたい。

歌舞伎では狐忠信の、狐言葉や狐をほうふつとさせる仕草、本物の佐藤忠信との演じ分け、狐の姿になる際の早替り、アクロバティックな動き、もらった鼓と嬉しそうに戯れる様子などが見どころ。京都南座の三月花形歌舞伎では、「吉野山」「川連法眼館」の狐忠信を、尾上右近と中村橋之助がWキャストで演じる。若手らしい瑞々しい演技に期待しよう。

何重にも演じ、装う〜演劇『十二夜』、オペラ『フィガロの結婚』

ここまで、非現実的な変身の話ばかりしてきたので、最後に、人間のリアルな変装を描いた作品にも触れておこう。シェイクスピア劇には男装する女性が多く登場する。前回書いた『ベニスの商人』のポーシャもその一人だが、今回ご紹介したいのは『十二夜』だ。

双子の兄妹、セバスチャンとヴァイオラの乗る船が遭難する。

見知らぬ土地イリリアの岸にたどり着いたヴァイオラは、兄セバスチャンは死んだものと思い、彼の衣服で男装しシザーリオと名乗って、オーシーノ公爵に仕えることになる。伯爵令嬢オリヴィアに恋をしているオーシーノは気持ちを伝えるべく、シザーリオを使いに出す。オーシーノに思いを寄せるヴァイオラは悲しい気持ちでオリヴィアのもとに行くが、オリヴィアはシザーリオの姿のヴァイオラに恋してしまう。

セバスチャンは別の船の船長アントニオに助けられ、やはりイリリアにやって来ていた。彼は突如、見ず知らずのオリヴィアに求愛され、これを受け入れる。

オリヴィアとセバスチャンの姿を見て、シザーリオに裏切られたと思ったのはオーシーノだ。一方、オリヴィアも、シザーリオ姿のヴァイオラとオーシーノのやり取りを見て裏切られたと思う。しかし、ヴァイオラとセバスチャンが揃うと、兄妹は再会を喜び、周囲はそっくりな二人に驚きながら真実を知る。オーシーノはヴァイオラに求婚し、めでたく2組のカップルが誕生する。

ヴァイオラ役の俳優は、シザーリオとして男装するほか、セバスチャンも演じなくてはならない。さらに面白いのは、シェイクスピアの時代には、女性が舞台に立つことは許されておらず、少年が女性の役を演じていたこと。つまり『十二夜』は、少年が女装して演じる女性が、男装して男性を演じていたわけだ。蜷川幸雄演出で05年に初演した歌舞伎『NINAGAWA 十二夜』はいわば、性別という意味でその当時の状況に戻したことになる。

これとは逆の現象が、オペラの“ズボン役”だろう。ズボン役とは、オペラで女性歌手(主にメゾソプラノ)が演じる男性の役柄のこと。代表的なのが『フィガロの結婚』のケルビーノだ。

アルマヴィーヴァ伯爵家に仕えるフィガロとスザンナは、婚礼を控えている。しかし伯爵はスザンナをものにしたいがために、領主などが新郎より先に新婦をいただく「初夜権」の復活を企んでいる。

かつては情熱的に愛し合った夫の愛が冷めたことを嘆く伯爵夫人に対して、伯爵を懲らしめる計画を持ちかけるフィガロとスザンナ。まずフィガロは、小姓ケルビーノを女装させてスザンナの代わりに伯爵に差し向けようとするが、女装の最中に伯爵がやってきたため、小姓とはいえ男性と一緒にいることで逆に女性たちがピンチを迎えるが、どうにか切り抜ける。

幾つかの予想外の出来事を経て、めでたく結婚したフィガロとスザンナだったが、伯爵はまだスザンナを狙っている。そこで伯爵夫人とスザンナは衣服を交換し、夜闇の中、伯爵夫人はスザンナになりすまして伯爵と、スザンナは伯爵夫人になりすましてフィガロと、逢引することに。果たして伯爵は自分のことを棚に上げて、伯爵夫人を口説くフィガロに腹を立てるが、じつはそれはフィガロの妻となったスザンナであり、自分が口説いた相手は伯爵夫人であると判明。非を認めて謝罪し、すべては丸く収まる。

ケルビーノは、城内の女性全員に恋をしている思春期の若者。その思いをしたためた曲をスザンナに見せたところ、憧れの伯爵夫人から聴きたいと所望され、歌わされる。これが有名なアリア、「恋とはどんなものかしら」だ。

間もなく開幕する新国立劇場『フィガロの結婚』2017年公演より、女装したケルビーノ(右)。スザンヌ(中央)に抱きついている。左は伯爵夫人。
撮影:寺司正彦

メゾソプラノが演じる女性好きの若者ケルビーノが、女装させられるーー。その重層構造に、倒錯めいた妙味がある。同様のことは、リヒャルト・シュトラウス(今回、3度目の言及!)が書いた『ばらの騎士』のオクタヴィアンにも当てはまるだろう。『ばらの騎士』に関しては別の機会に書きたいと思う。

そもそも多くの舞台において、演者は自分自身とは異なる役を演じるもの。その時点で、ある種の“変身”は行われていると言えるだろう。嘘と知りながら、進んで変身に騙され、無上の喜びを味わう。思えば観客自身も倒錯した奇妙な存在なのかもしれない。

★次回は2021年3月1日(月)更新予定です

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舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

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