ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく月1連載。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、バレエチャンネルをご覧のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
「アレグロ・ブリランテ」が帰ってきた
2022年6月26日、シーズン最後を飾る「ヌレエフ・ガラ」が開催されました。今回、私は思い出深く大切な作品、バランシン振付『アレグロ・ブリランテ』を再び演奏しました。曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲3番。この作品に出会ったのは2014年、ゲストピアニストが本番4日前に出演キャンセルしてしまい、私が急遽初日公演にジャンプインしたのです。丸三日間、食べることも寝ることも忘れてずっとピアノに向き合って練習して公演に臨んだ……あんな経験は後にも先にもないでしょう。
あれから8年がたち、ルグリ監督は惜しまれつつウィーンを去り、バレエ団もずいぶん変わりました。現体制のもと、私はソロの機会を与えてもらうたびに、これが最後と思いながら臨んできました。来シーズンのピアノソロ作品はすべてゲストピアニストが弾くそうです。そういう体制なので仕方ないですね……。
今回、バランシン・トラストから指導に来てくださったのは、パトリシア・ニアリーさん。昨年『シンフォニー・イン・ C』でご一緒しています。稽古初日に再会したパトリシアさん、挨拶もそこそこに「ピアノは誰が弾くの? 公演のピアニストは?」とかなり心配のご様子。私がすべて務めるとお伝えすると安心していただけたようです。この作品は大曲なのでゲストピアニストが弾くことが多いのですが、指導者とダンサーとピアニストが一体となって、日々稽古場で細かく作り上げていく作品で、音楽と踊りのパートナーシップが求められるものなのです。本番前に他のピアニストに代わってしまうと成り立たなくなるという側面があります。
パトリシアからお借りした楽譜。振付や注意書きがすべて書き込まれています。彼女は40年間、この楽譜を使ってアレグロ・ブリランテを指導しているそう。
2014年の指導はナネット・グルシャクさんでした。お二人の指導は細かいニュアンスや方法が違います。それぞれの経験に基づき、解釈とこだわりが少しずつ違うのも、人が伝えていく芸術の魅力だなと思うのです。バランシンが認め、信頼したダンサーが作品を引き継ぎ、後世に伝えていく。世界中で踊られているバランシン作品は、バランシンファミリーの個性込みで愛されているのだと気づかされます。
課題に向き合う
さて、8年前にこの作品にジャンプインした時はあまりにも大きな山が目前にそびえたっていましたが、あれから9回も弾いているし、今回は時間的にも精神的にも余裕があるはず。それなのに、なぜでしょうか。私の心は落ち着かない。当時とは状況が違うのです。「君ならできる。僕のスーパースターピアニストだ」といつも言ってくれていたボスがいない。今の監督は本来ならこの作品をゲストピアニストに弾かせたかったのだろうと思うと、自信が失われ、不安が頭をもたげてくるのでした。人にはその時どきで与えられる課題があるのでしょう。過去の録音を聴き返してみると、音楽性豊かな演奏とも思えない。振付にピッタリ寄り添わせて弾いているので自由度は高くないのですが、それでもできることはあるはず。ここから自分はどう成長していけるのか。自分に向き合う静かな初夏を過ごしていました。
音楽と踊り、心を合わせて
6月21日。初のオーケストラ稽古。ピアノ協奏曲を弾くのは『ペール・ギュント』公演以来2年半ぶり。ソリストとして心身ともになまってしまっていないか、カンは取り戻せるのか、と不安でした。だけど、オケと一緒に演奏するとそんな気持ちは一瞬でどこかに飛んでいきました。これが音楽の魅力なのですよね。一人で悩んでいても一緒に演奏したらスッとその世界に入れる。皆のエネルギーを受け取ることができる。
それでも、まだ山は越えていません。この曲には長いカデンツァ(ピアノ独奏)があり、ダンサーと私で超絶技巧を披露するようなパートがあります。弾くだけで大変なのに、ご一緒するダンサーから毎日細かい注文が入ります。稽古場で弾くぶんにはダンサーを見て合わせられますが、オケピだと踊りが見えないので難しい。パトリシアは「踊りに合わせすぎないよう、エキサイティングな演奏であることと自分の音楽を大切にして」とおっしゃいます。だけど、ダンサーの気持ちもわかるし。目で見えないぶん、心を合わせて弾きたいけれど、互いが寄り添わないと。なんにせよ、バレエも音楽も崖っぷちに咲く花なのです。
本番前日のピアノ舞台稽古では、いつもオケパートとソロパートを同時に弾いている(一人コンチェルト)私を指揮者氏が気遣ってくれて、急遽、2台ピアノでオケパートを弾いてくれることになりました。ぶっつけ本番、一度きりのピアノデュオです。ブラボー! グリエルモ・ガルシア・カルボ氏!
上下に2台並ぶという、稀有なピアノデュオ
そして迎えた「ヌレエフ・ガラ」当日。
本番前、劇場の美しい天井を見上げて深呼吸
無駄に気を揉んでいた時間はなんだったのか……始まってしまうと、もうただ最高な音楽の中にいた、という感じでした。コンチェルトってこんなに楽しかったんだ。忘れていた。ずっと水槽の中にいた魚が海に戻って泳ぐような感覚でした。自由に泳げる!
カデンツァを弾く直前、息を吸って小さく「行くよ!」とつぶやきました。ダンサーに手を差し出して一緒に行こうという気持ち。どちらがどちらに合わせるのではない。一緒に行くのだ。冷静に、情熱的に、自分のすべてを出せたカデンツァ。他でミスもあったけど、いつもミスを終演後に引きずる私にしては珍しく、もう一度やり直せるとしてもこの演奏でいいと思えたのです。ミスより全体の流れやエネルギーのほうが大事だと心のどこかで思えたのでしょう。
『アレグロ・ブリランテ』カーテンコール
バランシン作品に育てられる
半年前の記事で、「バランシンは、作品に関わるすべてのダンサーの成長を促す」と書きましたが、成長させてもらっているのは、ピアニストも同じでした。限界に挑戦するバレエと音楽、心を一つにして向き合うこと、作品に真摯に向き合うことは、人生に向き合うことであり、苦しみのぶんだけ成長していつか絶景を見ることができるのかもしれない。
信頼して任せてくださったパトリシアさん。本当にありがとうございました。これからも成長できるよう、背筋を伸ばす。
そして、このガラで、長年プリンシパルとして活躍してきたロマン・ラツィックが引退しました。最後に踊ったのはヌレエフ版『シンデレラ』のパ・ド・ドゥ。この時間が終わらないで欲しいと願いながら、袖からその美しい姿を見送りました。
今月の1曲
『アレグロ・ブリランテ』チャイコフスキーピアノ協奏曲から、カデンツァの部分を弾きます。
芸術を究めようと思うと、孤独と向き合うことが必要になります。でも、一人ではない。そんなことをあらためて想った本番でした。もうすぐ夏休みに突入します。夏は日本でひとつの大仕事と、『Ballet the New Classic』公演があります。みなさまの夏も素敵なものとなりますように。
2022年6月29日 滝澤志野
★次回更新は2022年7月20日(水)の予定です
- 【NEWS】 配信販売スタート!
- 滝澤志野さんのベストセラー・レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」(ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス)に続き、2021年にリリースしたCD「Dear Tchaikovsky〜Music for Ballet Class(ディア・チャイコフスキー〜ミュージック・フォー・バレエ・クラス)の配信販売もスタートしました!
♪Dear Tchaikovsky https://linkco.re/pEHd0G2A?lang=ja
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Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
ウィーン国立バレエ専属ピアニスト 滝澤志野
ベストセラーCD「ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス」でおなじみ、ウィーン国立バレエ専属ピアニスト・滝澤志野の新シリーズ・レッスンCDが誕生!
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)
★収録曲など詳細はこちらをご覧ください
- ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野 Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
- バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
- ●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)