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【第35回】ウィーンのバレエピアニスト〜滝澤志野の音楽日記〜コロナ罹患と戦争のこと

滝澤 志野

ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。

“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく月1連載。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、バレエチャンネルをご覧のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。

美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。

コロナ罹患と戦争のこと

なんという世の中になってしまったのでしょうか。3年前、連載を始めた時は、劇場や音楽のあれやこれや、楽しい素敵なネタばかりが頭に浮かんでいたのに。コロナ禍も戦争も1ミリも想像していなかった……。あの時から、こんなに世界が変わってしまうなんて。

今回はこの1ヵ月のことを綴る日記にしたいと思います。

じつは先月、「ついに」という感じで、コロナに感染してしまいました。

【2月17日】
夕方、少し熱っぽく風邪をひいたみたい。翌日のPCR検査で陽性反応。すぐ劇場に連絡をして、その日から10日間自宅隔離されることになりました。陽性のお知らせと共にウィーン市からメールがきて、濃厚接触者と場所の報告、隔離、救急についても指示されました。

現在ウィーン国立歌劇場では、毎日自分でPCR検査(無料)をして、陰性証明書をQRコードで守衛さんに提示して出勤するルールになっています。私は劇場外の人とはほとんど会っておらず、日々接しているのは職場の人たちだけでした。つまり周りもみんな毎日検査をしている人ばかりであり、身近に陽性者はゼロ。しかも徒歩通勤なので、どこで感染したのか見当が付かず。でも、ひとつ心当たりがありました。じつは、1月からずっと体調を崩していて、週に1、2回は吐きながら仕事を続けていたのです。健康体であれば平気だったであろう、ほんの少量のウイルスにも、免疫が弱っていたがために負けてしまったのでしょう……。ただ、劇場の誰にもうつすことがなかったのは幸いでした。

【2月19日】
隔離初日。発熱と寒気と全身筋肉痛、喉の痛みに襲われました。普段あまり風邪もひかないので、熱がぐんぐん上がっていくことに恐怖を覚えました。コロナなので、これからどういう症状になっていくのか、最悪のことも考えてしまい……。熱で意識が朦朧として、頭痛も酷く、カロナールを飲んで寝ました。次の日には症状は少し和らぎ、重症化はしないだろうと感じることができて、精神的にずいぶん楽になりました。症状が軽いと言われているオミクロンでも、ただの風邪ではない迫力がありました。また、そんな時にショックな出来事も起きてしまい、運気のどん底という気分でした。

【2月24日】
引き続き自宅隔離中。微熱は続くものの、症状は順調に快復していきましたが、大変なことが起こりました。そう、ロシアがウクライナに対して軍事侵攻を始めたのです。まさか本当に戦争が始まるなんて。いつもお願いしているウクライナ人の若き掃除婦さんは、その時、ウクライナに里帰りしていて(きっと事情があるのでしょう)、彼女の安否がとても心配で。劇場のウクライナ人の同僚たちの顔も浮かんできました。

東側諸国とウィーン国立バレエ

ウィーン国立バレエは、歴史的に旧社会主義国出身のダンサーを多く擁してきました。その理由として、ウィーンは地理的に東から西の玄関口となる位置にあること、また歴代の監督の多くが東側出身であったことなどが挙げられます。ウィーンで活躍したルドルフ・ヌレエフもウラジミール・マラーホフも、ウィーン国立バレエ在籍時にオーストリア国籍を取得しました。10年前は半数以上のダンサーが東側諸国出身で、団内ではドイツ語よりロシア語が優勢でした。ですが、2010年以降、ルグリ監督は西側のダンサーを多く採用してきて、この10年で徐々にカラーが変わっていきました。それでも、今もなお、ロシア、ウクライナ、ジョージア、モルドバ、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、セルビア等、旧東側諸国出身のダンサーが3分の1を占めています(ちなみに、イタリア人が13人と断トツ多く、次にロシア人5人。ウクライナ人は3人。自国のオーストリア人は2人。出身国は全部で30ヶ国という多国籍カンパニーです)。

そんなバックグラウンドを持つこのバレエ団で、戦争が始まったいま、皆どんな気持ちで日々を過ごしているのでしょうか。隔離中に悲惨なニュースを追っていると、自分のコロナなんてもうまったくどうでもよく、恐怖もやるせなさも募り、一人でいたくない、ウクライナ人、ロシア人をはじめとする同僚たちのそばにいたい、と思いました。

【3月4日】
原発が攻撃され、核の脅威に晒される恐れがあり、オーストリアでは放射能から体を守るヨウ素が配られました。

薬局で無料で貰えるヨウ素。

【3月5日】
感染から13日め、晴れて陰性に戻って職場復帰しました。ですが、3月2週めあたりから、徐々に団内での感染者が増えてきました。今月は白鳥を含む3演目を上演しているのですが、毎日陽性者が数人出て、検査とキャスト変更を重ねながら、バレエ学校の生徒にジャンプインしてもらい、なんとか公演を回しているという状況です。ウクライナ侵攻とコロナという、歴史に残るであろう出来事がいっぺんに起きている。そして戦争は他人事ではない。ウクライナ人、ロシア人の同僚たちはもちろん、旧ソ連の国出身の人たちも、近しい人の悲しい顔を見なければいけない人も、誰もが何らかのストレスを抱えながら、バレエ団では努めて冷静に、多くを語らず、体調を整え、粛々と自分のやるべきことをやるしかない。そうでないと前に進めない。……私たちはそんな日々を過ごしています。

そっと寄り添う

ウクライナ、ドネツク出身のプリンシパル、デニス・チェリェヴィチコは、稽古の合間を縫って、往復21時間かけて車でポーランドの国境にお母さんを迎えに行ったそう。そして、今週はロシア人のパートナーと白鳥を踊っています。

デニス・チェリェヴィチコ

【2月26日】
掃除婦のナターシャもご家族を連れてポーランドの国境まで逃げ、無事にウィーンに戻ってくることができました。なかなか電車に乗れず、国外脱出の希望を失いかけたそうです。ある日突然、故郷を追われ、愛する人と別れて言葉も通じない国に身ひとつで逃げる。そんな理不尽なことがあるでしょうか。私が知っているウクライナ人はみんな朴訥で優しい人ばかりなのに……。

ナターシャに再会した日。お帰りなさいの気持ちを込めて、ミモザの花束を渡しました。

いま、私にできる支援はなんだろう。身近のウクライナの方々に寄り添うことができたら。ナターシャとご家族にはささやかながらAmazonギフトカードと洋服、日用品をお渡しし、デニスにも何か協力できることはないか相談しています。

いっぽう、ロシアのバレエとダンサーたちを思うとまた胸が痛い。輝かしいロシアの芸術はこれからどうなっていくのでしょう。オルガ・スミルノワやアレクセイ・ラトマンスキーがボリショイ・バレエを去ったように、ロシアは大きすぎる代償を払っていくのでしょうか。世界はどこへ向かうのでしょうか。

一日も早く、この愚かな戦いが終わり、人々に笑顔が戻ること、家族が再会できることを、ただただ祈ります。

今月の1曲

じつは、ウクライナに寄り添いたく、美しいウクライナ民謡を覚えて録音しました。ですが、何か違うと感じてしまい……。誰かの側につくのではなく、静かに、痛みを感じながら愛や光を願う、それが今の自分の正直な感覚だと思い当たりました。そんな、今の気持ちを誰かと共有できたら。一度限りの即興で弾きます。

2022年3月20日 滝澤志野

★次回更新は2022年4月20日(水)の予定です

【NEWS】 配信販売スタート!
滝澤志野さんのベストセラー・レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」(ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス)、大好評のvol.1に続き、vol.2&3の配信販売がスタートしました!

★滝澤志野さんのアーティスト情報ページはこちら

New Release!

Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
ウィーン国立バレエ専属ピアニスト 滝澤志野

ベストセラーCD「ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス」でおなじみ、ウィーン国立バレエ専属ピアニスト・滝澤志野の新シリーズ・レッスンCDが誕生!
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。

●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)

★収録曲など詳細はこちらをご覧ください

 

ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野  Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

大阪府出身。桐朋学園大学短期大学部ピアノ専攻卒業、同学部専攻科修了。2004年より新国立劇場バレエ団のピアニスト。2011年よりウィーン国立バレエ専属ピアニストに就任。 レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」Vol.1、2、3、「Dear Tchaikovsky~Music for Ballet Class」、「Dear Chopin〜Music for Ballet Class」をリリース(共に新書館)。国内のバレエショップを中心にベストセラーとなっている。2023年7月大阪・東京で初のピアノソロリサイタルを開催。初のピアノソロアルバム「Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き」も同時発売。

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