ウィーン国立バレエ 専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく月1連載。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲” を選び、バレエチャンネルをご覧のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
ピアノでオーケストラ作品を弾く
バレエピアニストの仕事の醍醐味のひとつ、それはオーケストラ作品を一台のピアノで演奏する、ということです。実際の公演ではオーケストラの生演奏で上演される演目も、リハーサル期間中はピアノの演奏で稽古が行われています。ですから私たちはピアニストでありながら、ピアノ曲より管弦楽作品を弾いている時間の方が圧倒的に長いのです。
なぜバレエやオペラは、ヴァイオリンでもフルートでもなくピアノで稽古するかというと、ピアノという楽器は「一台でオーケストラの代わりができる楽器」だから。オーケストラを構成する楽器すべての音域をカバーしていて、たった一人のピアニストの10本の指とペダルだけで同時に複数の音(多声)を鳴らすことができ、いろんな音色を弾きわけることもできます。でも、もちろんジレンマもあります。例えば弦楽器や管楽器や歌と違い、弾いた瞬間から音が減退してしまうこと。そして平均律(*) であるために、自由に音程を作れないという側面もあるのです。異なる特性を持つ楽器が一斉に音を出すことで生まれる彩り豊かなオーケストラのサウンドを、ピアノ一台でどうやって表現するか。これは劇場に所属するピアニストの誰もが向き合うことになる、永遠の課題ですね。
*平均律=1オクターブを12等分した音律のこと。12音が均等の幅になるため、どの調で弾いても同じ音程の幅になる。
フォルクスオーパーの舞台稽古にて
ピアノをオーケストラらしく響かせるためにーー私自身は、大きく3つのことを心がけています。
まず、稽古場では大抵の場合、オーケストラ総譜(フルスコア)ではなくピアノ用に編曲された楽譜で弾くのですが、私はそれをそのまま弾かずに、自分で何かしら編曲をして演奏するようにしています。ピアノ譜そのままだとどうしても音の厚みが足りないことが多いので、自分なりに音を足すなどして、管弦楽をなるべく忠実に再現できるようにと工夫しています。
また、一人で弾いていても、常に指揮者の視点を持つことを意識しています。これが独奏曲とのいちばん大きな違いかもしれません。じつはピアニストにはピアニスト特有の、「ありがちな演奏の癖」というものがあります。それを無意識のままいつもの調子で弾いてしまうと、オーケストラ的には「あり得ない」響きになることも……。オーケストラ全体のサウンドを俯瞰的にとらえる指揮者の目で、常に自分の演奏を客観視しながら弾くこと。簡単ではありませんが、私たちの仕事にはとても重要な技能です。
それから、ピアノという楽器は打楽器と同じで、弾いた瞬間に音が鳴ります。でも、オーケストラには、そうではない楽器もたくさん含まれていますよね。とくに管楽器は、音が出るのに時間がかかります。その時差を計算して弾くのも、バレエピアニストの腕の見せどころです。余談ですが、ウィーンのオケは、指揮者の棒よりもかなり後発で音を出す特性があり、初めてウィーンに振りに来た指揮者が「(オケの演奏が)重くてびっくりする」と漏らしていたことも……。私もウィーンで弾き始めた当初、どのタイミングで音を出していいか分からず、いつもコンサートマスターの背中を見て、隣の奏者の息遣いを感じて、空気を読みながら恐る恐る弾いていました。今でもまだ怖い時もありますが、稽古場では指揮者の棒にウィーン流で合わせることも楽しむようになりました。
オケピットにて
ショパンのピアノ作品をオーケストラのように弾く?
さて、今回はちょっとおもしろい経験をしました。先月の音楽日記でも少し触れましたが、年明けからラトマンスキー振付『24 Préludes』の稽古を担当し、1ヵ月間ほぼ劇場に缶詰のような生活を送っていました。ショパンの24曲のプレリュードに振付けたこの作品、本番もピアノ独奏で上演されると思いきや、オーケストラ編曲で上演されるのです。『レ・シルフィード』などと同じパターンですね。
久しぶりにショパンの純粋なピアノ作品と対峙できると思ったのも束の間、実際はピアノ曲をオーケストラらしく弾くという、逆のミッションを背負っていたという……。
ラトマンスキー氏と私たちは、1ヵ月間、朝から晩まで稽古を共にし、素晴らしく充実した時間を過ごしました。その稽古風景と彼のインタビュー動画が公開されているので、ぜひご覧ください。
VIDEO
動画の中で、ラトマンスキーはこう語っています。
「ジャン・フランソワがオーケストラに編曲したプレリュードは、人々が“ショパン”という名前を見て思い浮かべる音とは違っています。とても特殊で、フランス的で、演劇的。少しユーモアもあります。ショパンのロマンティシズムに少しひねりを加えて、何か違うものになっているのです。それが私にとっては非常に魅力的でした。また『24のプレリュード』という楽曲の構成は、8人のダンサーから人間性や個性といったものを引き出してくれます。この作品じたいにストーリーはありませんが、そこには気分のようなものや、ふさわしいシチュエーションがあります。私は「物語」と「抽象」の間を行き来することに、いつも興味があるのです。」
ショパンのピアノ曲は繊細で、まるで水彩画のように色(響き)をぼかして重ねてゆくような趣がありますが、オーケストラ版には、大きなキャンバスに色とりどりの油絵具で描きなぐるようなダイナミックさと面白さ、意外性がありました。密やかに、内向的に、ひとり静かにピアノと向き合う世界と、ダンサーや指揮者と共に作り上げていく鮮やかな世界。そのあまりにも大きな違いの狭間で音楽を作っていく面白さとジレンマ……本当に特別な時間だったなと思います。
ショパンの独奏曲は、右手と左手がそれぞれ独立した人格を持っています。それは喩えていうなら、性格は全然似ていないけれど親しい恋人同士のおしゃべりを聞いているかのよう。そんな素敵さが、彼のピアノ曲にはあります。また、きっちりと拍子を刻むよりも自由であることが愛される、感覚的な世界でもあると思うんですね。ところがそれとは対照的に、指揮者の司る管弦楽には必ず拍感があり、みんなで縦の線を合わせていきます。指揮者と共に拍を刻みながらプレリュードを弾くと、まったくショパンらしくはならない。それがとても新鮮であり、「こう弾くとピアノ曲らしくて、こう弾くとオーケストラらしいのか……」と、舞台稽古ではオケピから振付が見えないのをいいことに、そんな研究に勤しんでいました。
そういえば、以前、アシュトン振付『マルグリットとアルマン』を弾きましたが、リストのピアノソナタは、指揮者と共に弾いてもそんなに原曲の性格は変わらなかったような気がします。リストはショパンよりも輪郭がくっきりしていて社会的であり、管弦楽に近いのでしょう。
無事に初日の幕が上がりました
初日が近づいたある日、ラトマンスキー氏がピアノの側に来て、こんなことを言ってくれました。「素敵な演奏をありがとう。僕は出逢うダンサーたちの踊りや個性にインスパイアされて、振付を変えたり作品に手を入れていくことが好きなのだけど、ウィーンでシノのピアノで稽古してきて、いつかこの作品をピアノで上演してみたいと思うようになったよ」
なんという素敵な言葉の花束でしょう(涙)。
例えば、ロビンスの『Dances at a Gathering』のようにピアノだけで上演したら。全然違う作品になり、それはそれで絶対素敵だろうな、と妄想してしまいます。いつの日か……。
バレエピアニストにとって舞台の初日を迎えることは、それまで一緒に働いていたゲストの振付家や指導者たちとお別れすることでもあります。
私はこのチームと別れがたく、最後の稽古の後に写真を撮ってもらいました。
左から、ジュリー・ティロウ、私、アレクセイ・ラトマンスキー、アマンダ・アイルス。
初日にラトマンスキー氏に頂いた、ガラスでできたイリスのオブジェと、ダンサーたちからもらったゲルストナーのチョコレート。みんなの心が伝わってきます……。
ラトマンスキー氏と振付補佐のアマンダの美しくあたたかい声を懐かしく思い出しながら、今日も稽古場でピアノを弾いています。
今月の1曲
上に貼った動画で演奏を聴いていただくのがいちばん良いのでは……と思ったのですが、せっかくなので、プレリュードの中でいちばん有名であろう、15番「雨だれ」をどうぞ。
2022年2月20日 滝澤志野
★次回更新は2022年3月20日(日)の予定です
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ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野 Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
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●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)