バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 観る
  • 知る
  • 考える

ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第17回〉「涙の理由」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

***

涙の理由

皆さんはどのような時、涙を流すだろうか。悲しい時、悔しい時、嬉しい時、それとも……? 舞台上でも、様々なかたちで、涙が表現される。興味深いのは、舞台では、実際に涙を流すことが、必ずしも効果的とは限らない点。戯曲や演出や振付や演じ手の、伝える技術が伴わないまま演者がやみくもに感情を露わにしても、いや、露わにすればするほど、ただの自己陶酔や勘違いにしか見えず、観客の心は離れていく。しかし、すべてが見事に合致した時、感情は観客にも伝播し、時には涙を誘う。今回は、そんな舞台上の涙について見ていきたい。

肉親を失う〜演劇『タイタス・アンドロニカス』、文楽&歌舞伎『熊谷陣屋』

いつの世も、肉親を傷つけられ、あるいは失った者が流す涙は果てしない。
西洋演劇で言うなら、エウリピデス『ヘカベ』『トロイアの女たち』で祖国をギリシャに滅ぼされ夫や子どもほか、全てを失った女性たち。シェイクスピア『リア王』で愛娘コーディリアの死を目にしたリア……。

凄まじいのは、シェイクスピア『タイタス・アンドロニカス』で、ともに子どもを亡くし、あるいは傷つけられた者同士、骨肉の争いを繰り広げるタイタスとタモーラだ。

〈『タイタス・アンドロニカス』あらすじ〉
古代ローマ帝国の将軍タイタス・アンドロニカスがゴート族との戦を終えてローマに凱旋してくる。この戦で大勢の息子を失ったタイタスは、捕虜となったゴート族の女王タモーラの長男を生贄として殺すことで息子たちを弔う。
この頃ローマでは皇帝の座を巡り、前の皇帝の息子サターナイナスとその弟バシェイナスが争っていたが、タイタスは兄サターナイナスを皇帝の座に就かせる。サターナイナスはタイタスの娘ラヴィニアを皇后にしようとするが、ラヴィニアは弟バシェイナスと婚約しており、タイタスの息子の協力もあって結婚。サターナイナスはタモーラを皇后に迎える。
しかし、タイタスに恨みを抱くタモーラは、息子ディミトリアスカイロンをそそのかしてバシェイナスを殺し、ラヴィニアを拉致。ラヴィニアは両手を切り落とされ、舌を切り取られ、暴行を受けてしまう。サターナイナスは、弟を殺したのはタイタスの息子たちだと思い込み、彼らを死刑に。タイタスは自らの片腕を切って息子たちの釈放を嘆願するが、サターナイナスからは、切られた片腕と息子たちの生首が届く。
復讐を誓うタイタスはサターナイナスとタモーラを招き、パイを振る舞う。そのパイはなんと、ディミトリアスとカイロンを殺してその肉で作ったもの。タイタスはサターナイナスとタモーラがパイを食べてから真実を明かし、残酷な復讐を遂げる。

子どもを失った怒りと悲しみがエネルギーとなって、競うように残虐行為に走るタイタスとタモーラ。観ていて同情の気持ちを忘れるほど激しい復讐心を燃やす二人を、ジュリー・テイモア監督の映画『タイタス』では、アンソニー・ホプキンスとジェシカ・ラングの二人の名優が演じて話題を呼んだ。

日本に目を向ければ、奈河亀輔『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』で息子の死により大事な主君が助かり、さらには敵方の陰謀を知ることができたと嘆きながら息子に感謝する政岡初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』で息子を主君の身代わりに差し出す松王丸と千代、そして、やはり主君のために息子を差し出す並木宗輔『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』熊谷直実。この直実の嘆きには、観ていて胸をかきむしられる。

〈『一谷嫩軍記』熊谷陣屋の段 あらすじ〉
源氏の武将・熊谷次郎直実が、一の谷の合戦から陣屋に戻ってくる。陣屋の前の桜に立つ、美しい桜を手折ることを禁じた源義経の命「一枝を切らば一指を切るべし」が書かれた札を見つめる直実。
この陣屋には、息子・平敦盛を探して迷い込んだ母・藤の方が、やはり息子の小次郎を案じてやってきた直実の妻・相模と一緒にいる。相模はかつて、藤の方とは主従の関係にあった。
二人に敦盛を討ち取った時の様子を語る直実。やがて義経が現れ、直実は敦盛の首を差し出すが、その首は敦盛ではなく直実の息子・小次郎の首だった。驚く二人の母。義経はそれを見て、敦盛の首であると断言する。
実は、敦盛が後白河法皇の胤という貴い血筋であるため、義経は桜にかこつけた札で、これを助けて我が子を差し出せと直実に命じたのである。
辛い務めを果たした直実は暇をもらい、出家する。

文楽、そして歌舞伎となっている本作。文楽では太夫が、「十六年も一昔、夢であったなぁ」という直実の言葉のあと、「ほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日陰に溶ける風情なり」という美しい言葉を語る。そして、一同は「さらば」の声も涙にかき曇らせながら別れていく。

一方、歌舞伎では、出家した直実が一人、花道で「十六年は一昔、夢だ夢だ」と涙する。松本白鸚と中村吉右衛門の兄弟が当たり役としており、白鸚の朗々と悲しみを表す「夢だ」も、吉右衛門の絞り出すような「夢だ」も、なんとも言えない悲しみを感じさせていい。

『一谷嫩軍記』熊谷陣屋の段 中村吉右衛門  ©松竹

『一谷嫩軍記』熊谷陣屋の段 中村吉右衛門  ©松竹

2021年11月にはシネマ歌舞伎『熊谷陣屋』で吉右衛門の直実を観ることができる。必見だ。
そして同じ11月、国立劇場では中村芝翫が直実を演じる。こちらは49年ぶりの「御影浜浜辺」からの上演。芝翫襲名でも勤めた同役を今回、どう深めるか、こちらも注目したい。

シネマ歌舞伎『熊谷陣屋』は2021年11月19日~11月25日上映(東劇ほか)

老いらくの恋〜能&演劇&ダンス『綾鼓』、オペラ&バレエ『ヴェニスに死す』

誰が泣くことになるのか、初めからわかっているのが老いらくの恋。だからこそ、共感や嘲笑や憐憫をもって、様々な文学や芸術に描かれてきた。

能『綾鼓(あやのつづみ)』(作者不詳)もその一つ。年齢に加え、身分も天地ほど異なる、いわば純度100%の叶わぬ恋だ。

〈能『綾鼓』あらすじ〉
斉明天皇の行宮、木の丸の御所には桂の池という池があり、御遊の宴が催されている。宴の折、庭掃きの老人(シテ)が若く美しい女御の姿を垣間見て恋心を抱く。そのことを知った女御(ワキ)は、池のほとりの桂の木に鼓をかけさせ、老人が打って鼓が鳴れば姿を見せると伝える。老人は勇んで鼓を打つが、実はこの鼓には綾(布)が貼られているため、鳴るはずはないのだった。老人は必死で打ち続け、やがて性も根も尽き果てて、池に身を投げて死ぬ。
その後、女御は錯乱し、鼓の音が聴こえると言い始める。すると池から老人の霊が現れ、女御を責め立て、呪詛の言葉を吐いてまた池へと消えていくのだった。

能では、鼓を鳴らすことができない老人の悲嘆が大仰に表現されることはないが、だからこそ、その無念さがにじみ出てくる。なお、能にはもうひとつ、『綾鼓』の設定・物語を踏襲した『恋重荷』という世阿弥の曲も存在するが、こちらは女御が許しを乞い、老人が彼女の守り神となる。

一方、三島由紀夫が能を現代劇にした『近代能楽集』の『綾の鼓』では、原作の老人は法律事務所で働く老小間使・岩吉、女御は向いのビルの洋裁店を訪れる客・華子となっている。岩吉は毎日華子に恋文を送るが、ある日それを華子の取り巻きたちが読み、窓越しに、音の出ない鼓と「鼓の音が聴こえたら思いを叶える」という華子からの手紙を岩吉に送る。岩吉は鼓を打つが、鳴らないと知って絶望し、窓から身を投げる。華子が岩吉の想像した貴婦人ではなくかつてスリをしていた身持ちの悪い女だという設定や、取り巻きの存在、悪意と善意の描き方など随所に三島らしさがあるものの、ここまでの筋は原作とまあ同じといえば同じ。異なるのはこのあとの展開だ。能では老人の霊が女御を責めるのに対し、華子は幽霊となった岩吉にさらに鼓を打たせる。しかしやはり鼓が鳴ることはなく、99回を打ったところで諦めて去っていく岩吉に、華子は「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」とつぶやくのだった。なんとなく、連載第12回でご紹介した『卒塔婆小町』の深草少将の百夜通いを思い出すではないか。

さて、この能『綾鼓』と三島の『綾の鼓』にインスパイアされた作品が2021年12月、上演される。映画『昼顔』『ブリキの太鼓』などの脚本でも知られるフランスの劇作家ジャン=クロード・カリエールがテキストを書き、振付・舞踊家の伊藤郁女と、俳優・演出家の笈田ヨシが演出・振付・出演する『Le Tambour de soie 綾の鼓』だ。2020年10月のアヴィニョン芸術週間で初演され、今回が日本初演となる。昨年亡くなったカリエールの最後の作品である本作は、伊藤の言葉を借りれば「この作品で私たちが興味を持っているのは、若いままでいたいため、老人の愛を受け入れることができない女性と、恋をすることで若くなっていく老人との間に起きる物語」。

フィリップ・ドゥクフレやシディ・ラルビ・シェルカウイやアラン・プラテルなどの振付で踊り、近年は独自の活動を展開する伊藤。父である彫刻家・伊藤博史と共演した『私は言葉を信じないので踊る』では、終盤、博史が舞台から去る場面に当日パンフレットに書かれた郁女の言葉「別れを少しずつ告げている」がオーバーラップし、筆者自身、観ながら涙を流した記憶がある。対する笈田は、世界的演出家ピーター・ブルックのもとで俳優として活動し、オペラほかの演出でも評価が高い。渡欧前の一時期在籍していた文学座では三島から演出を受け、プライベートでも交流があったという。バックグラウンドが異なり45歳以上の年齢差の伊藤と笈田が紡ぎ出す世界に期待は高まる。

『Le Tambour de soie 綾の鼓』左から:伊藤郁女、笈田ヨシ © Christophe Raynaud de Lage

ところで、老いらくの恋といえば、もうひとつ、忘れてはいけないのが、『ベニスに死す』。トーマス・マンの小説だが、なんといってもルキーノ・ヴィスコンティによる映画化が有名だろう。舞台化としては『ヴェニスに死す』のタイトルで、ベンジャミン・ブリテンがオペラ化、ジョン・ノイマイヤーがバレエ化している。

〈『ベニスに死す』あらすじ〉
老作曲家アッシェンバッハは静養のために訪れたヴェニスで、ポーランド貴族の美少年タッジオに出会う。彼に魅せられ、次第にのめり込んでいくアッシェンバッハ。少しでも美しく見せようと化粧をするようになる。やがて彼は、ヴェニスにコレラが蔓延していることを知るが、タッジオの存在ゆえに当地にとどまり、感染し、若く美しいタッジオへのかなわぬ思いに身を焦がしながら死を迎えるのだった。

映画では終盤、マーラー交響曲5番第4楽章「アダージェット」が流れる中、アッシェンバッハの化粧や髪染めが汗で醜く流れ落ちる場面が、彼の哀れさをいや増し、強烈なインパクトを放っていた。
オペラにおいては、ラストはアッシェンバッハの悲しげな独唱となる。ちなみにタッジオはダンサーなどが演じることになっており、一切歌わない。
バレエでは、死んでいくアッシェンバッハ(振付家という設定になっている)と若く健康なタッジオの対照的な踊りが余りにも哀しい。

なお、松尾スズキの『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』にもこの『ベニスに死す』の要素は取り入れられていて、岡田将生演じる美少年に、阿部サダヲ扮する永野ヒロユキが魅入られていく。そして映画『ベニスに死す』と同じ「アダージェット」が高らかに流れたのだった。

恋する女性の涙〜文楽&歌舞伎『野崎村』、オペラ『愛の妙薬』〜

恋に泣くのは老人ばかりでは、無論ない。文楽や歌舞伎の世界では、恋に破れ、それでも運命を引き受けて相手の男性のために犠牲になる女性がいる。『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』お里『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』お三輪、そして『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』おみつ。ここでは近松半二作『新版歌祭文』から、おみつの悲しみを描く「野崎村」の段を見ていこう。

『新版歌祭文』野崎村の段 あらすじ
野崎村の百姓・久作の家に預けられて育った久松は、質屋・油屋に丁稚奉公に出て、その家の娘・お染と恋仲になる。だがお染には縁談があり、二人は引き裂かれ、さらに久松は集金した店の金を盗まれて、久作のもとへ帰される。
久作は妻の連れ子である娘・おみつと久松を結婚させることを決め、かねてより久松を慕っていたおみつは嬉しくてしかたがない。そこへお染が、野崎観音にお参りする“野崎参り”にかこつけて久松を訪ねてくる。恋敵の登場におみつは嫉妬の炎を燃やす。お染は久松と添うことができないならば死ぬと言い、久松も死を決意する。お染のお腹には久松の子が宿っていた。これを立ち聞いた久作が生きるよう説得し、承諾する二人。久作は安堵し、祝言のためおみつを呼ぶが、現れたおみつが綿帽子を取ると、なんと髪を下ろした尼姿になっていた。自分と祝言を上げれば二人が心中することを察し、助けるため身を引くことを決めたのだ。その犠牲に、久作、おみつの母、お染、久松ら一同は涙を流す。
去っていくお染と久松が去ると、おみつは泣き崩れるのだった。

勝ち気な娘・おみつが、誰にも言わぬまま髪を下ろす健気さ哀れさに、観客も涙なくして観られない。そんなおみつの配慮も虚しく、お染と久松は結局この後、心中してしまうのだが……。

この『新版歌祭文』野崎村の段は2021年12月、文楽鑑賞教室で観ることができる。文楽の構造がわかる解説つきで、上演時間も短く、初心者にはうってつけの公演だ。

『新版歌祭文』野崎村の段 おみつ 提供:国立劇場 撮影:二階堂健

なんだか悲しい話が続いたので、次はハッピーエンドの舞台を。オペラ『愛の妙薬』だ。

〈『愛の妙薬』あらすじ〉
内気な村の青年ネモリーノは、農場主の娘アディーナに恋している。実はアディーナも彼を気にしているのだが、ネモリーノは彼女に思いを打ち明けられずにいる。ある日、軍曹ベルコーレが兵を率いて現れ、アディーナを気に入る。ネモリーノは偽医者ドゥルカマーラから、ただのワインを、飲んだ1日後に効果が現れる惚れ薬=愛の妙薬として売りつけられる。やがて軍曹に出発命令が届き、アディーナに求婚。ネモリーノは焦ってもう1日待ってくれと頼むが、アディーナは結婚を承諾してしまう。
さて、ネモリーノはさらに妙薬を買う金を得るため、ベルコーレの軍への入隊を志願する。そんな折、娘たちの間に、ネモリーノが莫大な遺産を相続したという噂が流れ、彼をちやほやし始めるので、ネモリーノは薬が効いたと勘違いする。しかし、アディーナが泣いている姿を見たネモリーノは彼女の自分への気持ちを知る。一方、アディーナは、ベルコーレからネモリーノの入隊契約書を買い戻す。するとネモリーノは「愛してもらえないのなら兵隊になって戦死する」と叫び、ようやく二人は互いの気持ちを伝え合う。アディーナを諦めたベルコーレは村から去っていくのだった。

アディーナの涙にネモリーノが愛を確信して歌う「人知れぬ涙」は、このオペラ最大の、そしてオペラのアリアの中でも指折りの名曲。喜びの歌なのだが、どこか哀愁が漂うのも愛される理由かもしれない。

新国立劇場では来年(2022年)2月、このオペラを上演する。巨大な本をかたどった美術や、ポップな色合いの衣裳や小道具も愉しいプロダクションだ。

新国立劇場『愛の妙薬』2018年公演より 撮影:寺司正彦

しみじみと客席で涙する〜演劇『ブライトン・ビーチ回顧録』、歌舞伎『井伊大老』〜

最後に、登場人物たちの涙からは少し離れて、観客としての涙について書きたい。

筆者の体験で言うなら、例えばモニク・ルディエールとマニュエル・ルグリが踊った『ヌアージュ』のあまりの美しさに、気がつけば涙が頬を伝っていたこと。連載第10回でも少し言及した女流義太夫の竹本駒之助の情感豊かな語りから浮かび上がる、登場人物たちの感情の波。中村勘九郎襲名で中村勘三郎と中村吉右衛門が久々に共演した『御存鈴ヶ森』や、襲名特有のキラキラした空気。トム・ストッパード作・栗山民也演出『アルカディア』で登場人物が踊るワルツが、宇宙に瞬く星に見えたこと……。切りがないのでこのくらいにし、近々見られる2つの作品を紹介しておこう。

まず、ニール・サイモン作・小山ゆうな演出『ブライトン・ビーチ回顧録』。東京公演は2021年10月3日で終わるが、京都公演は同年10月7日から。劇場の収容人数50%分のチケットは完売だそうだが、緊急事態宣言が解除されたことでふたたび売り出されることが予想される。

〈『ブライトン・ビーチ回顧録』あらすじ〉
時は大恐慌のただ中で、第二次世界大戦の軍靴の音も迫りつつある1937年。貧しい移民が多く暮らす、ニューヨークのブライトン・ビーチ。野球少年か作家になることを夢見るユダヤ人の少年ユージンは、父ジャック母ケイト兄スタンリー、そして夫に先立たれたケイトの妹ブランチその二人の娘ノーラ、ローリーと、ひとつ屋根の下で暮らしている。
一家の生活は苦しく、ジャックは仕事を掛け持ちして疲労困憊し、切り盛りするケイトのストレスも耐えない。そんな折、スタンリーは横暴な社長から黒人の同僚をかばって解雇の危機を迎え、主義を貫くか社長に謝罪するかで悩む。ノーラはブロードウェイのプロデューサーに声をかけられたことから大学を辞めて舞台に立ちたいと言い出し、周囲を困惑させる。ブランチは引きこもりがちで、病気がちのローリーはそんな母に過剰に心配されている。そして、14歳のユージンは思春期真っ只中にあり、女の子のことで頭がいっぱい。
それぞれにストレスを抱え込む彼らの感情が、次第に溢れ出して……。

ユーモアあふれる軽妙な作風で、喜劇王と呼ばれたニール・サイモン。余談だが三谷幸喜は学生時代に彼の『おかしな二人』を見て演劇を志したそうで、「和製ニール・サイモン」と評されていた時期もある。

しかし、この作品において、ウィットや軽やかさ以上に光っているのは、人物をみつめ、心の機微を細やかに描き出す才能だ。親子、兄弟、姉妹、夫婦が交わす会話からは、それぞれが内に秘めた思いと共に相手への愛情を抱いていることが伝わってきて、台詞一つひとつが胸に沁み、観ていて幾度も涙が溢れた。

サイモンが、イプセンの『人形の家』、ユージン・オニールの『夜への長い旅路』や、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』『欲望という名の電車』など家族を描いた先行戯曲の要素を散りばめながら展開した、自伝的な色合いの濃い本作。安直に「家族の絆」を打ち出すような作品とは一線を画した、優しく切ない家族の物語を、見逃すのはもったいない。

もう1作は、北條秀司作『井伊大老』。その名の通り、桜田門外の変で命を落とした井伊直弼を描いた芝居だ。

〈『井伊大老』あらすじ〉
幕末。開国か攘夷かで国論が二分する中、大老・井伊直弼は開国を決断したことで、攘夷派から命を狙われている。
ある晩、側室・お静の方のもとを訪れる直弼。この日は、二人の間に生まれ、幼くして命を落とした娘・鶴姫の命日だった。
昔を懐かしみ、酒を酌み交わす二人。心を許すお静の方を前に、直弼は周囲から罵られる苦しみを吐露するが、お静の方から、正しいことをしながら世に埋もれたままの人もいる、と言われ、自分の信念を貫いて石の如く死のうと心を固める。そして、何度生まれ変わっても夫婦だと、お静の方を抱き寄せるのだった。

束の間の夫婦の時間を過ごしながら、運命を受け入れていく井伊直弼。その直弼にそっと寄り添うお静の方。夫婦の情愛にしんみりと浸るうち、いつしか涙が滲む、珠玉の名作だ。2021年11月の歌舞伎座では、松本白鸚が、中村魁春のお静の方を相手に、井伊直弼を演じる。

平成29年1月歌舞伎座『井伊大老』井伊直弼:松本白鸚 撮影:渡辺文雄

言うまでもないことだが、観劇の目的は泣くことではないし、泣かせる舞台が良いとも限らない。それでも、ふと涙がこぼれてしまうような素晴らしい舞台に出会うことは、シアターゴアとして最高の幸せなのである。

★次回は2021年11月1日(月)更新予定です

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

もっとみる

類似記事

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ