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ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第19回・最終回〉「問いかけ」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

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問いかけ

癒やし、感動、興奮、笑い、思索……。観劇に求めるもの、得られるものはじつに多種多様。この連載でご紹介した演目も多岐にわたるし、人によって、あるいはタイミングによっても、感じ方や受け止め方は違うだろう。舞台それぞれ異なる魅力があるが、未知の事象に光を当てたり思いがけない方法で世界を見せたりして蒙(もう)を啓(ひら)いてくれる作品との出会いは、その後の人生をも左右しかねない体験の一つ。この連載では、できる限り読者に実際の舞台に出会ってもらいたいとの思いから、公演が予定されているものを中心にご紹介してきた。今回の最終回にあたっても、様々な問題を提起してくれる作品から、実際に近々観られる舞台を中心にご紹介したい。

史実に光を当てる〜演劇『レヒニッツ(皆殺しの天使)』『月の獣』『彼女を笑う人がいても』『アルトゥロ・ウイの興隆』〜

筆者にとって忘れられない舞台の一つが、2012年、相馬千秋ディレクターのもと、フェスティバル/トーキョーで上演されたミュンヘン・カンマ―シュピーレ劇場の『レヒニッツ(皆殺しの天使)』だ。対独協力者だったオーストリアの伯爵夫妻の城でのパーティの最中に約200人のユダヤ人が裸にされ、暴力を振るわれ、虐殺されたという史実をもとに、ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが書いたこの戯曲には、人物や時代、場所の指定がほぼなく、まるで散文。それを演出のヨッシ・ヴィーラーは、5名の俳優に担わせた。彼らは虐殺に加担した貴族を思わせるドレス姿や城の使用人らしき服装など何度か着替えながら、なんともいえず強烈な眼差しや表情で、グロテスクに、キッチュに、観客を見つめながら演じる。加害者とも被害者とも傍観者ともつかぬ彼らの姿は、観る者に「あなたはどうなのだ」と問いかけてくるようでもあった。

この上演があるまで、筆者はレヒニッツでこのような虐殺が行われたこと、そして今もこの地では遺体の捜索が行われていることを知らなかった。観劇は、そうした事実を知ると共に、作品が発する普遍的なテーマを受け止め、考える体験となったのだ。その意味では、2015年に観てトルコでのアルメニア人大量虐殺を知ったリチャード・カリノスキー作、栗山民也演出『月の獣』も、同種の体験だった。

このように、史実に光を当て、あるいは眼前に突きつける舞台では、観客は過去と現代が眼の前で重なり合うような感覚を味わう。今月(2021年12月)上演される、瀬戸山美咲作・栗山民也演出『彼女を笑う人がいても』では、1960年安保と2021年の現在が交差する。

〈『彼女を笑う人がいても』あらすじ〉
2021年6月。東京五輪開催に向けて動き出し、スポンサー企業である新聞各社も五輪特集を増やす中、新聞社の社会部記者である高木伊知哉は、配置換えのため、6年間続けてきた東日本大震災の被災者の取材の終了を余儀なくされる。失意の中で伊知哉が手にとったのは、新聞記者からタクシーの運転手になった祖父・吾郎が遺した取材ノートの最後の1冊。吾郎が記者を辞めた理由に繋がると思しきその1冊を、伊知哉は未読のままにしていた。
ノートに書かれていたのは、日米安全保障条約(安保条約)に反対する“安保闘争”に参加する学生達の取材。やがて、安保条約締結直前の1960年6月15日、学生らのデモ隊が国会議事堂に突入して機動隊と衝突し、一人の女子学生が死亡する。その死についての報道を疑う吾郎は、この事件を機に新聞主要7紙が揃って「暴力を排し議会主義を守れ」とする共同宣言を準備する中、彼女の死の真相を追おうとするが……。

1960年と2021年の6月を並べ、同じ新聞記者である祖父と孫がどのように社会や報道と向き合ったかを描く本作。瀬戸康史が新聞記者である2人の主人公を演じ、彼らから取材を受ける人物達を、木下晴香、渡邊圭祐、近藤公園らが両方の時代で演じる。劇中に名前が出ることはないが、タイトルの“彼女”とは、安保闘争の中で命を落とした東大の学生、樺美智子のこと。これまでも、1991年のパキスタン早大生誘拐事件に取材した『彼らの敵』、3.11で言葉を失った女性が手紙に思いを綴るさまを描いた『Ten  Commandments』など、社会と個人の問題を扱う劇を世に問うてきた瀬戸山。過去を健やかに忘れがちな私達だが、現在は過去の延長線上にあること、同じ轍(てつ)を踏んでいる/踏みそうになっていることを、本作は思い出させてくれるだろう。それをどうとらえるかで、私達の未来は決まっていくのだ。

演劇『彼女を笑うひとがいても』ビジュアル 撮影:マチェイ・クーチャ

また、史実を鮮やかに劇化した作品として忘れるわけにいかないのが、ナチスを率いるアドルフ・ヒトラーが独裁者に上り詰めるさまを描いた、ベルトルト・ブレヒト作『アルトゥロ・ウイの興隆』だ。ただしブレヒトは、ヒトラーをそのまま描くことはせず、シカゴのマフィア、アルトゥロ・ウイを主人公とした。物語は以下の通り。

〈『アルトゥロ・ウイの興隆』あらすじ〉
不況真っ只中のシカゴ。シカゴ市の野菜卸売り販売業を独占するカリフラワー・トラストの実業家達は、港湾工事を理由に市からの貸付を受けるため、市議会議員ドッグズバローを買収する。これを知ったギャング団のボス、アルトゥロ・ウイはドッグズバローを強請(ゆす)り、そのもみ消しや警察・司法権力から保護と引き換えに、シカゴの政治・経済の内情に深く関与していく。併せて、シェイクスピア俳優に教えを請い、人を惹きつける立ち居振る舞いを身につける。
部下ローマジヴォラジーリらと共に様々な奸計(かんけい)や暴力を駆使してシカゴを手に入れたウイは、彼を糾弾する新聞社の社主であるダルフィートが牛耳る隣町のシセロへと勢力を拡大しーー。

ここに描かれる出来事はすべて、ナチスの台頭にあたって起きたことと符号する。シカゴ市はドイツ、シセロ市はオーストリアであり、ウイはヒトラー、ローマはヒトラーに粛清されたレーム、ジーリはナチスの空軍総司令官となるゲーリング、ジヴォラはドイツ宣伝相として名高いゲッベルス。ドッグズバローはヒンデンブルク大統領、ダルフィートはオーストリアの首相兼外相ドルフース……といった具合に。ヒトラーが首相に任命された1933年に故国ドイツを離れたブレヒトは、アメリカ亡命中の1941年に本作を書いた。場所を変え、立場を変えてなぞるヒトラーの物語は、いつでもどこでもヒトラーが生まれるのだということを教えてくれるかのようだ。

音楽劇『アルトゥロ・ウイの興隆』 ウイ役の草彅剛 撮影:田中亜紀

このことを、現在公演中の白井晃演出の舞台ではじつにリアルに知らしめている。主役のウイに草彅剛を配し、ジェームス・ブラウンを中心とするファンク・ミュージックのライブさながらの舞台に“ショーアップ”。音楽が、照明が、そして歌い踊るウイらが観客を煽る中、うなぎのぼりに高まっていく観客の熱狂。舞台に促されるままに観客が行う拍手や挙手が、ウイの野心を支え、その支配を実現していく。
筆者はこの白井版『アルトゥロ・ウイの興隆』を、2020年1月の初演と今年(2021年)11月の再演と2回観た。初演の頃は舞台の意図がまだそれほど認知されておらず、多少の混乱の中で、拍手や挙手が生まれた。再演ではもう少し革新的に、その意味を知りながら参加する観客が多かったように思う。まるで舞台に身を捧げる生贄であるかのように踊る草彅への愛情や応援、あるいは舞台の効果の高めるための積極的な参与。
実際、重要な局面で拍手や挙手が一切起きなかったら、この舞台は成立しない。しかし、それすらもナチス・ドイツの状況と、案外変わらないのではないかと思うのだ。ナチスの政策に賛同する者、周囲の空気につられて熱狂する者、ヒトラーの個人的な魅力に惹きつけられ、愛情や激励の思いに突き動かされる者……など、当時のナチスの支持の理由も様々だったと想像できるからである。そして、そう考えるだに、この舞台が持つ魅力と恐ろしさに戦慄せずにはいられない。

初演と同じKAAT神奈川芸術劇場で幕を開けた本作の再演は、2021年12月に京都、そして2022年1月に東京で公演される。ぜひ体感し、作品が問いかけるものを受け止めてほしい。

音楽劇『アルトゥロ・ウイの興隆』 撮影:田中亜紀

よく知る物語に新たな視点を〜ミュージカル『INTO THE WOODS』、オペラ『サロメ』『夕鶴』『影のない女』〜

私達がよく知る物語を、違った形で見せて問題提起してくれる舞台作品がある。ブロードウェイ・ミュージカルで様々なヒット作を送り出し、つい先日惜しまれつつ他界したスティーヴン・ソンドハイムが作詞・作曲を、ジェームズ・ラパインが脚本を手がけたミュージカル『INTO THE WOODS』では、グリム童話の世界が斬新に読み替えられる。ハリウッドで映画化もされたのでご存知の方も多いだろうが、簡単にあらすじを紹介していく。

〈『INTO THE WOODS』あらすじ〉
夫の家にかけられた魔女の呪いのせいで子どもができないパン屋夫婦は、呪いを解きたければ森へ行って3日以内に、ミルキーな白い牛、血のように赤いずきん、黄色いコーンの髪、きらめく金の靴を取ってくるようにと魔女から言われ、森を目指す。そこで出会ったのは、赤ずきんシンデレラジャックと豆の木、ラプンツェルら、有名な童話の主人公たち。だがそこには、有名な童話とは異なる状況や本音や感情があり、過誤やズレがいっぱい。それでも紆余曲折の末、どうにか童話通りの結末を迎え、夫婦も目的の品々を手に入れて、一件落着。
しかしながら、閉じたら終わる本と違って、彼らの人生はその後も続く。欲しかったものを手に入れても、まだ欲しいものは出てくるし、新たな不満や不安も生じるのが人生なのだ。
果たして、彼らを待ち受ける運命とは?

ソンドハイムの情感豊かな音楽に彩られ、賑やかに、そして風刺たっぷりに進む物語。2022年1月に開幕する公演では、鬼才・熊林弘高が演出を手がけ、パン屋夫婦に渡辺大知と瀧内公美、魔女に望海風斗、赤ずきんに羽野晶紀、シンデレラに古川琴音、その継母に毬谷友子、継姉に湖月わたると朝海ひかる、巨人に麻実れい(声のみ)……と多彩な顔ぶれが並ぶ。舞台美術(杉浦充)では、シンデレラの家、パン屋の家、ジャックの家、魔女の家を重ね合わせ、エッシャーのだまし絵のように現実には存在し得ない風景を作り出すという。パン屋夫婦同様、私達も不思議な森に迷い込み、色々なものを発見するに違いない。

ミュージカル『INTO THE WOODS』宣伝ビジュアル

もっとも、台本から作らなくても、演出によって従来とは違う新解釈が提示されることは少なくない。殊(こと)にオペラでは、そうした舞台を頻繁に観ることができる。連載第13回でも書いたとおり、2011年に東京二期会が上演したペーター・コンヴィチュニー演出『サロメ』は、そんな演出の一つとして、筆者の記憶に残っている。
リヒャルト・シュトラウスが作曲したこのオペラの原作は、オスカー・ワイルドの同名戯曲。自分につれない恋しい男ヨハネの首を、7つのベールを脱いでいく踊りの褒美として手に入れるヒロイン、サロメの姿は、世紀末のデカダンスなファム・ファタル(宿命の女)像として広く知れ渡った。オペラでも、7つのベールの踊りの場面が入り、ラストではサロメがヨハネの首に向かって長々と歌いかける。
しかし、このコンヴィチュニー演出の舞台では文字通り“出口なし”の閉塞状況を表していた舞台美術の扉を開け、外へと出て生きたヨハネに愛を歌った。詳細は観終えた興奮をそのままにブログに記しているので、そちらを読んでほしい。目の前に広がるものだけが世界のすべてだと絶望し、試せば簡単にできるのに外に出ようと思いつきさえしない、ということは、じつはしばしばあることだろう。コンヴィチュニーの演出はそれまでにも何作か観ていて、どれも面白かったのだが、この作品では目からうろこが落ちるのみならず勇気を得、感動を覚えた。

このコンヴィチュニーが2022年、同じリヒャルト・シュトラウスのオペラ『影のない女』東京二期会とボン歌劇場との共同制作として新演出する。2月の二期会での公演が世界初演となるだけに、どのような演出になるのかは不明だが、コンヴィチュニーならではの才知あふれる世界に期待大。

最近観て賛意を覚えたオペラの一つには、岡田利規演出『夕鶴』がある。本作については、公演前、連載第14回で紹介した。去る2021年10月30日に公演が行われたが、岡田の演出の特長の一つは、『夕鶴』でつう与ひょうのために払う犠牲を顕在化させたことだった。終幕近く、布を織る間、決して見てはいけないとされていた部屋を与ひょうが開けると、そこはまるでショーパブか売春宿のようなスペース。つうは織り終えた布を与ひょうに渡すと、壁を蹴り、鶴のマークの飛行機に乗って去っていく。旧来の『夕鶴』の牧歌的な演出に馴染んだ観客は、この演出に唖然としていたのだが、じつのところ、『鶴の恩返し』や『夕鶴』での機織りが、売春のメタファーではないかという説は以前からある。それはともかくとしても、自らの身体から羽根を抜いて布を織るつうが、与ひょうを含め男性達に搾取されていたのは紛れもない事実。そうした犠牲が、愛の言説でくるまれ、美しいイメージで語られがちな中、岡田演出の問題提起の価値・意義は大きい。

1日だけの東京公演だったが、来年(2022年)1月30日に刈谷(愛知県)公演、2月5日に熊本公演がある。指揮者も辻博之から鈴木優人に変わり、東京公演とはまた違った印象になっているかもしれない。ぜひ体験し、考えてみてほしい舞台だ。

オペラ『夕鶴』 つう役の小林沙羅(中央)、ダンサー(工藤響子、岡本優) 撮影:サラ・マクドナルド

現代を映し、現代を問う〜オペラ『Fire Shut Up in My Bones』、コンテンポラリー・ダンス バットシェバ舞踊団『Sadeh-サデ21』『HORA』、シアターコモンズ〜

演出の話を先にしたが、今の感覚や事象、問題意識を取り入れた現代作品としてのオペラも、勿論作られている。日本でも昨年(2020年)、新国立劇場が藤倉大作曲のオペラ『アルマゲドンの夢』を世界初演し、大いに話題を読んだ。手前味噌で恐縮だが、本連載第6回でも紹介し、観劇後はRealTokyoに公演評を執筆したので、興味のある方は読んでいただきたい。

2022年1月には、「METライブビューイング」の一つとして、現代を描いたオペラを映画館で観ることができる。テレンス・ブランチャード作曲『Fire Shut Up in My Bones』は、アメリカのコラムニスト、チャールズ・M・ブロウの同名の自伝的エッセイをもとにした新作オペラだ。2019年にセントルイス・オペラで世界初演され、今年、MET(メトロポリタン・オペラ)初演。原作者のブロウもだが、作曲のブランチャードは、アフリカ系アメリカ人。MET史上初のアフリカ系アメリカ人作曲家による新作オペラとなる。

オペラ『Fire Shut Up in My Bones』 (c)Ken Howard/Metropolitan Opera

〈『Fire Shut Up in My Bones』あらすじ〉
現代のアメリカ、ルイジアナ。物語は、チャールズの回想として、幼少期、青年期……と展開していく。7歳の時に従兄のチェスターから受けた性暴力のトラウマを抱えているチャールズ。大学に入り、そのことを恋人のグレタに打ち明ける。しかしグレタの心には既に別の男性が。絶望したチャールズは、母のビリーからチェスターが戻っていると聞き、復讐を思い立つがーー。

METでは2019-2020年シーズンに、アフリカ系アメリカ人世界を描いたガーシュインのオペラ『ポーギーとベス』を新制作したが、今回の演出は、その『ポーギーとベス』と同じジェイムズ・ロビンソンと、この時は振付を手がけたカミーユ・A・ブラウン。賑やかなダンスシーンもあるいっぽう、差別や暴力、銃社会の現実など、現代のアメリカの様々な問題を見て取ることができる作品だ。

もっとも、ことさらに現代を描写しようとしていなくても、芸術作品は多かれ少なかれ、その時代の空気なり状況なりを反映する。あるいは、観客が勝手に読み取りもする。そのことを考える上で思い出されるのは、2012年に来日公演を行った、バットシェバ舞踊団のオハッド・ナハリン振付『Sadeh-サデ21』。折しもイスラエル軍が連日、パレスチナを空爆して世界中から非難されている時期で、そのイスラエルから来た舞踊団の公演も、ある種の緊張感と無縁ではなかった。作品では、ダンサーたちが横長の白い壁の前に舞台が設えられ、様々に踊っていく。その踊りもじつに魅力的で、生きとし生けるものの営みを感じさせたが、印象深かったのはラスト、壁に上っては後方へ落ちていくダンサーたちの姿だ。死を想わせる落下。しかしふとした瞬間に、それは生を感じる飛躍に転じる。死と生、あるいは死から生へ。壁はイスラエルとパレスチナを隔てる壁に見えなくもない。加害者であり世界中から非難される国から来た(しかしダンサーは多国籍の)カンパニーが見せたこの舞台。状況が状況だけに、一層、その表現に胸が熱くなった。

そのバットシェバ舞踊団が来年(2022年)、日本にやってくる。本来は2020年3月にナハリン振付『Venezuela』を上演するはずだったのだが、パンデミックにより中止に。今回は2009年初演のナハリン振付『HORA』を引っさげて来日する。舞台には、どこか『Sadeh-サデ21』との共通性も感じる横長の壁。作曲家・シンセサイザー奏者の故・冨田勲が編曲・演奏したクラシック曲と共に、11名のダンサーたちがダイナミックな踊りを展開する。2年近く、新型コロナウィルスにより生命の脅威にさらされてきた私達は、この舞台をどう観るのだろうか(来日できますように!)。埼玉のほか、愛知、北九州で公演あり。

バットシェバ舞踊団『HORA』 ©Ilya Melnikov

また、詳細は未発表だが、『レヒニッツ(皆殺しの天使)』上演時のF/Tディレクターであった相馬が“演劇の「共有知」を活用し、社会の「共有地」を生み出すプロジェクト”として毎年2~3月に開催している「シアターコモンズ」の、2022年のラインアップも気になるところ。様々な作品やワークショップは、まさに今の私達の姿勢や認識を問うものばかり。自分の感覚を研ぎ澄まし、あるいは更新するためにも、足を運びたいプロジェクトだ。

古典から読み取る問いかけ〜文楽『加賀見山旧錦絵』〜

ここまで、新たな脚本や演出や振付などによる舞台を紹介してきたが、現代に通じる問いかけは、従来通りの演出による古典作品からも読み取ることができる。古典はその普遍性ゆえに連綿と受け継がれ、今に残っているのだから、当たり前のことなのだが。あまたある中から今回取り上げたいのは、2022年2月に東京で上演される文楽『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)。物語については、簡単にではあるが連載第10回でご紹介しているので、そちらを参照してほしい。本作の「廊下の段」「長局の段」では、人が人をどう思いやることができるかが丁寧に描かれる。

岩藤に侮辱されて帰ってきた主人の尾上のただならぬ様子に気づいたお初は、主人をまめまめしく気遣うのみならず、『仮名手本忠臣蔵』の話になれば、高師直(史実の吉良上野介)に切りつけた塩冶判官(浅野内匠頭)について「大切な身を短慮から滅ぼして、親御さまが嘆くであろう」と感想を述べることで、芝居にかこつけて、尾上が早まらないよう諌める。それでも手紙を出してくるよう言われ、その間に主人に何かあってはと案じ、「明日になされては」と提案するのだが、尾上が「自分が女の主だからと言いつけに背くのか」と敢えてキツく咎めたために出かけざるを得なくなる。それでも胸騒ぎがして途中で戻ると、尾上は既に自害していたのだった。健気なお初の心配や、大切な人を失った者の嘆きには、観ていて胸に迫るものがある。それでも、これだけ忠実で優しいお初だからこそ、尾上は真実を記した遺書を安心して残すことができたのだろう。お初はその尾上の無念を見事晴らすのだ。死を防げなかったとはいえ、人が苦しんでいる時、彼女のように寄り添いたいものだとつくづく思わされる。

2月の公演の配役はまだ発表されていないが、人形、太夫、三味線という文楽の“三業”の担い手が総力を挙げて、ドラマを見事に構築してくれることだろう。この場面の前、岩藤が尾上をいじめ抜く「草履打の段」や、お初が敵討ちをする「奥庭の段」もお見逃しなく。

文楽『加賀見山旧錦絵』 尾上(前)を優しく気遣うお初 提供:国立劇場

極論すれば、あらゆる舞台作品は、様々な問いかけを有する。それをどれだけ受け止められるかは、観客次第。ぜひ、センサーを研ぎ澄ませて劇場へ赴き、そこで得たものを咀嚼し、思考を深め、あるいは他の人と共有していってほしい。そうすることで、観劇はどこまでも豊かな体験となるのだ。

終わりに

この連載は、阿部さや子編集長が、「無理にバレエに寄せなくてもよいので、書きたいものを書いてほしい」と依頼してくださったものだ。そこで、バレエを愛する皆さんに、バレエ以外の舞台に出会ってもらいたいとの思いから、敢えて読者の方々には縁遠いかもしれない舞台を、幾つかのキーワードと共にご紹介することにした。私の力不足やスケジューリングの不備などから、常に締切直前にあわあわと原稿を書いて、阿部編集長や担当の若松圭子さんはじめ編集部には多大な迷惑をおかけし、文章にも至らぬところが多々あったと反省している。
それでも、この連載をきっかけに、同じ舞台の世界に多種多彩なジャンルや表現があって、それらはちょっと手を伸ばせば誰にでも届くところでキラキラと輝いているのだと知ってもらえたなら、こんな嬉しいことはない。

最後までありがとうございました。

★(最終回)ご愛読ありがとうございました。この連載はこちらからまとめてお読みいただけます。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

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