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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第38回〉パリのランドマーク!パレ・ガルニエ(ガルニエ宮)誕生秘話

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

口を開くと「暑いですね」しか出てこず、冷凍庫に頭を突っ込みたくなる今日この頃、「バレエチャンネル」読者のみなさまにはいかがお過ごしでしょうか。今夏のパリでは、7月26日からオリンピックが開催されていますが、日本の酷暑と比較すると、過ごしやすい気候の中での競技実施となっていそうですね。そのオリンピックの最終日の恒例はマラソン競技。今回予定されているコースは、パリのさまざまな歴史的建造物を周るのだとか。となると、われわれバレエファンとしては、そのコースにオペラ座が入っているのか、が気になります。調べたところ、コースの2.7キロ地点で、パレ・ガルニエ(ガルニエ宮)の周囲をぐるっと回ることになっていました。現在、劇場は外装工事中のはずですが、中継で映るのはいったいどんな姿なのでしょうか?

このパレ・ガルニエは、われらがパリ・オペラ座バレエの本拠地のひとつ。1875年の開場以来(つまり、今年で149年経つことになりますね)、オペラ座の顔として、また今日では観光名所としても親しまれている劇場です。しかし、劇場の建築計画が立てられてから開場するまでには、さまざまな紆余曲折がありました。今回の連載では、建築当時の資料を参照しながら、一筋縄では開場しなかった劇場のパレ・ガルニエについてご紹介します。

パレ・ガルニエ(2013年撮影)©️Sayako Abe / Ballet Channel

「パレ・ガルニエ」じゃなかったかも? 劇場の名称

今日のパリ・オペラ座バレエは、パリ右岸の9区に位置するパレ・ガルニエと、同じく右岸の12区にあるオペラ・バスティーユの2つの劇場を、本拠地劇場として使用しています。とはいえ、「オペラ座」といってバレエファンの脳内に真っ先に浮かぶのは、やはりパレ・ガルニエの華やかで豪華な建物なのではないでしょうか。「パレ・ガルニエ」は、フランス語で「宮殿」を意味する「パレpalais」に加え、建築プランを担った建築家のシャルル・ガルニエ(1825–1898)の姓をくっつけた名称です。オペラ座が360年以上の間に使用してきた劇場の名は、劇場が位置する通りにちなむことが多く、建築家の名前を冠するのはパレ・ガルニエくらい。それほど、シャルル・ガルニエの存在が大きかったのだろう、と思われますが、じつはこの劇場、ひょっとしたら「パレ・ガルニエ」という名称にはならなかったかもしれないのです。

シャルル・ガルニエ(1825–1898)

1820年代からずっと、パリ9区のサル・ル・ペルティエを使用していたオペラ座が、引っ越しをするきっかけになったのは、1858年1月14日に起こったナポレオン3世の襲撃事件です。その10ヵ月後の11月14日には、県知事のオスマンの指示により、オペラ座の建築委員会が組織されました。この時、新しい劇場の建築プランを任されていたのは、シャルル・ロオー=ド=フルーリという建築家でした。ロオー=ド=フルーリは名門の国立高等美術学校卒、パリ自然史博物館などをはじめとする数々のデザイン実績を持つなど、華々しいキャリアの持ち主でした。彼の発案で、新しい劇場には、皇帝用の入り口と定期会員用の入り口を別に設けることなどが決まっていきます。

ところが1860年、内閣の面々が変わり、国務大臣にアレクサンドル・ヴァレフスキが就任すると、大規模なコンクールによって建築責任者を決めることになります。首都のシンボルになるような劇場のデザインは広く意見を聞いて、ということなのか、はたまた何らかの意図があったのか。どうやらこのコンクール開催は、ナポレオン3世皇妃のウージェニーからの指示だったようですが、もしコンクールが開催されなかったら、今ごろ「パレ・ガルニエ」は「パレ・ロオー=ド=フルーリ」になっていたかもしれません。ご本人にはちょっと申し訳ないですが、いまいち据わりが悪いような気がします……。

国家規模の建設コンクール

そして1860年12月29日、コンクールが告知されると171の応募が寄せられ、そこから候補作を絞るための第1次審査が行われました。応募者の必須提出書類は、劇場全体の平面図、主要ファサードの立面図、ホールの長さに沿った断面図と、概算の見積もりです。当初の建築家、ロオー=ド=フルーリはここでふるいにかけられ、第2次審査に残ったのは、共同制作を提案した2名の建築家を含む計6名のプランでした。ただし、そのうちの1人は第1次審査の翌年に亡くなり、1人は第2次審査を辞退、また共同制作は建築委員会の求めるところではありませんでした(ならばなぜ1次を通したの?という疑問はありますが)。

ということで残ったのは、第1次審査を1位通過したレオン・ジナンと、5位通過のシャルル・ガルニエの二人。じつは彼らは、国立高等美術学校で同じ師に学び、どちらもフランスの若手芸術家のための登竜門と言われる「ローマ賞」コンクールで大賞を受賞、しかも同い年、という間柄でした。さらに、二人の師だった建築家のイポリット・ルバは、このコンクールの審査員に名を連ねていました。同門どうしのプライドをかけた対決(かどうかは定かではありませんが)を制したのは、大方の予想に反してガルニエでした。審査員の一人だった、著名な建築家のアルフォンス・ド・ジゾールによると、満場一致の結果だったそうです。

このとき、ガルニエは35歳。23歳で受賞したローマ大賞のごほうびとして、ローマやギリシャに滞在後、パリに帰国したものの、パッとしない仕事に甘んじていた彼にとって、新しいオペラ座の建築責任者に決まったことは、待ちに待った大チャンスでした。

工事は進む、が……

晴れて建築責任者となったガルニエは、劇場の外装・内装のじつに細かいところまで、必要なデザイン画を仕上げていきます。その多くは、現在、フランス国立図書館がデジタル化して公開しており、ホールの断面図や階段のような大掛かりなところはもちろん、フォワイエ・ド・ラ・ダンスの通気口やボックス席の肘掛け椅子のデザイン画、劇場の外壁にある作曲家たちの名前リストなども見られます。パレ・ガルニエ好きな人(私含む)にとっては、見ているだけでウハウハな資料なので、ぜひ一度ご覧になって見てくださいね。

建設工事は1861年8月に始まりますが、途中、掘削中に地面から大量の水が出てきたり、建設費用がどんどん足りなくなったりするなど、困難なことばかり。とはいえ、1867年に開催されたパリ万博の時には、劇場正面のファサードが公開されるなど、ゆっくりではあるものの、建設は進んで行きました。しかし1870年、誰も予想しなかった災難が、新劇場の建設に降り掛かります。この年、フランスとプロイセンとの間で戦争が起こり、ナポレオン3世は開戦から2ヵ月も経たないうちに、プロイセン側の捕虜になってしまうのでした。第二帝政下の公的建設事業として進められていたオペラ座の工事は、当然、ストップしてしまいます。

その後、オペラ座の建設は、政体の変化とプロイセン軍によるパリ包囲、フランスの新政府と市民たちとの熾烈な戦い(パリ・コミューン)を経て、1871年に再開されます。建設計画が完全に白紙に戻されなかったのは幸いで、これは劇場の建設がある程度進んでいた、ということと、工事中も稼働していた前のオペラ座(サル・ル・ペルティエ)が1873年に火事で全焼してしまったこと、そして、プロイセンとの戦争で疲弊しているフランスに、新しい劇場の開場という華やかなニュースをもたらしたい、という新政府の意図があった、と言われます。

そして、建設コンクールから15年を経た1875年1月15日。パレ・ガルニエは開場し、記念の公演では、当時のオペラ座のレパートリーを代表する様々なオペラやバレエからの抜粋が上演されました。バレエの演目は、1867年初演の《泉》から、レオ・ドリーブが作曲した第2幕の部分です。周辺国の貴族や大臣、軍隊の上層部などが顔を揃えた華やかな客席内に、新しいオペラ座の開場を望んでいたはずのナポレオン3世や、コンクールを主宰したヴァレフスキの姿はありませんでした。この時点で、どちらもすでに、この世の人ではなかったのです。

パレ・ガルニエは、20世紀最初の大規模な戦争となった第一次世界大戦、そして第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるパリ占領などを経て、何度も改修工事を行いながら、今日まで現役の劇場として稼働しています。劇場機構はリノベーションされ、客席の拡張なども行われているのですが、ふとしたところにガルニエのデザイン画と寸分違わない箇所などを見つけると、パレ・ガルニエが背負ってきた歴史の長さと重みを感じずにはいられません。パリ・オリンピックのマラソン中継では、パリの、そしてフランスのシンボルのひとつとして、その輝かしい姿を見せてくれるのではないでしょうか。

参考資料

« La nouvelle salle de l’Opéra » dans Le Ménestrel, le 6 janvier 1861, p.45-46.

« Chronique musicale et faits-divers » dans La Presse théâtrale, le 11 septembre 1859, p.4.

F-Pn: IFN-53138461. Nouvel opéra : cinquièmes loges / Charles Garnier. Estampe, annotations à l’encre ; 71,2 x 53,3 cm.

F-Pn: IFN-53138539. Le Nouvel Opéra de Paris : pavements en marbre / Charles Garnier. 1 tirage : estampe ; 65 x 45 cm.

F-Pn: IFN-53180132. Coupe transversale sur le foyer de la danse / Charles Garnier. 1 plan : crayon, encre de chine, lavis ; 72 x 108 cm.

F-Pn: IFN-53221287. Foyer de la danse. Bouche de chaleur / Charles Garnier. 1 plan : crayon ; 70 x 103,5 cm.

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1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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