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世界のダンスシーンに衝撃を与え続けるイスラエルのダンス・カンパニー、バットシェバ舞踊団 。鬼才オハッド・ナハリン の振付と、彼が考案した独自のムーヴメント・ランゲージ「Gaga(ガガ)」によって研ぎ出されたダンサーたちが、踊る身体の威力で無条件に観客を圧倒します。
同団は2024年1月〜2月、約6年ぶりに来日して、ナハリンの最新作『MOMO』を埼玉・北九州・びわ湖で上演する予定でした。
しかしながらイスラエル情勢の悪化に伴い、来日公演の中止 が発表されました。
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バレエチャンネルでは、2023年9月に、バットシェバ舞踊団のメンバーである中村恵理 さんにインタビュー取材を行っていました。
中村さんはクラシック・バレエを学び、海外のバレエ団でソリスト等を務めたのち、バットシェバ舞踊団へ移籍。『MOMO』をはじめとするナハリン作品で、衣裳デザインも手掛けているダンサーです。
チュチュに憧れてクラシック・バレエを習い始め、バレリーナになる夢を叶えた中村恵理さんは、なぜイスラエルへ渡り、バットシェバ舞踊団で踊る道を選んだのか。
公演は中止となりましたが、中村さんのユニークなダンス人生や、ナハリンとバットシェバ舞踊団について聞いたインタビューを、読者のみなさまにお届けします。
ⓒLilach Zamir 写真提供:中村恵理
中村恵理 Eri Nakamura
長野バレエ団出身。奨学生としてメルボルンのオーストラリア・バレエ学校に3年間留学し、2002年首席で卒業。2003年スペイン・マドリードのヴィクトル・ウラテ・バレエ団に入団。2007年カナダ・モントリオールのグラン・バレエ・カナディアンに移籍、2008年までソリストとして活躍。その後2011年より現在までイスラエルのバットシェバ舞踊団に所属。ダンサーとして活動するほか、2015年よりオハッド・ナハリン作品『LAST WORK』『Venezuela』『MOMO』、ロイ・アサッフ作品『ADAM』の衣裳デザインを手掛けるなど、幅広く活躍している。
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バレエの道は「着たい」から始まった
クラシック・バレエを学び、バレエダンサーとして活躍していた中村恵理さんが、どのようにしてバットシェバ舞踊団で踊るようになったのか……今日はぜひじっくりお話を聞かせてください。まずはバレエのキャリアについての質問から。バレエを始めたのは6歳の時だそうですが、きっかけは?
中村 幼い頃に「魔法使いサリーちゃん」の絵本を持っていて、その中でサリーちゃんがチュチュを着ていたんです。それがとても可愛くて、「このチュチュ着たい!」とバレエを習い始めました。つまり、きっかけは「踊りたい」ではなく「着たい」でした。
習い始めてからは、「踊りたい」という気持ちになったのでしょうか?
中村 最初は単なる「お稽古ごと」の意識で、踊ることに対してあまり真剣ではありませんでした。身体も柔らかくなかったし、お稽古も好きではなくて、どちらかと言えば苦痛でしたね。だから本当は7〜8歳くらいの時に、「バレエをやめたい」と言おうとしたんです。時々お母さんの後ろに立って、「いま言おうかな……どうしようかな……」って構えていたのですが、なかなか言い出せなくて。自分の気持ちをはっきり言えない性格だったことが、私の人生を決めることになりました(笑)。
可愛らしいエピソードをありがとうございます(笑)。でもその後は徐々にバレエに対して真剣になっていったわけですね?
中村 本気でバレエに取り組むようになったのは12歳くらいからです。家族で長野県に引っ越し、長野バレエ団で習い始めた頃に、雑誌「ダンスマガジン」に載っていたラリッサ・レジュニナの写真を見たんですね。それは『眠れる森の美女』のオーロラを踊っている写真で、ラリッサさんのアティテュードがすごくきれいで。「この人みたいになりたい!」と思ってからはもう、他のことは覚えていないくらい、頭の中はバレエのことばかり。ラリッサさんの写真やビデオを見ながら、夢中でお稽古していました。その頃はすごく楽しかったですね。
14歳の頃 写真提供:中村恵理
「その頃は楽しかった」。ということは、その後あまり楽しくない時も訪れたのでしょうか?
中村 そうですね。やはりバレエは才能が必要なうえに、相当な努力も求められるので。しかも当時の私が憧れていたのはラリッサさんという「自分ではない存在」。つまり自分は決して同じようにはなれないフラストレーションを、ずっと心のどこかに抱えていました。「私はこのままじゃいけない」という感情をつねに持ち続けているのはつらかったです。
しかし中村さんはその後、スカラシップを得てオーストラリア・バレエ・スクールに留学。当時から将来性のある優秀なダンサーだったわけですね。
中村 それでもやはり、つねに自分と誰かを比べてしまったり、身体のラインのようにどこまで努力しても限界のあることに悩んだり。「もっとこうだったら良かったのに」という感情と、いつも闘っていました。ただ、そういう気持ちにも波はあって。とくに公演のリハーサルや舞台で踊っていると、悩んでいるのを忘れるくらい楽しかったです。
成田空港で母と。初めて乗る飛行機でオーストラリアへ出発の日 写真提供:中村恵理
そしてオーストラリア・バレエ・スクールを首席で卒業した中村さんですが、バレエ団への就職活動は順調でしたか?
中村 まったく順調ではありませんでした。スクール卒業後、当時モナコで開催されていた「モナコ・ダンス・フォーラム」のグループ・オーディションを受けに行くことにしたのですが、それまで暮らしていたオーストラリアは島国で、ヨーロッパとは距離もありましたから、私は現地でいま何が起こっているのかをまったく知らなかったんですね。「オーディションに参加すればどこかには受かるだろう」くらいの気持ちで臨んだところ、結果はオファーゼロ。そこからスーツケースひとつを持って電車に乗り、何ヵ月間にもわたってオーディションを受けてまわることになりました。
オーディションは何ヵ所くらい受けたのですか?
中村 30ヵ所以上は受けました。でも、良い結果はまったく得られませんでした。最初にモナコのオーディションに参加した時は1月だったのに、気がつけば8月になっていて。最後にオーディションに行ったのが、スペインのヴィクトル・ウラテ・バレエ団です。そこでようやく契約をいただき、その秋の新シーズンから入団しました。
オーストラリア・バレエ・スクールを首席で卒業するほどの実力があっても、就職活動はそれほど大変だったのですね……。
中村 オーディションってひとつ落ちるだけでもかなり落ち込むのに、「受けては落ちる」を毎週のように繰り返すのは、精神的につらかったです。そんな中でも、オーディションの際に出会ったダンサーたちや、受けに行ったカンパニーのクラスにいたダンサーたちが、何かしら手助けをしてくれて。「一緒にご飯食べにいく?」と優しい声をかけてくれたり、「あそこのオーディションにも行ってみるといいよ」と情報をくれたり、そういう温かさに救われていました。
そうしてついに入団契約を得たヴィクトル・ウラテで4年間踊り、その後カナダのモントリオールに拠点を置くグラン・バレエ・カナディアンに移籍。それらのカンパニーでバレエを踊っていた当時の中村さんは、どんなタイプのダンサーでしたか?
中村 当時は回転などを得意とする、テクニックが強いタイプのダンサーだったと思います。とくに長野バレエ団で学んでいた頃、技術的な面をしっかり鍛えられていたので。
バレエダンサーとして活動した期間を中村さんのダンス人生の第1幕、バレエを離れてバットシェバ舞踊団に移ってからを第2幕とするならば、まず第1幕を振り返って「幸せだった」と思いますか? それとも別の感想がありますか?
中村 バレエを踊っていた時は、体重管理やストレッチ、甲出し、筋力トレーニングなど、日々自分を変えていく努力が必要でした。バレエには「これが美である」というモデルがあるので、自分らしさを大事にするというよりも、「自分は変わるべきだ」という思いがいつもベースラインにあったんです。だからどんなに上達できたとしても「もっとこういう見た目だったらいいのに。もっとこう踊れたらいいのに」という感情がありましたし、つねに努力している状態でなければベストな自分でいられないというプレッシャーも感じていました。いま振り返るとそれは健康的な思考とは決して言えなくて、私の理想とする生き方とは何かが違う……そんな違和感も心のどこかで感じていたように思います。
ですからバレエダンサーとしての日々が幸せだったとは言い切れませんけれど、それでもやっぱり、私はバレエが大好きです。衣裳、舞台装置、音楽なども含めて、バレエほど美しい芸術は他にないと思いますし、素晴らしいバレエダンサーたちを観るのも好き。その気持ちは当時も今も変わりません。
ⓒAmy Gibson 写真提供:中村恵理
自分をジャッジすることから解放されて
そして中村さんはバレエ団を離れ、一路イスラエルへ。オハッド・ナハリン率いるバットシェバ舞踊団で中村さんの第2幕が始まった……かと思いきや、じつは中村さんはオハッドさんから直々にオファーを受けたにも関わらず、いったんは移籍を断ったそうですね?
中村 オハッドに出会ったのは、私がグラン・バレエ・カナディアンで踊っていた時。彼が振付に来て仕事をしたあと、今度は私が3人の友人とイスラエルまで遊びに行き、その際にオハッドから「うちのカンパニーに来ないか」と誘われました。でも私、先ほどお話ししたようにやっぱりバレエが大好きでしたし、当時はコンテンポラリー・ダンスにも興味がなくて。それで彼には「バレエをやりたいのでバットシェバには行きません」と言いました。
しかしイスラエルへ移ることにしたのはなぜですか?
中村 断ったあともメールのやりとりを続けているうちに、だんだん別の感情が生まれていったんです。つまり、お互いに惹かれ合うようになりました。ですから私がイスラエルに移ったのは、踊りたかったからではなく、オハッドと一緒にいたかったから。移住して以降も、2年間ほどはまったく踊りませんでした。ただ、カンパニーのトレーニングやリハーサルの見学には通っていましたね。自分にもできそうだと思えたら、いつか踊ってみたいという気持ちがあったので。
その後、中村さんがオハッドさんと結婚された顛末については、映画『ミスター・ガガ』(*) の中でオハッドさん自らが語っていましたね。しかし私自身、はじめてバットシェバ舞踊団のダンスを観た時の衝撃はいまでも忘れられません。それまで観てきたダンスとは異次元の世界がそこにあり、ダンサーたちの身体は、自分の知らない生物のようでした。中村さんはそれまでずっとバレエの世界で生きていたわけで、バットシェバのダンサーたちを目の当たりにした時、率直にどう感じましたか?
*オハッド・ナハリンに8年間密着したドキュメンタリー映画。2015年にイスラエルで製作され、日本では2017年に公開された
中村 ダンスに対する考え方が、バレエとはまったく違うと思いました。どうして動いているのか、その大本(おおもと)にあるメンタルが違う。それがいちばん強く感じたことです。
メンタル、ですか。
中村 バレエが完璧なポジションやラインといった「美のモデル」に向かって練習していくものだとすれば、バットシェバでオハッドが追求しているのは「ダンサー自身がもともと持っているもの」です。つまりそれぞれのダンサーが自分自身を見つけること、自分の可能性を見つけていくことがゴールですから、他人と自分を比べようもない。そこがバレエとは大きく違うと感じました。
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「Sadeh21」中村恵理 ©️Gadi Dagon
なるほど……それが、オハッド・ナハリンが考案して今や世界中のバレエ団やバレエ学校でも取り入れられている「Gaga」のトレーニングということですね。
中村 そうです。Gagaのトレーニングとは、自分の中にもともとある感覚を呼び起こす、あるいは自分の中にもともとあったものを思い出す。そういう言い方のほうが近いのかもしれません。例えば生まれたばかりの赤ちゃんって、顔でも手足でもいろいろな動きをしますよね。でも成長するにつれてだんだん動きをコントロールできるようになって、動かない部分なども出てきて、大人になっていく。それを反対にさかのぼり、生まれた時から自分が持っていたものを思い出していくようなやり方で、私たちは日々トレーニングしています。
そういうダンスやトレーニングと出会って、中村さんの身体や考え方は変化しましたか?
中村 ずいぶん変わったと思います。いちばん変わったのは、ダンスに対する考え方でしょうか。バットシェバで踊り始めた当初はまだ、私の中にはバレエのメンタリティがありました。「こういうふうに見えたら嫌だな」って、自分自身をジャッジしていたんです。でもそれがだんだんと自分の欠点を受け入れられるようになって、ずっと続けてきた「努力」からも自分を解放できるようになって。ダンサーは、努力よりもリサーチと好奇心によって成長する。そう考えるようになりました。
例えばオハッドの創作中に「大きい声で笑いながら踊ってみなさい」と言われて「恥ずかしい」と思ったとしたら、それも含めて自分の素直な感情だとして受け止める。以前オハッドが「シャイであることもひとつのクオリティだ」と言ったこともよく覚えています。あるいは自分の欠点を「直す」のではなくて、そこにある不完全な美しさを受け入れる。時にはやりたくないことに背を向ける。そういったことを今は大切にしています。
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「2019」中村恵理 ©️Tommy Pascal
バレエ団であれば毎朝クラス・レッスンをして、午後からリハーサルをするのが一般的かと思いますが、バットシェバ舞踊団では毎日どんなふうに稽古をしていますか?
中村 そこはバレエ団とまったく同じです。毎朝10時からGagaのクラスをして、そのあとはリハーサル。だいたい夕方5時くらいに終わります。
念のために伺いますが……バー・レッスンなどバレエの基礎トレーニングをすることもありますか?
中村 まったくありません。基礎トレーニングはGagaのクラスだけです。
バットシェバのダンサーの、あの美しき獣のような身体は、Gagaのみによって鍛えられているのですね……。
中村 そうですね。でも、「鍛える」という感じはまったくありません。動きを「練習している」という感じもなくて、やはり自分の内側に対する好奇心やリサーチから動きが生まれている、という感覚です。
カンパニーはどんな雰囲気ですか?
中村 メンバーは兄弟のように仲良しで、上下関係もなく、ダンサーとしても人としてもお互い尊敬し合っています。そしてリハーサルする時はとことん踊って、合間にはみんなで練習したり、子どもみたいにふざけ合ったり。時にはリハーサル中ですらふざけ合うんですよ。一見不真面目に見えるかもしれないのですが、私たちの間ではまったく問題ありません。というのも、じつはそうした瞬間に新たな動きのアイディアが生まれたり、想像力が広がったり、おもしろい発見につながったりしますから。そこがバットシェバのユニークなところです。
カンパニーのスタジオで、仲間のダンサーたちと 写真提供:中村恵理
『MOMO』には「妖精」のイメージがある
そんなバットシェバ舞踊団が、2024年1月に日本へやってきます(※編集部注:このインタビュー実施後に公演中止が発表されました)。上演作品はオハッド・ナハリン振付の最新作『MOMO』。これはどんな作品ですか?
中村 振付の90%くらいはダンサーたち自身が作り、それをオハッドが調整しながらひとつにまとめ上げていくスタイルでクリエイションをした作品です。ですからダンサーごとに動きの雰囲気が違うので、「この人はこういう振りを作るのか」という目で観るのもおもしろいかもしれません。
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「MOMO」©️Ascaf
中村さんは2015年から衣裳デザインも手がけていて、今回の『MOMO』の衣裳も中村さんがデザインしたそうですね?
中村 そうなんです。新作の衣裳を作る時は、初演を迎える日の3週間前にはデザインを決定しなくてはいけません。けれども本番に向けてリハーサルが進む中で、作品はどんどん変わっていく。出来上がった作品を見てデザインできるわけではないところが、衣裳の仕事の難しさです。『MOMO』の場合も、オハッドたちがクリエイションしている間の雰囲気や、音楽の印象、各ダンサーの動きのダイナミズムなどを、私がどう感じたか。それを衣裳に落とし込んでいきました。
『MOMO』のトレイラーを拝見して、男性ダンサーがチュチュみたいな衣裳を着けているのを発見しました。
中村 クリエイションの様子を見ていて、ふとダンサーたちが別世界の住人であるような、不思議な感覚を覚えたんです。その存在がまるで妖精みたいだと感じたので、チュチュを着せることにしました。
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「MOMO」©️Ascaf
なるほど、妖精ですか。
中村 衣裳をデザインする時、私の中にはいくつか考えるポイントがあります。その作品において、ダンサーはどのくらい人間的なのか? 現実に近いのか、それとも夢に近いのか? 男女の違いはどのくらい出すべきか? 観客にはどのくらい近づきたいのか? といったエレメントです。今回の『MOMO』は神秘的な雰囲気の作品で、人間的というより空想的。そしてダンサーたち一人ひとりに、個々に作り出した彼らだけに見えている世界があるような気がしたので、妖精のようなイメージを描きました。もっともこれは私の解釈で、オハッドは妖精だなんてかけらも思ってないと思いますが。でも彼のビジョンと私の想像が重なって生まれたのが『MOMO』の衣裳です。
すごく面白いお話です。中村さんがこれまでデザインした衣裳を拝見すると、どれも基本的にはとてもシンプルなのに、生地の風合いや色合いによって繊細な表現がなされていて、洗練されていると感じます。
中村 嬉しいです。ありがとうございます。
『MOMO』の衣裳をデザインするうえで、とくにこだわったポイントはありますか?
中村 『MOMO』の衣裳は、どこかにバレエの影響があると思います。私、昔からマリインスキー・バレエの衣裳が大好きなんですよ。とくにデリケートで品のある色使いや造形の仕方に、かなり影響を受けていると思います。もちろん『MOMO』ではまったく違うかたちになっていますけれど、バレエファンのみなさんにはきっとバレエの気配を感じ取っていただけるのではないでしょうか。
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「MOMO」©️Ascaf
オハッド・ナハリン/バットシェバ舞踊団「MOMO」中村恵理 ©️Ascaf
ところでイスラエルのダンスの客層や観客の雰囲気は、日本と違いますか?
中村 かなり違うと思います。イスラエルの人々にとってダンスはとても日常的なもので、街の中に普通にあるものという感じがします。例えば日本だと、バレエやダンスの主な客層といえば、女性やバレエ経験者だったりしますよね。でもこちらは老若男女、誰でも気軽にダンス鑑賞を楽しんでいます。もしかするとイスラエルはダンスや劇場文化の歴史が浅いので、「バレエは女性が観るもの」「芸術は高尚なもの」といった固定観念がないのかもしれません。
それからカンパニーが学校公演に出かけて、体育館で子どもたちにダンスを見せる活動も盛んです。しかも子どもたちに「おしゃべりはダメ。静かに観ましょう」なんてガミガミ注意することなく、自由に楽しんでもらおうとする意識も強い気がします。バットシェバでも子ども用のプログラムを上演することがありますが、子どもに対して「静かにしなさい!」と注意する親を見つけると、オハッドはその親のほうを注意しにいくんです(笑)。「静かにして、なんて言わないで。ダンスを観て笑ってもいいし、立ち上がって一緒に踊ってもいいんだから」って。もちろん中にはお行儀の悪すぎる子もいて、時々サンドイッチが飛んできたりもしますけれど(笑)、基本的には「ダンスは我慢して観るものじゃなく、楽しんで観るものだ」というスタンスを多くの人が持っています。
素敵ですね……。最後に、中村さんが今、ダンサーとして大切にしていることがあれば聞かせてください。
中村 私にとってダンスは日常生活のなかのひとつに過ぎません。むしろ、ダンスが私の中心にならないように心がけています。育児、人間関係、善悪とは何かという疑問、政治問題など、日々の生活で考えさせられたり学んだりすることが、私を成長させてくれる。その結果がダンスの成長にもつながっていくと信じています。
愛娘と 写真提供:中村恵理