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【SPOTLIGHT】ダンサーズ・ファイル〈3〉池田紗弥〜1秒1秒、踊る幸せをかみしめて〜

阿部さや子 Sayako ABE

みなさま、現在クラウドファンディング実施中「SPOTLIGHT 私たちは踊りたい〜若きバレエダンサーたちのステージ&ドキュメンタリー」配信プロジェクトを応援してくださり、本当にありがとうございます。

2020年10月18日(日)20時〜の配信開始にさきがけて、このステージ&ドキュメンタリーに登場する全11名のダンサーたちを一人ひとり紹介するインタビューを掲載していきます。今回はオーストラリア・バレエ・スクール最終学年に在学中の池田紗弥さんです。

私たちが池田紗弥さんに初めて対面したのは、このSPOTLIGHTプロジェクト始動にあたり開催したダンサーチーム&バレエチャンネル編集部のZoomミーティングの時でした。

画面のなかで、言葉少なに自己紹介してくれた池田さんは少し人見知りな印象だったけれど、あらためてインタビューをしてみると、素直で、率直で、笑顔の可愛らしい18歳。そして踊りは上体の使い方が何とも美しく、独特な魅力を感じさせるダンサーです。

現在はオーストラリア・バレエ・スクールの卒業学年(8年生)に在籍中ですが、コロナのためスクールが閉鎖に。3月末から日本にいったん帰国して、いまは「日本でできることをやりながら」、復学できる日を待っています。

執筆協力:ミア・フィールズ/Mia Fields

バレエとの出会い

池田さんは4歳からバレエを始めたとのことですが、きっかけは?
池田 もともとは、姉が地元のバレエスクールで習っていて。私はお姉ちゃんの真似をするのが大好きで、バレエのレッスンにもついていっては、スタジオのすみで一緒に踊っていたそうなんです。それが2歳くらいの時。以来ずっと「早くバレエを習わせて」と母に言い続けて、4歳の時にようやく始めることができました。
小さい頃は、バレエのどんなところが楽しかったですか?
池田 ただただ、音楽に合わせて踊ることが好きでした。なぜか他のダンスにはあまり興味がなくて、バレエが好きでした。

初めての発表会

初めてトウシューズを履いたのはいつですか?
池田 小さい時からトウシューズへの憧れが強すぎて、お姉ちゃんのトウシューズを家で履いたりしていたので、いつだったかはあまりはっきりしません(笑)。でも先生から正式に許可をいただいたのは、小学校3年生ぐらいの時だったかなと思います。
初めてトウで立ってみた時の感想は?
池田 もちろん、すごく嬉しかったです。ただ、本で読んだことのあるバレリーナをめざす女の子の物語には「トウで立ったら山の頂上に立った気分」みたいに書かれてあったけど、そういう感じでは全然なくて。「意外と普通やな……」と思った記憶があります(笑)。
おもしろい(笑)。「プロのダンサーになりたい」と思うようになったのはいつ頃ですか?
池田 小学校1〜2年生くらいから、「私は絶対バレリーナになる!」って思っていました。そしてなぜかはわからないけど、「絶対に海外留学する!」とも思っていて、その目標に向けて練習をしていました。
池田さんは10歳で教室を移りましたね。それも「プロになりたい」という思いがあったからですか?
池田 はい、そう言えると思います。最初に通っていた地元のスクールは、先生がとても優しい方で大好きだったのですが、週2回ぐらいしかレッスンがなかったんです。私はいつも踊り足りなくて、家でもずっと踊っていました。そうしたらある時、先生が、「紗弥はここじゃなくて、もう少し大きいスクールに移ったほうがいいよ」と、大阪のソウダバレエスクールを勧めてくださって。さっそく見学に行ってみたところ、私と同い年くらいの子たちが20人ほどスタジオの中にビシッ!と並んでいて、ピリッ!とした空気のなかで、一人ひとりがすごく集中しているのに、衝撃を受けました。「わっ、これがバレエなんや!」と。そして今の自分に必要なのはここだと思って、移籍を決めました。
教室を移ってから、バレエに対する意識などに変化はありましたか?
池田 小さい頃からとにかく舞台で踊るのが好きで、それは今でも変わっていません。でも移籍して、さらにじっくりと基礎を習うようになってからは、どうやったら綺麗な足になるかを自分で研究して、ゆっくりタンデュのエクササイズをしてみたりすることも大好きになりました。

2013年、11歳。YAGP2014日本予選のプリコンペティティヴ部門でTOP12に入賞

そうしてバレエの道を本気で志すようになればなるほど、つらくなったり悩んだりしたことはありませんでしたか?
池田 つらかったのは、先生が注意してくださることと、自分が考えていることや思っていることがすごく違っていた時です。私がまだ精神的に幼くて、自分を抑えられず先生に反抗してしまったこともあったけど、そんな時でも「注意してくださるのは私が上手になるためだ」と、ちゃんとわかっていました。「バレエってこんなに大変なんや」と思うことは、本当に何回もありました。でも「やめたい」とは一度も思いませんでした。

オーストラリアに留学して

初めてバレエで海外に出たのはいつですか?
池田 13歳のとき、ユース・アメリカ・グランプリ(YAGP)のニューヨークファイナルに出場したのが最初です。そのファイナルが4月で、そこで短期スカラーシップをいただき、同年9月にオーストラリア・バレエ・スクールへ2週間ほど行きました。その時にさらに年間スカラーシップをいただいて、翌年1月から14歳でスクールに入学しました。

留学1年目(5年生)。11月の試験のあとに先生&同級生たちと

十代前半での海外留学は、近年ではもうめずらしいことではありませんが、それでも不安だったり怖いと思ったりすることはなかったのでしょうか?
池田  私はむしろ、「早く日本から離れてどこかに行きたい」という気持ちのほうが大きかったです。先ほど言ったように、ちょっと反抗期的な年頃でもあったので……。2週間の短期留学では今まで経験したことのないようなレッスンをたくさん受けられて、「ここに留学すればこんなレッスンを毎日受けられるんだ!」と思ったら、もう夢のようでした。もっと長く留学したいという気持ちがさらに強くなりました。
オーストラリアでのレッスンは、どういうところが「これまでと違うな」と感じたのでしょう?
池田 いろいろな先生に教わったのですが、1人目の先生はとにかく基礎中心。説明が本当に全部わかりやすくて、ただタンデュをするだけで10個ぐらい注意をしていただけたんです。自分が今までやってきたタンデュが、すべてゼロからやり直しという感じ。「この新しいやり方を早くできるようになりたい!」と思いました。もう一人の先生は、カースティ・マーティンというブノワ賞を獲った方でした。レッスン中、お手本も全部彼女がやって見せてくれたのですが、もうあまりにも綺麗で、美人で……そんな人を生で見たことがなかったから、レッスンするというより見とれていました。
14歳で留学したということは、オーストラリア・バレエ・スクールでは5年生になりますね?
池田 はい、5年生のクラスに入りました。最初は英語も「ハロー」くらいしかわからなくて、つらく感じたことも多少はあったのですが、でもスクールの人たちはみんな親切でしたし、日本人の五十嵐脩くんとかもいたし、1年目からとても楽しかったです。

留学2年目(6年生)。5月のコンテンポラリーの試験のあとにみんなでパチリ

留学生活は忙しいですか?
池田 学科の勉強のほうもあるのでかなり忙しいです。学科の授業は7年生で終わりなのですが、6年生の時とかはずっと勉強。土日は寮にこもりっきりで、ひたすら宿題をする日々でした。全部英語なので余計に難しいし、同じ学年に日本人がいたら助け合えるけど、私の学年は他に日本人がいなかったから大変でしたね。
あと、試験や公演もあります。試験は年に2回、5月と11月に。公演は、5年生と6年生は9月と12月に。ただ、私は5年生の時、ビザの関係で2学期、3学期は通えなかったんですね。だから結局11月の試験と、12月の公演だけしか出ていなくて。また留学2年目の6年生の時は、10月頃に怪我をしてしまった。だから試験も公演も出られませんでした。
そして7年生と8年生になると、5月にも舞台があります。それには、私が7年生の時は出たのですが、その後また8月に怪我をしてしまい……続く9月と12月の公演と試験には、まだ出ることができませんでした。
こんなふうに、学校自体は試験もパフォーマンスも多いのですが、私自身は意外とあまり参加できていないんです。
留学して、何がいちばん自分を成長させてくれたなと思いますか?
池田 バレエのスキルが上がったことや、英語を学べたこと。怪我などのつらい経験をして、メンタル面もすごく強くなりました。そして日本を出たことによって、自分の意見をしっかり持ち、それをオープンにできるようになったことも大きいと思います。それが“自分らしい踊り”につながっていると感じるので。私は、日本にいた頃は、わりと淡々と身体を動かして踊っていただけという気がするんです。でもオーストラリアに渡って、自分の気持ちを外に出すことができるようになった。それが、踊りに気持ちを込めることにもすごくつながっているように感じます。

6年生。キャラクターの試験の時の1枚

6年生の9月のパフォーマンスで「Heart Strings」という作品を一緒に踊ったみんなと

怪我、そしてパンデミック

先程から何度かお話に出ましたが、池田さんは留学期間に2度の怪我に見舞われたのですね。
池田 はい、疲労骨折をしました。1回目は留学2年目の、6年生の時。その時は2ヵ月くらい松葉杖生活で、歩くのも難しい状態でした。でもさらに悪かったのは、その約10ヵ月後に、また同じところを骨折してしまったこと。この2回目のほうが治りも遅かったです。
怪我で踊れなかった時は、どのような気持ちでしたか?
池田 1回目の時は意外と一番下まで落ち込むことはなく、「早く治して早く踊ろう」って、結構ポジティブな感じでいられました。レッスンがまったくできないぶん、ピラティスやジムでトレーニングをして、身体は一日中動かしていましたし。レッスンができない時に身体を保つ方法をいろいろ学べたのは収穫でした。コロナで自粛している間も、この時に得た知識がとても役立ちましたね。
でも2回目は、つらかったです。まさかもう1回折れているとは思わなかったし、間もなく本番を迎えるパフォーマンスに向けて、一生懸命練習していた最中だったので。自分にとって本当に大事な時期なのに、「なぜ今なの?」って。思うように治っていかないし、やる気もなくしました。気持ちのアップダウンが激しくなって、夕食を食べている時に気付いたら涙が出てる、みたいなこともありました。
それは本当につらかったですね。
池田 でも寮で暮らしていたおかげで、とても救われました。脩くんはじめ周りの友達が、いつも励ましたり支えたりしてくれたので。
この2回の怪我は、私にとってのターニングポイントになりました。どんな小さなことでも、物事の見方や捉え方が、怪我する前とした後とでは、別人ぐらいに変わった気がします。一つひとつのことに対して、深く考えるようになりました。当たり前と思っていることは、当たり前じゃない。「踊れること」も「歩けること」も、ぜんぜん当たり前じゃない。だから怪我を克服して、また踊れる場所に戻って来られた時の気持ちは、いまでも忘れられません。幸せや嬉しさが爆発して、それを踊りにも丸ごと出せるようになったように思います。
本当に嬉しかったんですね。
池田 嬉しかったです。1秒1秒、幸せをかみしめながら踊るような感じでした。

7年生の5月、怪我から復帰して初めて舞台で踊った時に撮った1枚

ダンサーにとってそれほどまでに大切な「踊る場所」。それが、このコロナで閉鎖されてしまいました。オーストラリアでも厳格なロックダウンがなされましたが、池田さんにはその時どのようなことが起こりましたか?
池田 卒業学年がスタートして3ヵ月ほど経った頃でした。最初は、もともと4月に2週間予定されていたイースターホリデーがさらに1週間延長されるというアナウンスだったんです。だから私も「ああ、休暇がいつもより長くなるんだな」というくらいの認識だったのですが、休みに入って1週目の時点でいきなり、次の学期が全部なくなると知らされました。その時に寮に残っていたのはほぼ日本人留学生だけだったのですが、学校から「もう寮を閉鎖するので日本に帰ったほうがいい」とアドバイスされて。私は、本当はそのまま残りたかった。でも住むところもないので帰国しました。それが3月末のことです。
その時、他の日本人のみなさんはどういう反応でしたか?
池田 日本人留学生は、私の学年は私1人で、下の学年に何人かいるのですが、まだ1年目の子たちなどは「もう早く帰りたい、家族に会いたい」という感じでした。私は逆で、帰国しなくてはいけないのがすごく悲しかったです。
とくにどんなことが悲しかったのでしょうか?
池田 2学期にはスクールパフォーマンスがあって、私はそれをすごく楽しみにしていたので。その公演はカンパニーのディレクターが観に来て、気に入った子をカンパニーに入れたりすることもあるんです。だからそのパフォーマンスに向けて一生懸命頑張ろうとしていた矢先になくなってしまったのが、まず悲しいし、悔しかったです。自分は日本に帰りたくないのに、帰らなくちゃいけない。自分にはコントロールできないことがいっぱいあって、手に負えないという感じでした。
スクールは現在(取材は9月下旬)どのような状況ですか?
池田 7月くらいに一度学校が再開して、現地にいる子たちは戻ることができました。でもその後2回目のロックダウンがなされて、また学校もなくなって。いまみんなはZoomでクラスを受けています。私は休学みたいな扱いになっているので、そのクラスも受けられていません。国境が開いて、オーストラリアに戻れるようになったら、すぐに戻るつもりでいます。
コロナ禍ではみんながいろいろな気持ちを経験していると思います。池田さんは、こうした状況のなかで心が折れそうになったりしたことは?
池田 2学期がなくなると聞いた瞬間は、衝撃とかいろいろな感情が混ざって、すごく焦りました。「これからどうなるんやろ」って。でも、4月から7月までは私も学校のZoomクラスを受けられていて、それがけっこう忙しかったんですね。クラスレッスンだけでなく怪我防止のためのトレーニングとか、30分間走ったりする体力系や筋トレ系、あとは5月と9月のパフォーマンスに向けてみんなで振付をマークする時間まであって。それらを受けている間は、家のなかであっても踊れることが幸せだと感じていました。そして何となく、「7月頃にはオーストラリアに戻れるだろう」と思っていました。だから「それまではとにかく、いまできることをやろう」という前向きな気持ちで過ごしていたんです。
でも、現実は違っていました。いまだに、いつ戻れるかわからない状況です。先が見えなくなってきた時にはやはり落ち込んで、何もしたくなくなってしまいました。

そこからどうやって気持ちを立て直したのですか?
池田 「いちど、バレエから離れてみよう」と思いました。それで「絶対にバレエに関することはしない」と決めて、1週間ほど過ごしてみたんです。そしたら、3日目くらいでもう、ものすごく踊りたくなって……。でも1週間って決めていたから、1週間は何もせずに過ごした後、またバレエの毎日に戻りました。
戻ってみてどうでしたか?
池田 状況は全然違うけど、怪我して戻ってきた時と、同じような気持ちになれました。踊れるということが、やっぱり、すごく嬉しかったです。
そうした状況のなかで池田さんたちが立ち上がり生まれた「SPOTLIGHT」プロジェクト、このステージにかける思いを聞かせてください!
池田 今、この状況の中でまず踊れること、そしてみんなでひとつの舞台を作れることが、ただただ嬉しいです。そういうさまざまな感情や、バレエに対する情熱などを踊りに込めて表現できたらと思っています。
最後に、これからの夢や目標があれば聞かせてください。
池田 今の目標は、海外のバレエ団に就職することです。夢はダンサーとしても、人としても、輝いている人になりたいです。

\池田紗弥さんに質問!今回のステージでは何を踊る?!/
『海賊』からオダリスクの第1ヴァリエーションと、『パキータ』のヴァリエーションを踊らせていただきます。

オダリスクは奴隷の踊り。嬉しいとか幸せといったシンプルな感情だけではなく、自分を美しく見せなければいけない立場の役でもあります。ブリゼなど素早い足さばきがとても難しいのですが、そこを余裕の表情でこなせるようにがんばります!

『パキータ』は、ゆったりとした音楽がとても素敵なソロを踊ります。最初から最後までずっとコントロールしておかないといけない難しい曲。でも私はこのソロで求められるような、上半身をたっぷり使って表現する踊りが好きなので、綺麗なラインを出して踊れたらと思っています。

\SPOTLIGHTダンサーズに質問! 池田紗弥さんの踊りの魅力とは?!/

紗弥ちゃんの踊りの魅力をひと言で言うなら、ムーヴメント・クオリティがとても高い。特徴的な手の使い方をするのですが、それが本当に素敵なんです。あの指先のふわりとした抜け感や、手元の動線の美しさ。表現者として優れたダンサーです。(五十嵐脩)

配信情報

「SPOTLIGHT 私たちは踊りたい〜若きバレエダンサーたちのステージ&ドキュメンタリー」

●配信期間:2020年10月18日(日)20時 〜 2020年12月31日(木)23時59分
※配信される映像はアーカイブ視聴が可能です。視聴券の購入により、いつでも、何回でもご覧いただけます。

●視聴チケット発売日(有料 1,500円):2020年10月8日(木)
購入はこちら

●主催・制作・お問合せ:〈バレエチャンネル〉編集部
Email:info@balletchannel.jp
Tel:070-4035-1905

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