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【特別コラム】アシュトンとマクミラン〜英国のバレエを築いた二人の振付家、その作品の特徴とは?[解説:長野由紀]

バレエチャンネル

英国バレエを代表する振付家として並び称される【フレデリック・アシュトン】【ケネス・マクミラン】
バレエ史に名を刻むあまりにも有名な巨匠振付家の二人について、それぞれどんな振付家なのか? ふたりの振付にはどんな特徴があるのか? それぞれの見どころは?……等々、基礎知識から少しディープなお話まで、バレエ評論家の長野由紀さんに解説していただきました。

取材:若松圭子(バレエチャンネル編集部)
構成・文:阿部さや子(バレエチャンネル編集長)

◆◇◆

アシュトンとマクミランが活躍した時代はいつ? それぞれの生い立ちや人となりは?

フレデリック・アシュトン Frederick Ashton(1904-1988)
南米エクアドル生まれ。1935年、ニネット・ド・ヴァロワ率いるヴィック・ウェルズ・バレエ(現在の英国ロイヤル・バレエ)に加わり、振付家として数々の作品を発表。1963〜1970年ロイヤル・バレエの芸術監督を務めた。
ケネス・マクミラン Kenneth MacMillan(1929-1992)
スコットランド生まれ。サドラーズ・ウェルズ・バレエ(現在の英国ロイヤル・バレエ)に入団し、将来を嘱望されていたが、舞台恐怖症になり振付に専念するようになる。1966〜1969年ベルリン・ドイツ・オペラ・バレエ芸術監督、1970〜1977年英国ロイヤル・バレエ芸術監督。
アシュトンとマクミランはどちらも20世紀を生きた振付家ですが、ふたりの間には25歳ほど年齢差があったわけですね。
長野 英国バレエの基礎を築いたのは、1931年の英国ロイヤル・バレエ創設からほどなくして入団したアシュトンだと言われています。ただ、彼ひとりでは、現在のようにドラマティック・バレエを中心とした英国バレエは成立しなかったと思います。アシュトンと正反対とまではいかなくともかなり対照的な個性を持つマクミランが次世代として現れて、それぞれの作品が互いに相照らすようにして人間の表も裏も描き出してきた。それによって英国のバレエはいかにもシェイクスピアの国らしい高い演劇性を育んできたと言えます。
それぞれの作品、振付の特徴については後ほどくわしく伺うとして、最初にふたりの人物像について。まずアシュトンは、英国ではなく南米出身なのですね?
長野 そうなんですよ。典型的なイギリス紳士のような雰囲気を持っていますけれど、じつは、父親の仕事の都合で南米エクアドルに生まれ、その地で少年時代を過ごしました。隣国のペルーでたまたまアンナ・パヴロワを観てバレエに憧れるようになり、10代後半でロンドンに戻ってきてから、親の目を盗んでこっそりバレエを習い始めたと。とても社交家で、王室やいわゆるセレブとの交友関係も華やかでした
10代後半でバレエを始めたというのは、プロになるには遅めのスタートですね?
長野 アシュトン自身、表現者になりたいという夢を持っていたけれども、バレエを始めるのが遅かったために、ダンサーになるのは難しいと自覚していたようです。そんな中、彼はロイヤル・バレエ創設者のニネット・ド・ヴァロワのライバル的な存在だったマリー・ランベールという人のもとで活動を始めるのですが、このランベールは、才能ある振付家を見抜くのが得意だった。彼女はアシュトンに出会うとすぐにその才に気づき、彼に振付家になるよう勧めたと言われています。
マクミランはどんな人だったのでしょうか?
長野 生い立ちや性格という面では、アシュトンとマクミランはまったく対照的です。アシュトンが中産階級の上寄りの家庭で育ったのに対して、マクミランはスコットランドの非常に貧しい家庭に生まれ、母親を早くに亡くしてしまうという、不遇な少年時代を過ごしました。でもアシュトンがパヴロワに憧れたように、マクミランは映画館で見たフレッド・アステアのタップに憧れたんですね。地元のバレエ教室に通い始めたところ、すぐ先生の目に留まって無料で教えてもらえることになり、それから2年も経たないうちにサドラーズ・ウェルズ・バレエ・スクール(現在のロイヤル・バレエ・スクール)に奨学生として入学……という経歴。プロになってからも彼はダンスール・ノーブルとして将来を見込まれていました。
写真を見ても、ハンサムでシュッとしていて少し影があって……本当に素敵なダンサーだったのでしょうね。
長野 ところが、元々の性格もあったのでしょう、マクミランは舞台恐怖症に苦しむようになってしまいました。踊ることができなくなって落ち込んでいたマクミランを励ましたのが、当時サドラーズ・ウェルズ・バレエにいたジョン・クランコ(*)です。クランコはマクミランに、「僕がやっているグループ公演で振付をしてみないか?」と。それが突破口になって、マクミランは再びバレエの中に身を置けるようになり、振付家の道を歩むことになりました。
*ジョン・クランコ=南アフリカ出身の英国人振付家。サドラーズ・ウェルズ・バレエで活躍後、1961年シュツットガルト・バレエの芸術監督に就任。同団を瞬く間に世界一流のカンパニーに押し上げた。1973年、北米公演から帰る飛行機の中で、45歳の若さで急逝。

アシュトン作品の特徴とは?

いきなりズバリ伺いますが、アシュトン作品の特徴とはどんなことでしょうか?
長野 アシュトン作品でまず目を引くのは、すばやくてクリーンなフットワークや、上体にひねりを効かせた立体的なポジションといった動きの面でしょう。軽やかで心躍るステップ。大きくて豊かな上体の使い方はとてもエレガントで柔らかいのだけど、ちゃんと拍に収まっていくようなリズム感があります。また、つねにエポールマン(腰の位置は変えずに、上体をひねるようにして立体的に見せること)をきちっ、きちっと見せていくのも、アシュトンならではの美しさ。このように、彼の振付には「アシュトン・スタイル」と言うべき明確な特徴があります。
確かにアシュトンの作品を見ると、ステップがきびきびとして小気味よく、上半身の動きは大きいけれども節度があって、とても上品な印象があります。
長野 でもアシュトンの魅力は、もちろんそれだけではありません。例えば代表作の『シンデレラ』にしても、単なるフェアリーテイルではなくて、大人の私たちが観ても胸が熱くなるようなドラマがあります。つまり、テクニカルな振付のなかに繊細な感性が濃やかに織り込まれていて、観れば観るほどじわりと心に沁みてくる
それはすごくわかります! 『リーズの結婚』などもまさにそういう作品ですね。
長野 『リーズの結婚』は軽やかなコメディ・バレエで、観ていると心の中の暗いものがすっと消えていくような作品ですが、後半でリーズがコーラスとの結婚生活を夢見ている場面のマイムなどは、本当にほろりとさせてくれます。そして若い二人の結婚で華やかに盛り上がった後、最後の最後にアランがお気に入りの赤い傘を探しにくるエピソードが描かれる。登場人物の全員がハッピーエンド、観ている私たちも幸せになる、まさに傑作です。いわゆる「ドラマティック・バレエ」というとマクミランが思い浮かびますが、こうしたさりげないウィットがそこかしこに隠れているアシュトン作品もまた、とても演劇的だと言えます。
そのいっぽうで、例えば9月3日・4日に小林紀子バレエ・シアターが上演する『レ・パティヌール(スケートをする人々)』のように、アシュトンは明確なストーリーを持たない作品も振付けていますね。
長野 『レ・パティヌール』も、とてもアシュトンらしい作品だと思います。少し話が横道に逸れますけれど、アシュトンは非常にモノマネが上手な人だったんですね。彼が馬車に乗ったヴィクトリア女王のコスプレをしている有名な写真があるのですが、これが本当にそっくりなんです。つまり、アシュトンは人間に対する観察力が優れていた。細かいところまで本当によく観察していて、それを鮮やかに表現して本質をついてくるようなところがあったわけです。その観察力が生み出した作品とも言えるのが、『レ・パティヌール』ではないかと。

小林紀子バレエ・シアター『レ・パティヌール』(2019年上演) 撮影:上野能孝

確かに、ダンサーたちがトウシューズやバレエシューズでスイスイ床を滑っていく振付は、スケートの動きの特徴をみごとに捉えていてすごくおもしろいです。
長野 19世紀の終わりから20世紀の初め頃にかけて、上流階級の間では冬になると屋外のスケート場で遊ぶのが流行っていました。『レ・パティヌール』はその古き良き時代を振付家自身がうっとりと思い出しているような、ノスタルジックな雰囲気の作品ですよね。凍った池のまわりに柵を立てて、ランタンを下げて……と、おしゃれで少し古風なムードの舞台。そこにダンサーたちがスケートの真似をしながら入ってきて、テクニカルな踊りを披露して、また次の人が違う趣向の踊りを見せていく。スケート場で若者たちが恋を育む光景を小ぢんまりと描いているのも、いかにもアシュトンらしいと感じます。
ほっこり温かくて、おしゃれで、ちょっぴりノスタルジック。アシュトンの作品にはそういう持ち味があるのですね。先ほど、動きの面での特徴として「軽やかなフットワークや立体的な上体」といったお話がありましたが、「これぞアシュトンの振付!」というトレードマークみたいなステップやポーズってありますか?
長野 いわゆる「フレッド・ステップ」がまさにそれでしょう。フレッドはフレデリックの愛称で、〈アラベスク、プリエ、クぺ、デヴェロッペ、パ・ド・ブーレ、パ・ド・シャ〉を流れるように組み合わせたステップです。どのアシュトン作品を観ても、このフレッド・ステップがどこかしらに出てきます。例えば『シンデレラ』なら、シンデレラも、ダンス教師も、義理のお姉さんたちも、このステップを踏んでいます。ただ、同じステップなのに、キャラクターによって醸し出される味わいがまったく違う。シンデレラは軽やかだし、ダンス教師はちょっと素っ頓狂、お姉さんはドタバタ、というふうに。アラベスクもプリエもデヴェロッペもパ・ド・シャも、フレッド・ステップを構成しているパはどれもごく基本的なものなのに、組み合わせるとこんなにも印象的でマジカルなものになる。まさに、アシュトンの紋章のようなステップだと思います。

英国ロイヤル・バレエ公式YouTubeより「フレッド・ステップ」の説明動画

マクミラン作品の特徴とは?

いっぽう、マクミランの作品といえば『ロミオとジュリエット』や『マノン』であり、「ドラマティック」というキーワードがパッと思い浮かびます。
長野 バレエを全く知らない人が観たとしても「ドラマティックだ」と感じるのが、マクミランの作品ですよね。アクロバティックなリフトや大胆なパートナリングが印象的に使われた振付は、それ自体がもう魅力的なのですが、その振付を通して何が見えてくるかというと、強く激しい感情であったり、感情のうねりであったり、思いもかけない心の変化であったり、ということだと思うんですね。そして全幕を踊りきる中で、その主人公の人生のすべてが見えてくる。それこそがマクミラン作品の一番の魅力だと思います。逆に言えば、その人が演じている役の内面性とか生身の感情が出てこないと、説得力を欠いてしまう。それがマクミランの振付だとも言えるでしょう。
つまり、ダンサーからすると、自分自身から真実の感情なり何なりを振付に注ぎ込めなければ作品が成立しないという……。技術的なことなら練習によって克服できそうですけれど、そういう「踊り手の内面が問われる」的な作品こそ、本当に難しそうです。
長野 難しいだろうと思います。でも、アシュトンやマクミランの本家であり、こうしたドラマティックなレパートリーを踊り込んでいる英国ロイヤル・バレエのダンサーたちを見ると、じつに演技が巧いですよね。例えば『ロミオとジュリエット』でも、メインキャラクターたちだけでなく、ヴェローナの街の一人ひとりまで、本当に全員が映画のようにリアルな演技をしています。そして第3幕、ジュリエットと両親とのやりとりや、彼女がただじっとベッドに座っている有名な場面などは、もはや誰も踊っていないのに、みっちり濃厚なドラマが舞台を満たすんです。
さすが演劇の国のバレエです……。いっぽうで、マクミランもストーリーのない作品――例えば『コンチェルト』とか、同じく小林紀子バレエ・シアターがこの9月に日本初演する『ザ・フォーシーズンズ』といった、いわゆるドラマティック・バレエではない作品も作っていますね。そうした作品にも、マクミランの特徴みたいなものがあるのでしょうか?
長野 少し抽象的な言い方かもしれませんが、マクミラン作品の登場人物には「体重」があるのだと思います。つまり、目の前で踊っているその人はファンタジーでも抽象的な存在でもなく、確かな重みを持った人間であると、はっきり感じることが多いんですね。比較すると、アシュトンの振付には、重力の法則から自由になったバレエの技法の美しさ=夢の世界という面があります。それに対してマクミランの振付は、重力に身を任せてフッとオフバランスに落ちたり、パ・ド・ドゥで二人が絡みあったり、女性が男性に飛びついたり、放り投げられたりといった動きに特徴がある。しかもそれが単なるテクニックとしてではなくて、その人物の感情と連動したものとして表現されます。『コンチェルト』や『ザ・フォーシーズンズ』のような作品でも、やはり音楽のもつ重みやダンサーの感情の質量みたいなものが、動きから流れ出てくるように感じられるんですよ。
人間としての重みを感じさせる振付……『ロミオとジュリエット』や『マノン』を思い浮かべると、すごくわかる気がします。
長野 例えば『ロミオとジュリエット』の墓所のパ・ド・ドゥなどは、マクミラン作品の中でも最高傑作の場面のひとつだと思いますが、まさにジュリエットの身体の物理的な重みがそのまま伝わってくる振付ですよね。どんなに呼びかけても応えてはくれないジュリエットを高々とリフトすると、その重みがロミオの上にドサッとくる。それを観た瞬間、バレリーナが演じているその役は生身の人間なのだということを、私たちは強く感じるわけです。

アシュトンとマクミラン、ふたりの「共通点」とは?

生い立ち、人となり、振付や作品の持ち味……さまざまな面において、アシュトンとマクミランは対照的だということがわかりました。
長野 そうですね。ただ、対照的ではあるけれど、じつはその根は同じだと思うんですよ。
と言いますと?!
長野 アシュトンもマクミランも、その振付の原点には「人間観察」があります。そこがふたりの決定的な共通点であり、彼らのバレエが演劇的と言われるゆえんではないかと。
人間観察! 先ほどアシュトンの観察力についてのお話がありましたが、マクミランもやはり「観察する人」だったと。
長野 アシュトンは先ほどのモノマネのエピソードのように、人や物事の特徴を見抜いてその本質を抽出し、表現としてかたちにする能力に秀でていました。いっぽうマクミランの人間観察がどうであったかというと、例えばバレエ団の女性ダンサーが妊娠した時、一番に気づくのがマクミランだったそうです。そういう、理屈では言い表せない本能的な発露や、他の誰にもわからないくらいわずかな変化をも見て取るのが、マクミランの特質なんですね。
ふたりとも鋭く人間を観察していたけれども、人間の何を観察しているのかが違っていた。それが作風の違いにも表れているわけですね。
長野 すべてが二元論的に割りきれるわけではありませんが、あえて分かりやすく言うと、アシュトンは優雅に時間が流れる美しい田舎がとても好きだったんですね。そして現実の世の中を正面から見据えるというよりも、むしろ古き良き時代へのノスタルジーや憧れを含んだ気持ちで作品を作りました。かたやマクミランが見ていたのは大都会。それは最先端のおしゃれな街という意味ではなく、さまざまな人間が集まり、欲望や絶望がうごめく場所としての都市であり、その闇の部分をすくい上げるようにして作品を作っていきました。つまり、誰もが憧れる社会の上澄みみたいな世界を愛したのがアシュトンで、人間の悩みが凝縮された、社会の澱(おり)みたいな世界にこだわったのがマクミランだという言い方もできるかもしれませんね。
なるほど……。冒頭で長野さんがおっしゃった、「それぞれの作品がお互いを相照らすようにして人間の表も裏も描き出してきた。それによって英国のバレエはいかにもシェイクスピアの国らしい高い演劇性を育んできた」という言葉。その意味が、今はっきりと理解できた気がします。
長野 アシュトンにとって、人生とは「憧れ」だった。でもマクミランにとってのそれは、「幻滅」や「苦悩」だったのではないでしょうか。バレエによって自分の憧れのすべてを形にしようとしたアシュトンと、バレエを通して人間が抱く闇の部分までも掘り起こし、えぐり出したいと考えたマクミラン。この両者の作品がそこにあるからこそ、英国のバレエは世界中のダンサーや私たち観客を惹きつけてやまないのではないでしょうか。

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