撮影:鹿摩隆司 提供:新国立劇場
太陽王ルイ14世時代のパリ・オペラ座に存在した仕事、ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代のダンサーや裏方スタッフのお給料事情……いつもマニアックすぎる知識を授けてくれる研究者・永井玉藻さんの専門は、西洋音楽史。
今回は、バレエ公演を舞台下のオーケストラピットから支えているオーケストラの楽団員に玉藻さんがお話を聞いた、特別インタビュー編をお届けします!
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「バレエチャンネル」読者のみなさんは、「ヴィオラ」という楽器をご存じでしょうか。オーケストラでは、ヴァイオリンよりも低く、チェロよりも高い音域を担当している弦楽器です。もしかすると、「《ジゼル》第2幕のパ・ド・ドゥで聴こえてくる旋律を演奏している楽器」というほうが、わかりやすいかもしれません。
そのヴィオラを演奏されている須藤三千代さんは、日本で最も古い歴史を持つオーケストラである東京フィルハーモニー交響楽団のヴィオラ首席奏者として、新国立劇場バレエ団の公演や、世界バレエフェスティバルなど、数多くのバレエ公演での演奏を行ってきました。じつは「大人リーナ」のお一人でもある須藤さん、バレエを習うことで演奏にもとても良い影響があったのだとか。今回は連載特別編として、須藤さんとバレエとの出会い、世界バレエフェスティバルでの素敵なダンサーたち、指揮者のこと、バレエ音楽のことなど、たくさんのバレエ愛溢れるお話を伺いました。
須藤三千代さん ©︎三好英輔
永井 クラシック音楽の演奏家にとって、バレエは近いようで遠い存在です。バレエの楽曲はいくつか知っていても、バレエの公演を見たことはない、という演奏家が比較的多い中で、ヴィオラ奏者の須藤さんは、バレエとどのように出会ったのですか。
須藤 もともとはまったく縁がなかったものだったんです。周りにバレエをやっている子もいませんでしたし、舞台といったらオペラ、という環境でしたから。ですので、初めてバレエを観たのは、ドイツのハンブルクでのこと(注:須藤さんは東京芸術大学卒業後、政府交換留学生としてハンブルク国立音楽大学に留学し、在学中からハンブルク国立歌劇場で演奏していた)。最初に演奏したバレエも、ジョン・ノイマイヤー振付のもので、シュニトケの音楽を使った《ペール・ギュント》とか、マーラーの《交響曲第5番》とか。そこで、「バレエって演劇的で面白いな、とても鋭いものだな」と思いました。そのインパクトは相当強かったですね。
永井 日本だと、最初に見るバレエは《くるみ割り人形》や《白鳥の湖》などの、古典作品であることが多いですよね。ノイマイヤー作品によってバレエを知る、というのは、まれな出会いなのではないでしょうか。
須藤 ハンブルクには7年ほどいたのですが、いわゆる「古典」の作品は、《眠れる森の美女》と《くるみ割り人形》しかやりませんでした。そうした作品をたくさん弾き始めたのは、東京フィルハーモニー交響楽団に入団してからのことなんです。
1991年に東京フィルの入団オーディションを受けることになり、その夏に日本に帰国したら、「せっかくだからエキストラで出て欲しい」と言われました。じつはそれは、第6回の世界バレエフェスティバルだったんです。
一流のダンサーたちが、それぞれの得意なところをダイジェストでやるわけですよね。「これ、すごい人たちの集まりだな」という、これまた強烈な印象を受けました。91年には、当時ハンブルク・バレエ団のダンサーだったジジ・ハイアットとイヴァン・リスカが出演していたので、彼らに会いに行って話をするのも楽しかった。
そうしたバックステージでの交流もあり、それ以降、世界バレエフェスティバルでは今までずっと、ヴィオラ首席奏者として演奏し続けてきました。それがきっかけで、最終的には自分もバレエを習いにいくようになった、という感じです。
永井 2021年の世界バレエフェスティバルでも演奏されていましたよね!東京フィルはバレエ公演での演奏機会も多いオーケストラですが、バレエならではの演奏の特徴や難しさは、どのようなところにありますか?
須藤 同じ舞台ものでも、オペラの場合は舞台上の歌手の声がピットの中にも聴こえて来ます。だから、タイミングや声の質などにこちらの演奏を合わせることができる。でもバレエの場合、ダンサーの踊りを見ながら演奏することは絶対にできないんですよ。オーケストラ・ピットの中からは舞台上がまったく見えないので。ですから、指揮者にぴったり合わせていくことが求められますし、私たちオーケストラ奏者にとっては、指揮者がちゃんと踊りも音楽も把握していることが重要です。
またバレエの演奏では、音楽的な流れとは無関係に止まるとか、お客様の拍手が来るから待つ、といった約束ごとがありますよね。それに対応するのは、バレエの演奏に慣れていないとできない、職人技なんです。もちろん、音楽それ自体は、ほぼ初見で弾けるものですけれど、踊りが止まるところやタイミングがわかっていないとダメで、初めて経験する奏者にとっては本当に怖いですよ。オペラと違って聴いて合わせることはできないので、バレエの演奏にはそういう難しさがありますね。
永井 確かに、舞台上の様子がまったく見えないにも関わらず、その舞台上でそのとき起こっていることに、70人近くの演奏者が合わせて演奏する、というのは至難の業ですね……。
須藤 見ながらであれば、足の運びとか、ダンサーさんのその日の体調などに演奏を合わせることができますけれど、頑張ってピットの壁ぎわに寄ったとしても、立ってやっと見えるかどうか、というくらいですから。そこはもどかしいですね。ですので、やっぱり指揮者が舞台上のこともピットの中のことも把握しているかどうか、ということが重要になります。
これまでご一緒した指揮者の方では、新国立劇場によくいらしていたヴィクトル・フェドートフさんが素晴らしかったと思います。彼は踊りも完璧に頭の中に入っていたし、しかも音楽的な流れを作れる指揮者でした。
また、アレクセイ・バクランさんも公演が楽しみな指揮者の一人です。バレエ音楽では、オーケストラの第2ヴァイオリンやヴィオラといったパートは、ひたすら拍を刻むだけのことが多くて、たとえて言うなら、時々、自分が今演奏しているのが《海賊》なのか《ドン・キホーテ》なのか、分からなくなりそうな気持ちになる時があるんです(笑)。でもあるときバクランさんが、「その刻みが、ダンサーの跳躍の力になるんですよ」と言っていて。「これが大事なのか」と思うと音楽が生き生きしてきますし、面白いですよね。バレエ音楽の演奏は本当に楽しいです。
新国立劇場で演奏中の東京フィルハーモニー交響楽団。指揮はアレクセイ・バクラン 撮影:鹿摩隆司 提供:新国立劇場
永井 オーケストラ曲やオペラの演奏とはまた違う魅力ですね。
須藤 でも、ピットの中で演奏しながら、ダンサーの空気感を感じることもあるんですよ。ピットにいても、遠くにいても、空間が一瞬、ふわっと変わるのが分かるんです。
それを最初に感じたのが、世界バレエフェスティバルでパトリック・デュポンが踊ったとき。実際にはほんの少しの瞬間だったのでしょうけれど、彼が跳躍した先で何かが起こった、というのがわかって、驚きました。そういう瞬間って、素晴らしいダンサーが踊ると必ずあるんです。ユーディ・メニューイン(注:1916〜1999、アメリカのヴァイオリニスト。20世紀の最も偉大なヴァイオリン奏者の一人と言われる)も「空気を味方につけろ」と著書で書いていますが、いかに空間を満たすか、というのは、音楽家もダンサーも同じなのではないでしょうか。
永井 先ほど、須藤さんはバレエを習っている、とおっしゃっていましたが、実際に自分が踊ることで、バレエに対する意識や演奏の仕方が変わることはありますか?
須藤 まず、作品や体の使い方を少しでも知ると、見えない舞台上のイメージをもっと具体的に持つことができるので、さらに演奏が楽しくなりますよね。また、演奏上でもバレエから学ぶことは非常に多いです。体の使い方や腕の意識の仕方とか。
永井 以前、須藤さんとお話しした際に、「バレエを習い始めたら背中の使い方が変わった」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。
須藤 背中は変わりましたね。あと、腕の意識の仕方。楽器だけをやっていると、どこからが腕か、といったことは分からないですよね。教えてくださる先生が良ければ、そういう意識を生徒にも持たせることができますが、体の使い方まで言える方はなかなかいらっしゃらない。それでみなさん苦労をされて、体を壊される方も多いんです。
いっぽう、バレエの先生は「腕を支えるのはここ」とか、具体的に仰ってくださる。そうすると、弦楽器を持った時に、腕や体のことが分かってくるんです。私はバレエを習い始めて、ボウイング(右手で持つ弓の使い方)が本当に変わりました。
オーケストラリハーサル中の須藤さん 写真提供:東京フィルハーモニー交響楽団
永井 では、その須藤さんにとって最も印象的なバレエ音楽は何でしょうか。
須藤 やっぱり《ジゼル》ですね。第2幕のパ・ド・ドゥはヴィオラのソロがありますので、バレエフェスティバルなどでは自分がソロを弾く曲、という意識があります。
他のバレエ音楽は、我々ヴィオラが活躍することはそれほどないんですよ。《コッペリア》でちょっぴりありますけれど、音楽的に難しいわけでもない。ですので、《ジゼル》でヴィオラの独奏が出てくるのはとても深い印象がありますし、ヴィオラで良かったと思う。
永井 バレエの古典作品での弦楽器ソロは、ヴァイオリンが多いですね。一方、ヴィオラは旋律線を支える役割が多いですから、短いものとはいえ、ヴィオラが独奏パートを担うのは珍しいことです。テクニックを誇示するようなソロではないのに、楽器の魅力が最大限に引き出されています。
須藤 奏者から作曲家に対して、「ヴィオラはこう使うといいよ」というアドバイスがあったのかもしれないですね。音が非常に鳴りやすく、きちんと楽器の全部の音域を使っている。ヴィオラの良さを出せる書き方をしています。あのような書き方だと、音色を作って音楽を伝えられる感じがします。その直前まではにぎやかに演奏しているのに、急に「ぼうっ」とヴィオラ・ソロが始まるので、この世界は何だろう、と思わせる効果がとてもあると思いますよ。あの場面は現実の世界に行ってはいけない、暗い森の中ですし。
永井 《ジゼル》のパ・ド・ドゥで、思い出に残る舞台はありますか?
須藤 2015年の第14回世界バレエフェスティバルのガラ・パフォーマンスで、アリーナ・コジョカルとヨハン・コボーが踊ったときです。パ・ド・ドゥの後半に、ジゼルがアルブレヒトにリフトされながら移動する箇所がありますが、そのときもまさに、先ほどお話しした「ダンサーの空気感」を感じて、「時間が止まっている! どこに行っちゃうんだろう?」と思うくらい、現実のものではないような気がしました。
あの箇所は、本当に踊りにぴったり合わないといけないですし、またクラリネットとヴィオラ・ソロが一緒に演奏しているのですが、ピットの中ではお互いが遠く離れて座っているので、オーケストラの中でのアンサンブルも合わせるのが難しいんです。ところがコジョカルとコボーのパ・ド・ドゥでは、まるでこちらの音が、舞台上の二人の空間に吸い込まれていくようでした。
永井 見えない舞台上と演奏が一緒になる、素敵な瞬間ですね。
須藤 ジゼル役のダンサーは人間の重さを見せてはいけないし、大変ですよね。音楽を踊りに合わせすぎるのもどうなんだろう? と思うのですが……ダンサーの方々はどのくらい音楽が聴こえるのか、ちょっとお聞きしてみたいです。
永井 ところで、《ジゼル》はフランスの作曲家、アドルフ・アダンの作品ですが、バレエ音楽の名作曲家としては、やはりチャイコフスキーを無視することはできません。
須藤 バレエの音楽は、弾き出しが難しいんです。でもチャイコフスキーの曲は、ちゃんと指揮者が振って入れるようになっていて、他の作曲家の作品のように、いきなり「ジャーン」と入ることがない。さすが良く考えて作っているな、と思います。彼はバレエの音楽だからって出し惜しみしないですよね。オーケストラの要素を全部バレエ音楽につぎ込んでいるし、その音楽だけでも充分楽しめてしまうところが素晴らしい。
永井 楽器や音色の選び方も、チャイコフスキーは上手いですよね。
須藤 《白鳥の湖》のオーボエ・ソロとか、切ない感じですよね。トランペットやクラリネットの使い方も素晴らしいし。伴奏も単純なところがないから、音色がとても良く響きます。しかも彼は、何でもない「ソーファミレドーシラソ」(注:《くるみ割り人形》第2幕のグラン・パ・ド・ドゥのアダージョの旋律)だけでも、音楽にしてしまう。世界中の音楽で一番単純で美しいメロディはあの旋律ではないかと思うのですが、単純な音階なだけなのに、どうしてとても重厚感のある音楽になるんだろう? と思います。多分、チャイコフスキーも空間を作るのが上手なのではないでしょうか。
また、チャイコフスキーの曲は、バレエ以外の作品でも、バレエの場面を思わせるような部分が多いんですよ。「こうやって語っていそうだな、踊っていそうだな」と想像できるような。
永井 確かに、《交響曲第5番》の第3楽章などは《白鳥の湖》を思わせるような楽器の使い方がされていますし、《マンフレッド》のように、チャイコフスキーのオーケストラ曲を使ったバレエ作品も多くあります。
須藤 ですので、バレエを踊る方にも、ぜひ演奏会で、音楽そのものを聴いていただけたらと思います。異業種交流じゃないですけれど(笑)、踊るのとはちょっと違う視点から、音楽や拍子が持っているキャラクターや音楽全体の構成を聴いてみていただくとか、オーケストラの人たちがこんなふうに弾いているんだ、この楽器はこんな音を出すんだ、というのを、目の前で見ながら聴いていただく。私たち音楽家も、バレエのレッスンを受けてみるとか、クラスレッスンなど普段の様子を拝見するような機会があったら、きっと学ぶことが多いと思います。
東京フィルは初台の東京オペラシティで練習していることが多いので、新国立劇場バレエ団とはお隣どうし。劇場でも、リハーサル室でオーケストラ練習をしていると、休憩時間に目の前をダンサーさんが歩いているんですよ。同じところにいて同じ演目をやっているわけですから、そこでも交流ができたら素敵ですよね。
演奏会にて。指揮者の右斜め前が須藤さん 写真提供:東京フィルハーモニー交響楽団
★次回は2022年8月5日(金)更新予定です