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【インタビュー】バレリーナ大谷遥陽(スペイン国立ダンスカンパニー)「ダンサーは、自分自身と真剣に向き合えた人だけが上に行ける」

阿部さや子 Sayako ABE

©︎Alba Muriel Meléndez

「私の名前には太陽の陽が入っているんです。(名前の)由来もそこ(太陽)から来ています」( @HaruhiOtani 2020年4月5日のTwitterより)

“太陽の国”スペインで、力強く輝くバレエダンサー大谷遥陽(おおたに・はるひ)。
先シーズンまではジョゼ・マルティネズ(元パリ・オペラ座バレエ エトワール)が、今シーズンからはホアキン・デ・ルース(元ニューヨーク・シティ・バレエ プリンシパル)が率いるスペイン国立ダンスカンパニーで、ソリストながらすでにプリンシパル・ロールもたびたび任されている実力の持ち主だ。

新型コロナウィルスの世界的流行、とりわけ3月半ばから感染拡大が爆発的に広がり始めたスペイン・マドリード。3月14日には劇場が閉鎖、そして同月末には厳格な都市封鎖(ロックダウン)に陥った。
世界中のダンサーたちが徐々に自宅に閉ざされていくなか、それでも「誰かの役に立つかもしれない」と、毎日の自宅トレーニングをいち早くSNSで発信し始めたのが、遥陽さんだった。

〈バレエチャンネル〉の読者からも、「大谷遥陽さんの踊りに対する姿勢や心の持ちようをぜひ取材して欲しい」とリクエストが届くほど、毎日の動画や言葉で私たちにパワーを与えてくれている遥陽さんに、4月中旬、ビデオ通話でインタビューを行った。

マドリードの自宅にてオンライン・インタビューに答えてくれた大谷遥陽さん

毎日たっぷり5〜6時間! 自宅トレーニング

ツイッターやインスタグラムの自宅トレーニング動画を見ても思っていたのですが、落ち着いたトーンのインテリアがとても素敵なお部屋ですね。
大谷 家具はもともとこの部屋に付いていたもので、全部大家さんの趣味なんですよ。私もこの雰囲気はとても気に入っています。ただ、マドリードは家賃がものすごく高いので、小さな部屋しか借りられず……いまは自宅でレッスンやトレーニングするしかない毎日なので、体を動かすたびにソファーに足をぶつけたりしています(笑)。
コロナ禍は世界中を覆い尽くしていますが、スペインも極めて甚大な被害を受けている国のひとつですね。
大谷 そうですね。感染者数も多いですし、補償関係もやはり充分とは言えない状況です。ただ、スペイン人は基本的にとても明るく前向きで、家族をはじめとする人間関係の絆も深いんです。困難のなかでも何かしらの楽しみを見つけて、ポジティブに進んでいこうとするたくましさがあります。基本的に毎日お天気もよくて、いまのところは、そんなに暗く落ち込んだ雰囲気でもありません。
スペインでは外出禁止等の制限がヨーロッパのなかでもかなり厳しいと聞いていますが、それは素晴らしいですね。
大谷 厳しいのは本当です。街の中でオープンしているのは病院と薬局とスーパーだけ。しかもスーパーは家族でも複数人では行ってはいけないし、散歩もNG。本当に最低限のことしかできない生活が続いています(編集部注:取材は4月中旬)。ドイツなど他の国に比べると厳しいほうですね。
そうした隔離生活もずいぶん長期化していますが、それでも遥陽さんのSNSを拝見すると、毎日数時間は必ずバレエのトレーニングをするなど、とても規則正しく過ごしているようですね!
大谷 朝何時に起きるかとか、夜何時に寝るかとか、そういうことはあまり決めていないんですよ。とりあえず“朝”と言える時間帯のうちに起きる、というのが唯一のルーティーンです(笑)。起きたらまずコーヒーを飲んで、日本にいる両親とビデオ通話で話しながらストレッチ。さらにピラティスもして、大体1時間半くらいかけてウォーミングアップをしています。そこからバー・レッスンですね。たぶん、バーだけで1時間くらいかけています。
ウォーミングアップとバーだけですでに2時間半!
大谷 バーは、自分の動きを動画で撮りながらやっているんですね。まず右だけやって、動画をチェックして、どこを直すべきかを確認してから左をやる、というふうに。だから一つひとつにすごく時間がかかるんです。ただ汗を流すためというよりは、こういう時だからこそ自分が直したかったところを直すための時間にしたいので。それでバーが終わったらトウシューズを履いて、ポワントのエクササイズをします。そして小さいジャンプなどできる範囲のセンター・ワークをやると、ここまでで大体3時間半から4時間くらいは経っていますね。

たったひとりで、しかも自宅でそこまで……。
大谷 まだ終わりではなくて(笑)、午後4時くらいからはピラティスをしています。とても信頼しているピラティスの先生がいるので、その日に自撮りしたバーやポワントのエクササイズ動画を全部送って、彼女に「この動きがこうなっているのは、体のここが……」とアドバイスをもらいながら、良くないところをひとつずつ直していくためのエクササイズをするんです。
ピラティスも毎日ですか……?!
大谷 そうですね。毎日、朝から夕方5時くらいまでは体と向き合っているような生活です。でも1日のトレーニングがすべて終わったら、シャワーを浴びて“スイッチオフ”。あとはもうリラックスしてSNSをしたり、ビールやワインを楽しんだり、夕食を食べたり、という感じですね。あと、最近では「どうぶつの森」にはまってます。
リラックスといえば、以前Twitterで「日曜日は自宅トレーニングもお休み」と投稿されていましたね。
大谷 1週間のうち、日曜日だけは完全に休むことにしています。自宅隔離生活に入ってすぐ、そのピラティスの先生と相談してそう決めました。というのも、こうしてバレエ団でレッスンもできない、リハーサルもできないという生活になると、最初の頃はとくに「休むこと」が怖くなってしまうんですね。毎日たくさん動けるわけではないのに、1日でも休むのはどうなんだろう……と。でも、以前ケガをした時に学んだのは「休むことの大切さ」。そのこともちゃんとみなさんに伝えたいと思っています。
遥陽さんの“休日”ツイートも、個人的にはとても好きです。こちらまで香ってきそうなシードルや爽やかなライム入りジントニックなど素敵な飲み物がたくさん出てきて、生活を楽しんでいる様子が伝わってきます。
大谷 はい、かなり楽しんでいます(笑)。
ちなみにその「完全に休む日」である日曜日は、どんなふうに過ごしているのですか?
大谷 まずは寝たいだけ寝ます。一度目が覚めても二度寝、三度寝……を繰り返して。そして起きるともう朝というよりほとんどお昼なので、朝食のような昼食のような食事をしっかりいただきます。私、バレエをする日は基本的にあまりたくさん食べられないんですよ。ダイエットではなく、単に食べて動くと気持ちが悪くなってしまうので、朝はヨーグルトを少しとコーヒー、あとはバナナを食べるくらい。ですから逆に休日はすごくしっかり食べます。そして食べ終わって、まだ眠かったら再び寝ます(笑)。あとは時々、親友の菅井円加ちゃん(ハンブルク・バレエ)に電話しておしゃべりすることもありますね。ドイツとスペインでお互いビールを飲みながら(笑)、いろんな話をします。

バレエとの出会い、ローザンヌへの挑戦。そしてつかんだプロへの道

遥陽さんは3歳からバレエを習い始めたそうですが、きっかけは?
大谷 母が趣味でバレエを習っていて、私のことも「女の子だし、バレエをさせてみようかな」と、軽い気持ちで教室に連れて行ったのがきっかけだと聞いています。
その頃はどんな子どもでしたか?
大谷 3歳の時のビデオが残っているのですが、それを見ると、もし私が先生なら「こんな子イヤだ!」って外につまみ出したくなるくらい(笑)。ちょっと、好き勝手な行動をしすぎていましたね……。ひとりっ子だというのもあるかもしれませんが、レッスン中なのに「疲れた!」と言ったり、「お水!」ってママのところに飛んで行ったり。私は3月生まれなので、他の子たちと比べると体も小さいし、ひとつのことができるようになるまですごく時間もかかっていたと思います。でもそのお教室の先生がとても素敵な方で、本当に温かく指導していただきました。父親が転勤族だったので3ヵ月間くらいしか通えなかったのですが。その後大阪に引っ越して、バレエ教室も変わりました。
子どもの頃に得意だったパ(ステップ)は?
大谷 回ることが大好きでした。とくに左回転が得意で、ずっと左ばかりやっていたのですが、いつの間にか右利きになっていたのが自分でも不思議です。
トウシューズを履き始めたのはいつですか?
大谷 7歳の時です。かなり早いですよね。当時はワクイバレエスクールという大きなスクールの支部教室で習っていたのですが、先生方から「本部校に行きなさい」と言われ、本来は10歳以上が対象の「特別クラス」に通うようになったんですね。そうしたら、そこがトウシューズのクラスで。「あら、まだ履いたことなかったの? じゃあこれを貸してあげる」と同じクラスのお姉さんがシューズを貸してくれて……その日から突然履き始めました(笑)。
衝撃のトウシューズ・デビューですね! でもそれは、遥陽さんの身体条件やそこまでに身につけていた基礎力を見て、先生が大丈夫と判断されたということですね。
大谷 そうだと思います。実際、いきなりトウシューズを履いても膝が曲がったりすることもなかったので。
その後、遥陽さんはさらにお引っ越し等でお教室を変わりましたね。
大谷 まずオデット・バレエスタジオというところに行きました。そこは発表会が素晴らしくて、先生方も生徒たちもみんな楽しそうに踊っていて、とても好きでした。その後名古屋に引っ越して、神澤千景バレエスタジオへ。そこからコンクールにも出るようになりました。
その当時の遥陽さんは、いろいろなコンクールでたびたび入賞していました。
大谷 教室では発表会もあるし、コンクールも出るたびに衣裳代等がかかりますし、経済的な負担はかなり大きかったと思います。それでも両親は「遥陽はこんなにバレエが好きなのだし、何か可能性もあるかもしれないから」と、私がやりたいだけ挑戦させてくれました。そのことには本当に、感謝しかありません。
そしてまた、大谷家の引越しの時がやってきます。
大谷 2010年のことです。今度は東京へ転勤になり、この時は少し迷いました。私がもう、神澤先生のところでかなり本格的にバレエに打ち込んでいたので。でも私たち家族には、父だけを東京に行かせるという選択肢はありませんでした。やっぱり何があっても家族みんなで一緒にいたいと思いましたし、私自身どれだけ転校しても、新しい土地で一から友達を作ることに何の苦労もなかったんですね。なので神澤先生には心から感謝しつつ、東京へ移ることに決めました。
東京では、お隣の神奈川県にある佐々木三夏バレエスクールに入所されました。
大谷 東京はお教室の数も格段に多いのですが、心の中では最初から「佐々木三夏先生のところに行きたい」と決めていました。それまで数々のコンクールでいろいろな人の踊りを見てきた中で、私は佐々木先生のスクールの生徒さんたちの踊りがとても好きだったので。
それはどんなところが好きだったのでしょう?
大谷 いわゆる“コンクール踊り”をしないところです。同世代では菅井円加さんや五月女遥さん(新国立劇場バレエ団)、相原舞さん(元アメリカン・バレエ・シアター)などが佐々木三夏バレエスクールの生徒だったのですが、みんな基礎がしっかりしていて踊り方がとても丁寧。そして絶対に“これ見よがし”な表現をしないんです。語弊を恐れずに言えば、ぱっと見た印象は“地味”だったかもしれません。でも、とても品があって、揺るぎなくて、見るたびにいつも「ああ、すごい」と思っていました。それでさっそくスタジオに見学に行ったら、教え方も、そこで踊られている内容も、とても洗練されていて。もう「絶対ここに通う!」と即決しました。
この時に佐々木三夏先生と出会えたことが、私のバレエ人生において最も幸せなことのひとつです。その子に必要なことをずばり見抜いて指摘してくださる指導力、シャイで謙虚な人柄で、何よりも本当に心があたたかくて……三夏先生ほど素晴らしい先生が他にいるだろうか?と思うくらいです。
そうして遥陽さんは恩師・佐々木三夏先生と出会い、17歳でローザンヌ国際バレエコンクールに出場しましたね。
大谷 やっぱり、いつかは絶対に出たいと思っていたコンクールでした。それで三夏先生に「ローザンヌに出たいです」とお伝えしたら、「別に、いいけど」って(笑)。そして「ただし、いまのあなたじゃ全然だめよ。もっと本当にがんばらないと」と言われました。びっくりしたし、ショックでした。当時の私は、「自分はすごくがんばっている」と思い込んでいたので。でも少し落ち着いて考えてみたら、その意味はすぐに理解できました。あの頃の自分は何をがんばっていなかったのか。例えばできないパがあっても、「できない」と笑って終わり。言ってみれば、踊りへの執着が足りなかったのだと思います。
なので、そこからですね。踊りに向き合う姿勢や取り組み方がガラリと変わったのは。すぐに母に相談して、まずとにかく練習量を増やしました 。そしてただただ、がむしゃらに練習しました。プロになると「がむしゃら」よりも「頭を使うこと」のほうが大切ですが、学生の頃は、無我夢中でがんばることでしか見えてこないものがあるんですよね。ローザンヌの本選を迎える頃には、三夏先生に「あなたはすごく変わったわよ」と言っていただけて、うれしかった。先生のあのひと言から始まって、ローザンヌの本番を迎える前までのプロセスじたいが、とても大きな経験でした。
まだ16〜17歳だった遥陽さんが、先生のひと言で、自分に足りないものに気がつけたわけですね。
大谷 気づくことができてラッキーでした。でももしかしたら、心のどこかでは、もっとずっと前から気づいていたのかもしれませんね。図星だったからこそ、あんなに深く突き刺さったのかもしれないな……という気もします。
そして2014年、第42回ローザンヌ国際バレエコンクールに出場。クラシック・ヴァリエーションでは『眠れる森の美女』第2幕・幻影の場のオーロラを踊りました。私も現場で取材をしていましたが、場面の意味を的確に捉えた表現、そして17歳の遥陽さんの内側からこぼれ出てくる情感が、とても素敵でした。
大谷 ありがとうございます。あのヴァリエーションは自分で選びました。ずっと昔から、曲が大好きだったので。やっぱり、オーロラ2幕のVaはいまでも私にとって特別な踊りで、いつか全幕であのソロを踊れることになったら、たぶん泣いちゃいますね(笑)。

がむしゃらにがんばって、自分を変えて臨んだ憧れの舞台で、見事に踊りきれたこと。ローザンヌに挑戦したことは、遥陽さんのその後の人生に何か変化をもたらしましたか?
大谷 ローザンヌは間違いなく私のターニングポイントのひとつです。正直、ファイナルに進めなかったことは、それまでの人生でいちばんショックな出来事でした。自分自身「やるだけのことはやれた」と思えていたし、セミファイナルが終わった段階で、たくさんの方から「遥陽ちゃんはもう絶対ファイナル進出だね!」と声をかけていただいていたのもあって。でも結果が出て、そんなふうに期待をかけてくださったみなさんもきっと何て言ったらいいかわからなかったでしょうし、三夏先生もやはり、ショックだったと思います。本当に悔しかった。「日本人はもっと強い何かがないとダメなのかな」「特別な何かを持っていなくてはプロになんてなれないし、なれたとしてもきっと上には行けないだろうな」と、そんな考えが次々に浮かんできました。そしてその後数年間は、ローザンヌの時期が来るとちょっとネガティヴな気持ちが込み上げてきて、思い出したくないような、どこかで納得できていないような思いを抱え続けていました。

それでもローザンヌが終わった瞬間に、「もっと練習する。限界まで練習する。絶対に!」と心に決めました。それからは365日、1日も休まずに練習する日々でした。基礎も徹底的に見直そうと考えて、トウシューズの正しい立ち方や綺麗な足先の使い方を一から学び直したり、回転も左右差をなくすべく徹底的に練習したり、苦手なジャンプを徹底的に見直したり。文字通り無我夢中で練習するうちに、気がついたらコンクールなどでも1位やグランプリをいただくようになっていましたね。怖いものもなくなってきて、ようやく「自信」というものを、少しずつ取り戻すことができました。

その時期に挑戦したコンクールのひとつで、スペイン国立ダンスカンパニーの前芸術監督、元パリ・オペラ座バレエ エトワールのジョゼ・マルティネズと運命の出会いを果たしたわけですね。
大谷 そうなんです。もともと三夏先生が、パリ・オペラ座バレエが大好きで。それで、とある日本のコンクールに彼が審査員長としてやってくると聞いて、エントリーしました。結果はグランプリ。併せてスペイン国立ダンスカンパニーの研修賞もいただきました。でも、それは直接的には入団にはつながらなくて。転機が訪れたのはその数ヶ月後、たまたまスペイン国立ダンスカンパニーの来日公演があったんですね。「わあ、来るんだ!」と思って、その時に同時開催されたジョゼの一般向けのワークショップを受けに行きました。そこで彼に挨拶をしたら、「いま、カンパニーのクラスを毎日4時からやっているから、よかったら受けにおいで」と。プロに交じってレッスンするなんて、もちろん初めてのこと。でもその頃の私は毎日猛練習していたので、「クラスなら怖いものはない!」と思えたし、ピルエットも高い位置で綺麗に回る、フェッテも動画を自撮りして徹底的に磨き上げて……ということを毎日やっていたので、思いきって4日間、受けに行きました。
レッスンはすごく楽しかった! ピルエットを回ったところでダンサーのみなさんが「おお〜!」って拍手してくださったりして、ちょっと恥ずかしかったけど嬉しかったですね。そして4日目の最終日に、ジョゼがこう提案してくれたんです。「遥陽をぜひスペイン国立ダンスカンパニーの研修生として招きたい。さっそくツアーにも参加してもらいたい。踊ってもらいたいのは『ライモンダ』のソリストと『ドン・キホーテ』のソリスト、それから『ドリーブ組曲』と……」って。そこからはもう急展開です(笑)。一気にプロへの扉が開いていき、入団へとつながりました。
すごいお話です……。自分の努力と実力で、ひとつずつチャンスをつかみ取っていったんですね。
大谷 私はずっと、「自分のことを欲しいと言ってくれるところに行きたい」と思っていました。だから、このようにして人との出会い、ご縁、運に恵まれたことに、心から感謝しています。

©︎Alba Muriel Meléndez

実力主義のキャスティング。その緊張感が好き

まさに、当時の芸術監督のマルティネズから望まれて入団したスペイン国立ダンスカンパニーで、早くも1年目から『ドン・キホーテ』全幕に主演するなど大活躍。そして今シーズンからは新しい芸術監督にホアキン・デ・ルースが就任しましたが、何か変化はありますか?
大谷 ジョゼとホアキンはまったくタイプが違いますが、それぞれとても尊敬できます。そしてありがたいことに、どちらの芸術監督のもとでもたくさんチャンスをいただいています。レパートリーのことでいうと、ジョゼの時代はクラシックとネオクラシックとコンテンポラリーの作品がとてもバランスよく入ってはいたのですが、「クラシックを踊るダンサー」と「コンテンポラリーを踊るダンサー」が、かなりくっきり分かれていたんですね。まるでバレエ団の中にさらに2つのカンパニーがあるみたいな感じで、私はいつもクラシック作品を踊っていて、コンテンポラリーは1回しか踊ることができませんでした。ホアキンになってからは、クラシックもネオクラシックもコンテンポラリーも、すべてバランスよく配役していただいています。このコロナで、実際どのくらい上演されるかは分からないのですが。
「ジョゼとホアキンはまったくタイプが違う」とのことですが、具体的にはどんなふうに違うのでしょう?
大谷 ジョゼは温かくて優しい人柄。クラシックを踊る人とコンテンポラリーを踊る人が分かれていたというのも、できるだけみんなに平等に役やチャンスを与えるためという意図があったのだろうと思います。いっぽうアメリカでキャリアを築いてきたホアキンは、もっとワイルドでシビアです。キャスティングも実力主義。振付家に配役を完全に任せるので、人によっては役がまったくつかない、ということもあります。そして彼は、誰よりも仕事をします。目が赤く燃えているんじゃないかな?! と思うくらい、誰よりも熱心。筋トレをして、レッスンをして、もちろん芸術監督としての役目を果たして……だから優しい人だけど、すごく厳しいです。「スタジオの中では絶対に携帯を触らないでほしい。そして僕はたくさん仕事をするダンサーが好きです。やる気のない人は出ていってくれていいから」。これが、ホアキンが私たちダンサーに最初に言ったことでした。
厳しいですね……。
大谷 「キャスティングされないことに不満を言うより、もっと自分に対して危機感を持つべきだ」とも。ジョゼの時代にはなかった空気がカンパニーのなかに張りつめているのを感じますが、喝が入るようなこの感覚が、私は好きですね。でもホアキンは同時に、とても愛のある人です。厳しいのも、ダンサーやカンパニーを本当に大事に思っているからこそ。だから私も、メンバーのひとりとして、このカンパニーのレベルを上げていきたいと思っています。プリンシパルやソリストは、自分の実力や踊りに対する姿勢で、周囲のみんなに影響を与えていかなくてはいけない立場です。私たちのカンパニーは国立ではありますけど、国の文化予算は削減傾向にあり厳しい状況です。だからこそ私たちは、お客様の胸を打ち、少しでも多くの人に芸術の素晴らしさを伝えていけるような舞台を一生懸命作らなくてはいけない。政府に納得してもらうためにも、私たちができる限りのことをしなくては。芸術監督だけががんばってもだめで、私たちダンサー一人ひとりにも、真剣に努力をする責任があると思っています。

生まれて初めての「差別」。でも私は、踊りたいものを踊ることができた

“名は体を表す”と言いましょうか、名前の中に“太陽”を持つ遥陽さんの踊りや言動は、いつだって力強くてポジティブなエネルギーにあふれています。だからこそ、3月2日のTwitterに書かれていた悲しい出来事には、本当に胸が痛みました。

大谷 あれは、スペイン北西部のバリャドリードという街で公演を行うために出かけた時のことでした。ちょうど新型コロナウィルスが流行り始めた頃で、まだアジアが感染の中心地だったんですね。劇場に入ろうとしていた家族連れが私のほうを見て、「あっ、中国人だ。コロナを持ってるから気をつけよう」と言ったんです。バリャドリードは古都で保守的な人が多い土地柄ということもありますが、ショックでしたし、腹も立ちました。人生で初めて受けた「差別」。しかもそれが、まさに今日これから私たちの踊りを観ようとしている人たちだったことが悲しかった。その日を境に、外に出たりレストランに行ったりするのも不安になってしまいました。まるで何かに縛られてしまったような感覚でした。
しかしその翌日、遥陽さんはそのバリャドリードでの『愛の讃歌』の舞台映像を投稿。これには多くのファンが心を打たれました。スマホの小さな画面で見ても感動的なパフォーマンスであることがはっきりと伝わってきました。
大谷 その出来事があった翌日が、公演の最終日だったんです。正直、踊る前は、お客様に「アジア人が踊ってる。嫌だな」と思われたりするのかな? 拍手が少なかったりするのかな?……と、少し不安な気持ちでした。そして初めて「自分もスペイン人だったらよかったのに」とも思いました。そんなこと、それまでは考えたこともなかったのに。

でも、メイクして、衣裳を着たら、何もかも吹き飛んでしまうんですよね。そして舞台に立って「愛の讃歌」が流れてきたら、悲しかったことも不安だったことも、全部忘れました。アラベスクで身体を大きく伸ばした時、「ああ、差別されたことなんてもうどうでもいい」と思いました。観客のみなさんも、いまこの瞬間は差別する気持ちなんて忘れてるはずだし、忘れていてほしい。そう願いました。

踊り終わると、客席から大きな拍手が聞こえてきました。レヴェランスをする時、いつもだったら堂々と胸を張って拍手を受け止めるのですが、その日は少し控えめなお辞儀になっていたと思います。胸の中には、これまでとは少し違う感謝の気持ちが芽生えていました。ただこうして普通に観ていただけるだけでありがたいし、やっぱり、芸術の力ってすごいな、と。あの日は、テクニック的なことも何も気にせず、ただただ自分が踊りたいものを踊ることができた。その意味でも、忘れられない公演になりました。

悲しいことはあったけれど、それ以上に大きなものと出会えた舞台だったのですね。
大谷 そうですね。そう思います。
どんなことも自分の“栄養”にして進化していく遥陽さんですが、これからの目標や課題として考えていることはありますか?
大谷 それこそこの『愛の讃歌』のオーディションを受ける前に、ホアキンから「この作品には、いまの遥陽に必要なものがすべて入っていると思う。だからぜひ踊ってほしい」と言われたんですね。先ほど言ったようにキャスティングは振付家が決めるのですが、無事にファースト・キャストに選ばれてリハーサルに入った時、ホアキンが言った言葉の意味がすぐにわかりました。

いまの私に必要なこと、それは「心で踊る」ということです。私はどうしても“パーフェクト”を求めてしまって、やはり技術的なことにとらわれがちなところがあるんです。でも芸術監督が私に求めていることは、もっとアーティスティックな部分。いつも「遥陽、失敗を怖がらないで。僕はもうパーフェクトなんて求めないからさ」と言われます。今回『愛の讃歌』のリハーサルをしていた時も、やっぱり心がステップについていけていないような、自分が空っぽのまま踊っているような気がして、焦ったり苛立ったりしたこともありました。でもバリャドリードでの舞台のように、心と体が一緒になって踊るとはどういうことかを、いま少しずつですが掴みつつあるように感じています。

最後に、日本のファンやバレエをがんばっている人たちにメッセージをいただけますか。
大谷 先ほどお話ししたローザンヌの時も、その後ヴァルナ国際バレエコンクールに出場した時も、私はこんなことを考えました。「コンクールでは入賞した人たちだけにスポットライトが当たるし、賞はひとつの力になるかもしれない。でも私は絶対に、“自分の力”で上に行くんだ」と。ダンサーというのは、自分自身と真剣に向き合えた人だけが、上に行けるのだと思います。いまは舞台にも立てないし外出すらできない状況だけど、狭い部屋でも工夫をすればスペースを作れるし、椅子があればバー・レッスンもできる。そしていまこの時にできる限りのことをどれだけやったかが、いつかバレエ団が再開した時に、大きな差を生むのではないでしょうか。私はこれから先もどんどん上を目指して、もっともっと違う景色を見たい。だから今日もトレーニングをしています。いまここでがんばれる人が、この先もがんばれる人なのだと思います。

【大谷遥陽 Haruhi Otani】3歳からバレエを始め、2010年より佐々木三夏バレエアカデミーにて学ぶ。2014年ローザンヌ国際バレエコンクール出場、セミファイナリスト。同年、第1回国際バレエコンクール in 東京にてグランプリおよびスペイン国立ダンスカンパニーの研修賞を受賞。2015年同カンパニーに入団。現在ソリスト。©︎Alba Muriel Meléndez

 

#おうち時間のお気に入り
こちらはバスク地方のシードル。最近私が気に入っているものです。100パーセントナチュラルなもので、甘くなくピュアな林檎の味がとてもします。シードルは高い位置からグラスに注ぐことにより香りを立たせます。北スペインでよく飲まれるものなのですが、私はとくに北スペインが大好きで、お酒も好きなため、自然とシードルにもはまりました。お手頃で手に入りやすく、ナチュラルなので、いまこの難しい状況の中で1日をリラックスして終えるのに、ほどよく飲むシードルが「明日もがんばろう!」という元気を私に与えてくれます。キャンドルを焚くと、より気分がリラックスします?

【おまけ】
「シードルは高い位置から注ぐことにより香りを立たせます」……遥陽さんのスゴ技にぜひご注目ください?

↓↓↓

〈2020/05/20 追記〉本文一部加筆しました

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