“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans”
ダンスと映像 〜身体を視るための第三の眼球〜
さて約束通り、先月書き切れなかった映像について書いていこう。
映像は現代の舞台において重要な役割を示している。
「舞台におけるダンスと映像の融合」は繰り返し試みられてきた。
が、なかなか簡単にはいかない。
たとえばサイズの問題だ。モニターに映すだけでは映像が小さすぎ、壁一面に投影すると身体が埋もれてしまう。
さらには実写かCGか、過去の映像かリアルタイムの映像か、創った映像か既存の映像か、身体を拡大するのか対立するのか……着眼点はいろいろある。
ここではそれらを見ていこう。
バレエと映像は……
●電気の時代のものだもの
……が、前回の照明同様、映像が使われるようになったのは、電気を普通に使えるほどに機材と電力が安定し、映画というテクノロジーが誕生した1895年以降のことである。
ちなみに戦前の日本でも都市部では、様々なショウなどの実演と映画の上映は、ひとつの劇場で行われていた。朝から晩まで続く大きなプログラムの中に組み込まれていたのだ。
いまでも古い映画館に舞台や緞帳が残っているのは、そうした時代の名残りである。
本当の意味で舞台が映像を使いこなせるようになるには、映画と並んで、ブラウン管時代のテレビを使った「ビデオ・アート」の存在も大きかった。
これによって「高級家電」だったテレビが、「バリバリ使い倒す映像機械」に変容を遂げたのである。
この「ビデオ・アート」で一躍有名になったナム・ジュン・パイクは、アイディアを思いついたとき、しめた! と思ったそうだ。革新性に疑いはない。なぜならダ・ヴィンチもミケランジェロもテレビを使ったアートは創っていないのだから。
さらに1980年代に家庭用ビデオ再生機が爆発的に普及すると、動画の編集が容易になり、アーティストが様々な試みをするようになった。
それ以前の映像メディアは基本フィルム映画しかなかったのだから、これはもう人類に火を与えたに等しい。さらにこの頃から映画でも実写+CGが実用化し始め、火にガソリンが注がれる結果となり今日に至る。
……と、今回ここまでバレエの話はない。
もちろん最近ではクラシック・バレエでもプロジェクション・マッピングをはじめとする様々な映像効果を使っているものもある。しかし鮮やかに背景が変わることはあっても、なかなか映像が本質的な使われ方をしていることは少ない。
映像表現の強みのひとつは幻想的なイメージなどだが、幻想や夢の世界はバレエにとっても本領発揮の場なので、あまり映像で見せる必要性を感じられないのだ。
そんななかでバレエダンサーが先進的な映像とからんだ作品をいくつか挙げよう。
●マッツ・エック×シルヴィ・ギエム『アジュー(Ajo)』
これはバレエ界の至宝シルヴィ・ギエムが引退を決意したとき、長年付き合いのあるマッツ・エックに依頼した作品である。東日本大震災後、ギエムが敢行した「HOPE JAPAN」ツアー(2011年6月)でも上演された。
ギエムは地味なシャツによれよれのカーディガンに毛が跳ねまくった三つ編み……という人生に疲れた姿で登場する。
舞台中央に縦型の白いスクリーンがあり、様々な人が訪れては去っていく。彼らは死者なのか追憶なのか。実物と区別がつかないくらいの高精度の映像で、本当にそこに来て、去って行くように見える。そしてギエムもその中に入って去ってしまうのではないか……。
タイトルは「さよなら」の意味でスウェーデン語である。エックの故国スウェーデンで初演されたためだ。
映像の四角いフレームが異界との境として機能しており、映像の本質を見せられた思いだ。
バレエ人生において大劇場を圧倒する存在感を見せつけてきたギエムが、ひとりの人間、ひとりの女性として見せる哀惜の表情は、深く胸にしみてくる。
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