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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第7回〉ダンスと舞台美術〜最大の強みを生かし切れぬ人のために〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスと舞台美術〜最大の強みを生かし切れぬ人のために〜

舞台美術は、日本のダンスの最も弱い部分のひとつといえる。
ダンス教育もダンサー自身も、身体の動きを重視するあまり、舞台全体の演出デザインに重きを置かない人・理解しようとしない人が多いのだ。
だが舞台空間の多くを占める舞台美術は、当然、作品の出来に影響を与える。
なかには舞台美術が作品そのもの、といえるものまである。

ここでは「ダンサーに力を与え、ダンサーの力を受けて作品をさらに輝かせていく舞台美術」の本当の力を掘り下げていこう。
若いダンサー達のケーススタディたらんと、今回はとくに魅力的な舞台美術の実例を多めにした。そして編集部も過去最多の映像資料を貼ってくれた!
世界のダンスフェスから選び抜いた、オレ以外にはできないであろうラインナップなので、ガッツリと読んでいってくれ!

重要だが、省かれることも!?

●舞台美術、それはデカい

ロマンティック・バレエにおいては設定が宮殿や深い森の中が多く、妖精や魔法がバンバン出てくるので、舞台美術が貧相だと一気に学芸会感が増してしまう
とはいえ昔の日本は、バレエといえども書き割り(絵)がほとんどで、一流バレエ団の来日公演でも日本用に作った美術での公演が普通だった。

しかしNBS 日本舞台芸術振興会によるいわゆる「引っ越し公演」すなわちダンサーのみならず海外の一流劇場で使われている舞台美術ごと日本に運んできて、現地で見るのと変わらない公演が始まると、そのあまりの違いに日本のバレエファンは衝撃を受けた。

一流の舞台は一流のダンサーだけではなく、やはり一流の衣裳や舞台美術とともに成り立たせていくことを目の当たりにしたのである。

現在の日本では、舞台美術も大幅に改善されて、海外の一流バレエ団と遜色のない衣裳や美術のバレエ団も増えている。また舞台美術専門のレンタル会社もあり、お財布にもエコにも優しい環境が整えられてきた。

ちなみにこの「引っ越し公演」が、ホテル代の高騰や税制の変更によって継続不能になりそうな窮状をNBSの公式サイトで訴えているので、財政的に余裕のある人はよろしく頼む。

●マリウス・プティパ『ラ・バヤデール』の神殿崩し

もともとバレエは1841年初演の『ジゼル』の時代から、この世ならぬ者の浮遊感を出すため、あるいは観客を驚かせるために、ダンサーを宙吊りにして空中を移動させるなどのスペクタクル演出は普通にあった。

しかし特筆するべきは『ラ・バヤデール』のいわゆる「神殿崩し」だろう。

領主の娘ガムザッティは、恋敵である寺院の踊り子(ラ・バヤデール/バヤデルカ)のニキヤが毒蛇に噛まれて死ぬよう仕組んで成功させ、勇士ソロルと結ばれる。その結婚式は神の怒りに触れ神殿ごと大崩壊をおこし、すべてが瓦礫の下に葬られてしまう。
こういうラストは歌舞伎でも「屋体崩し」といって、舞台の見せ方のひとつとなっている。

ソロルは、勇士の割に目の前でニキヤを襲う死の罠を見抜けず、打ちひしがれてアヘンを吸って逃げ込んだ先が「影の王国」第5回で解説)……かなりのボンクラだ。
最後に首謀者のガムザッティと共に瓦礫の下敷きになっても、まあしょうがないかなという気にはなる。

だがこのラストの「神殿崩し」は省略して上演されることも多かったのである。

だって準備とか大変だし。
そもそもソロルとニキヤは「影の王国」で再会を果たしており、いちおうドラマ的には悲恋ながらも一段落しているのだ。
「スペクタクルのせいで恋の余韻が吹き飛んでしまう。最後の神殿崩しは、蛇足なのでは」という考えも、まあ筋は通っている。

●ローラン・プティ『若者と死』のパリ市街

こういうことはよくあって、ローラン・プティの代表作のひとつ『若者と死』も同じ目に遭っていた。

若い青年画家の苦悩を描いた傑作。初演のジャン・バビレ以降、ミハイル・バリシニコフなど男性ダンサーなら一度は挑戦してみたくなる魅力に溢れた作品だ。

恋人から拒絶され、パリの屋根裏部屋で絶望して死を選ぶ青年画家。すると恋人は髑髏の仮面をかぶって死の使いとして再び登場する。そして仮面を青年にかぶせ、青年を追い立てるように後ろから指をさすのだ。

この最後のシーンで屋根裏部屋のセットはすべて吊り上げられて飛んでいってしまう。舞台美術のジョルジュ・ワケヴィッチは、背後にネオンきらめく華やかなパリの街並みを出現させ、その上を青年に歩かせたのである。

青年はあれほど焦がれた恋人にもパリにも受け入れられることなく、独りで死への道を登っていく……狙いはなるほど理解できる。

ただこれも観客としては、青年が悲しみにのたうち回り苦悩が極まって自死してしまう姿で、もう相当におなかいっぱいになっている。
屋根裏部屋のままで幕が下りても、かえってじっくり余韻にひたっていられたのだった。

もっとも日本人は原典を大事にする気風があるので、比較的ラストもちゃんと上演することが多かった印象だけれども。

4つに分ける舞台美術の効用

さて舞台美術の効用を、ここではこのように分けてみる。

〈舞台美術の効用〉
  • その1:舞台美術は世界を作る
  • その2:舞台美術は時間を作る
  • その3:舞台美術はコンセプトを作る
  • その4:舞台美術は動きを作る

それぞれについてみてみよう。

その1:舞台美術は世界を作る

●世界を構築する

まあ舞台美術の第一義の役割といわれて、真っ先に浮かぶのはこれだろう。
様々な状況設定で情報を伝え、作品世界にさらなるリアリティを加える。

そのため様々な時代を描くにも、考証がぬるかったり、使い古された未来像をなぞっただけだと、舞台美術のせいで作品に入り込めないことになる。

半端な具体性はリアリティを損なうことが多いので、むしろ箱や棒や幾何学的な立体物といった抽象的な美術で観客のイメージに働きかけるものもある。

連載第1回で述べたように、演劇的ダンスの巨匠ピナ・バウシュ「舞台という虚構空間にあえてホンモノを嵌入させる手法」を取った。

舞台全体を墓穴の底のように見せて上から土をかけ続けたり(『ヴィクトール』)、座礁したような豪華客船をおいたり(『そして船は行く』)、舞台一面を土(『春の祭典』)やカーネーション(『カーネーション』)で埋め尽くす、海面に浮かんでまた潜ろうとするクジラの姿(『天地』)などなど。

だがいかにスケールとパワーがあっても、観客はこの美術の中にダンサー達が出てきて「完成」させてくれるのを心待ちにする。そういう「隙間」が必ずあって、展覧会のように美術だけを見て満足することはない
それが優れた舞台美術だろう。

演劇的ダンスで期待の星と目されているのは、ベルギーのピーピング・トムを主宰するフランク・シャルティエ&ガブリエラ・カリーソである。
『Le Sous-Sol/土の下』では、舞台上には地下室があり、大量の土が窓を突き破ってなだれ込んでいる。安部公房の小説『砂の女』にインスパイアされたと言われ、埋葬されかけているような重苦しい空気の中で優雅なオペラが歌われる。
『ヴァンデンブランデン通り32番地』は、雪が吹きすさぶ極寒の地のトレーラーハウス。異常な軟体の韓国人ダンサーなど、いろいろ狂った人たちがぶつかり合う世界を美術が受け止めていた。

「演劇的ダンス」とはいえ、巨匠ピナの真似をしても似非にしかならない。そこを避けてどう作品を創るかは、同時代の若いアーティストにとっては、けっこう悩みどころだった。
ピーピング・トムが見事だったのは、ピナが手放していったナラティブな物語性をあえて正面に据えることで、自らのスタイルを獲得していったことである。

そのためにも「あちこちでひっそりと狂気が息づいている、ベルベッドのような手触りのある世界を構築する舞台美術」は、なくてはならぬものだったのだ。

●世界を変えるには

舞台美術には弱点がある。
一度設置したものは、なかなか変えられないことだ。

幕が下りている間に転換するか、照明を絞って見える範囲を限定し、別の空間にいることを観客の想像力で補ってもらったりする。

そんな弱点を解決したのが「廻り舞台」である。
舞台中央の「盆」という回転する部分の上に複数の舞台美術を設置し、向きを切り替えるとすみやかに舞台美術を転換することができるわけだ。
これは日本の歌舞伎が世界に先駆けて創ったものだ。享保年間(1716年〜1736年)に花道や「せり上げ」といった舞台機構の改革が進み、盆を回すことも行われていた。現在のように舞台下に人が入って回すようにしたのは宝暦年間(1751年〜1764年)だと言われている。

現代では技術も進み、かなり大きな舞台美術のそれぞれに車輪をつけ、人力で押して移動させられるようになった。
街並みが移動したり、同じセットが向きを変えるだけで「ビル街が一転して深い森の中になる」など、まったく違う景色を現出させることもできる。

●具象にも抽象にも

またあえていかようにも解釈できる抽象的な美術を設置することで、具象にも抽象にも機能させることもできる。

小野寺修二カンパニー・デラシネラはもともと舞台美術に定評のあるカンパニーだが、現代能楽集Ⅸ『竹取』は印象的だった。

舞台上には細い糸が何本も垂直に張られている。もちろん竹林に見えるわけだが、糸の角度を変えただけで雨にも壁にもなり、幾何学的な文様を創り出す。
さらに畳と見えたものが起こすと障子になったりと、舞台美術に様々な意味を持たせ、「おおっ」と感心させるアイデアが実に豊富なのである。

この積み重ねが場面の転換とスピードをさりげなく加速するので、作品にテンポを生み出す。
この「さりげなさ」、美術の主張が強すぎず、手を伸ばした先にスッと入ってくるような一体感が重要なところだ。

●作中で響き続ける美術

具象でも抽象でもなく、作品の中で響き続ける舞台美術があった。
少数山岳民族出身ながら独学で中国の至宝とまで呼ばれるヤン・リーピン『覇王別姫』である。美術を手がけたティム・イップは映画『グリーン・デスティニー』でアカデミー賞の美術賞を受賞している。

『覇王別姫』は1930年に天才女形の梅蘭芳が虞美人を演じた京劇の名作で、その後も映画や舞台になっている。秦末(前3世紀)、四面楚歌のなか、死を覚悟した楚の覇王・項羽が愛姫・虞美人と別れるシーンがハイライトである。逃がそうとする項羽を断り、虞は剣を手に美しく舞うと自らの生命を断つ。
悲劇の結末が待つこの舞台に、イップは何をしたか。

舞台前面の上空には木の葉が何重にも重なり、森の中のように見える。しかし開演前からずっとカチャカチャと金属がぶつかる音が小さく響いているのだ。
そこでよくよく目をこらすと、木の葉ではなく何百あるいは数千にもおよぶ大量のハサミが刃の先端を下にむけて取り付けられていることがわかる。

しかもハサミの塊は部分ごとに可動式になっていて、生物のように動く。そのたびに鳴る金属音が不安をかき立てる。
うち続く戦乱の世を覆う不安、そこで紡がれる愛の絆と、やがて訪れる死別……。
舞台美術が、悲劇の到来をずっと観客にささやき続けるのである。

こうした「音と一体化した美術」は、より深く観客の身体に浸透していく。

ちなみに京劇については常々疑問に思っているのだが、絢爛たる衣裳のわりに、舞台美術が幕だけ、というあっさりしたものがほとんどなのはなぜだろう。
文化大革命で失われてしまったのか、もともと宮廷で演じるので舞台美術は必要なかったのか。ご存じの方はご一報いただきたい。

●世界を壊す美術

世界を創ることができるのならば、もちろん壊すこともできる。
しかも人間には、ちゃんと作られたものを壊したくなるカタストロフィ願望がある。

「ゴジラのごとくビル街をなぎ倒して歩きたい。撮影用のミニチュアの街並みでも良い」とは思わないだろうか。整然と並んだボーリングのピンをスパコーン! とぶっ飛ばしたらスッキリしませんか。あるいはわざわざ積み上げたジェンガ(おもちゃ)をそーっと一本ずつ抜いていきながら、最後のガシャーンの瞬間を心待ちにしていないだろうか。

「屋体崩し」はみんな大好き。しかし何日間も公演を続けるためには、おのずと限度がある。
しかしちょっとイカれたレベルでぶっ壊れてる……と思ったのが現代サーカスのスター、カミーユ・ボワテル『リメディア』だった。

ゴチャゴチャした舞台の中央に部屋が設置されている。そこへボワテルが入ると、かけたコートが落ちテーブルの足が折れ壁の絵がはずれ部屋の壁が崩れてなくなる。
さらには部屋の周りにあった様々なものが崩れだし、舞台の照明機材まで落ちてきて襲いかかる。そして舞台の天井近く数メートルの高さまで積まれていた大量の箱が一気に崩落してくるのである。

サーカスにおけるフラジャイル(脆さ、危険性)の大切さについてはいずれ語りたい。この舞台で次々に襲いかかる災難にアタフタするボワテルの姿を観客は笑って見ているのだが、それはまた多くの理不尽なトラブルに直面する観客自身の人生を映す鏡でもあるのだ。

ちなみにこの進化版とも言うべき作品を2019年にモンペリエで見てきた。タイトルは『間 (ma, aïda, …)』で、フランスのパンフレットにも漢字の「間」が正式タイトルとして載っている。
これはもう舞台美術どころか床板からなにから剥がされて吹っ飛び、「舞台そのもの」が徹底的に破壊される驚愕の舞台となっていた。

しかし『リメディア』がソロだったのに対し、こちらは男女カップルが中心なので「世界が破壊し尽くされても壊れない二人の絆」がグッと胸に来る。
テーマが違えば、舞台美術の意味合いも当然に変わってくるのである。

日本のダンス作品は身体性・動きが中心だが、舞台美術から作品作りを考えるアーティストは、これから増えていくだろう
『間 (ma, aïda, …)』は東京芸術劇場へ来日公演の予定だったがコロナ禍で延期に。ぜひ実現して欲しい。

その2:舞台美術は時間を作る

●時間は止められない

舞台上にはふたつの時間が流れている。実際の時間と、作品中の時間だ。

前章の「世界を作る」は現在を水平の時間軸に押し広げているわけだが、垂直の時間軸に沿って見せる舞台美術もある。

時間という目に見えないものを表現する上で、舞台美術はきわめて重要である。
落ち続ける砂や水を、それぞれ砂時計・水時計の象徴として使うことは多い。
これは見た目も美しく、落ちる音もまた効果的だからだ。

もろに時計を出す場合もままある。
『シンデレラ』などはその代表例だが、マシュー・ボーン版ではタイムリミットとなる夜中の十二時を、第二次世界大戦中のロンドンの爆撃の時間と重ねた物語を作った。

先述の「廻り舞台」も、回転し続ける舞台美術が「一方向に流れ続け、決して元には戻らない」という時間の本質、さらには「後戻りできない心理」をも表現することがある。

大駱駝艦『罪と罰』では舞台中央に一定の速度で回り続ける舞台美術があった。
老女を殺して金を奪った取り返しのつかない主人公の過去の罪から、常に追い立てられている心理状態と重なっていた。

NDT(ネザーランド・ダンス・シアター)の来日公演で上演されたソル・レオン&ポール・ライトフット『シュート・ザ・ムーン』も優れた廻り舞台の使い方だった。
回転する3つの部屋で3組のカップルの恋愛模様が描かれるのだが、ドア越し・窓越しに他のカップルへの秋波が送られていく。

許されぬ愛、しかし回り続ける舞台のごとく、止められない想いはつのるばかりだ(そもそもタイトルは「月を撃つ=不可能なことに挑戦する」という意味だし)。
舞台上空には大きなモニターがあり、様々なイメージが描かれる。

そして最後には、舞台上で抱き合う相手とは別の男性とモニターでキスする映像が流れる。本音と建て前なのか、心と身体は違うのか、したたかな恋愛模様を粋に締めくくっていた。

●できたての廃墟で踊る

驚愕の方法で「時間の経過」を見せたのがピナ・バウシュ『パレルモ、パレルモ』である。

幕が開くと舞台中央に石(のように見える)でできた壁がある。高さ5メートル×幅14メートルもあるガチな壁だ。
この壁がどうなるか。

なんと開始早々、ドーンと倒れてしまうのである。
耳を聾するばかりの轟音と、身体を揺るがす激震が観客を襲う。
あの劇場の空気が凍り付いたような数秒間は、いまでも鮮明に思い出すことができる。

本作は長年来日を切望されていたが、床への衝撃があまりに凄まじいため日本では耐えられる劇場がなかなか見つからなかった。
ただひとつ昭和音楽大学内にある劇場が、謎の強度をもっていたおかげで実現したのだ。
ありがとう強度。

さて、この壁倒壊によって何が起こるか。
舞台上が一瞬にして瓦礫の山と化すのである。ダンサーたちは出来たてホヤホヤの、足場の悪い廃墟の上でパフォーマンスをすることになる。

パレルモはシチリア島の美しい港湾都市である。交通の要所でギリシャ・ローマ時代からイスラム勢力やキリスト勢力双方に占領され、19世紀にシチリア王国、20世紀にはイタリアの一部となった。
そして第二次世界大戦時、連合軍による上陸作戦のさいに苛烈な爆撃と砲撃を受け、多様な文化に育まれた美しい街並みはまさに瓦礫の山と化したのだった。

もしも幕が上がったとき、はじめから瓦礫の舞台美術がセットされていたら、おそらくなにも伝わってこなかっただろう。
しかし観客の身体には、立派に建っていた壁が倒壊する轟音と振動が刻み込まれてしまった。それはずっと残り続ける。

舞台美術は後ろで作品を支えるだけではないのである。
ときに舞台を飛び越えて観客に衝撃を与え、身体に宿り続けることもあるのだ。

ちなみに昭和音楽大学は普段こういう公演をしていないので、何人かの観客は間違えて駅の反対側にある別の劇場に行ってしまっていた。
あわてて引き返してきたときはすでに壁は倒壊した後で、別の種類の衝撃が胸に刻みこまれることになったのだった。

その3:舞台美術はコンセプトを作る

●読み取らせ、攪乱する

すでに見てきたように、舞台美術の役割は、多様化している。
なかには舞台美術が、そのまま作品コンセプトを体現している場合もある。

見事だったのがダムタイプの初期の代表作『pH』である。
初演はインターネット登場前夜、パソコンが急激に普及しはじめていた1990年だった。

舞台には照明を取り付けたバーが往復する巨大なコピー機の読み取り装置を思わせる舞台美術が設置されている。
ダンサーたちはバーの上や下を、軽やかに越えていく。いくらテクノロジーが進んでも、人間の身体は複製可能なものに収斂されないのだ……そんなクリアなコンセプトに感心して見ていると、最後の最後に大量生産品の最たるブタのおもちゃが大量にブヒブヒと歩いてきて床を埋めてしまう。
大量生産品でもクソ可愛いじゃねえか! と一本取られたのだった。

何かを否定して終わるのではない。多角的な視点を観客に提供するのもアーティストの使命である。『pH』はそれを舞台美術だけで見事に展開していった。

●舞台美術から作品が生まれる

美術家とのコラボレーション作品もときどきある。
近年傑出していたのがベルギーのダンサー・振付家ダミアン・ジャレと、現代美術の名和晃平の美術のコラボレーション『Vessel』である。

片栗粉などの粉を一定の割合で水と混ぜると不思議な挙動をするようになる。ゆっくりと踏むとズブズブと沈み込むが、急激な圧力に対しては固体のように振る舞うので、上を歩くことができる。「ダイラタンシー」という現象だ。
それと同じような物質で満たされた「白い沼」が舞台中央にある。

登場するダンサー達も異形だ。首を思い切り前に倒し、両腕でグッと挟み込んでいるので、首のない不気味な生物、奇妙な肉塊のように見える。
森山未來など豪華なダンサーが出演しているが、終始「ヘッドレス」の状態なのだ。

静謐な世界の中で身体が歪んでいく作品は強烈で、美術と身体が互いの強度を保ったままがっちり噛み合う希有な例だった。

●勅使川原三郎の美術

勅使川原は自ら舞台美術も手掛け、過去作品の美術を集めて海外で展覧会が催されるほど評価も高い。

本物のガラスを砕きその上で踊って倒れ込んだり(『月は水銀』『ガラスノ牙』)、壁一面にページを開かれた本がぎっしりと並んでいたり(『Bones in Pages』)。
かと思うとパイプオルガンとの共演イベントで、中から光を放つ木製の神々しい立体オブジェを作っていたが、よくよくみると箱馬(舞台裏で使う小道具)を組み合わせたものだとわかって驚いたりと、舞台美術はセンスひとつでどうにでもなるのだなと感心させられた。

妙な予算がついて無駄に金だけかけた空虚な美術の舞台がたまにあるが、全員が馬鹿に見えるのでホント可哀想である。

その4:舞台美術は動きを作る

●「縦回転」が生み出す動き

舞台美術はなによりも安全が最優先である。どんなに素晴らしくてもダンサーが怪我をする危険性があるものは許されない。

だが前回の「ダンスと衣裳」で見てきたように、「ダンサーに負荷をかけることで動きを生み出す美術」もあるのだ。

廻り舞台は水平な回転だったが、なかには縦方向の回転もある。
ブラジルのコンテンポラリー・ダンス随一の人気を誇るデボラ・コルカー『ルート』はその代表作だ。ダンサーは、鉄枠で作られた回転する観覧車の横棒につかまることで様々なポーズを取っていく。

解散してしまったがツィメルマン&ペロー『HANS WAS HEIRI』はもっと徹底していて、隣接した四つの部屋が回転する。床は壁に、壁は天井に変わり、部屋を繋ぐドアは落とし穴になる。転ばぬよう落ちぬよう懸命に耐えてバランスを取ろうとする動きが、すでにダンスになっているのだ。

もうひとつの作品『Öper Öpis』では、舞台全体の床がグラグラに揺れる。不安定な足場で踊らせる作品を創る人はいるが、舞台全体を揺らして見せたのは見事だった。

サーカス・アーティストはダンサーとはちょっと違う身体の強靱さを持っているので、負荷をかける・限界に挑戦するのは得意なのだ。
繰り返すが重要なのは、単に危ないことをすることではなく「危機に直面する身体」を見せることなのである。

フランスのサーカスセンターには、溶接機械などを備えた町工場のような施設がついている。
「舞台美術から発想して作品を創る」ことが、多くの新しい表現を生んでいるのだ。

●「無限への落下者」ヨアン・ブルジョワ

そんな現代サーカス最大のスターでダンス界からも高く評価されているのがヨアン・ブルジョワである。
オレはパリで見ていっぺんに魅了され、長らく来日を切望していたが、2019年にSPACが『Scala –夢幻階段』を招聘してくれた。

「階段を登っては落ちる……そして再びスウッと階段上に戻ってくる動画」がネットでバズっていた、アレだ。

映像作家ルイーズ・ナルボニと共作した映像作品『グレート・ゴースト〜偉大なる幽霊たち〜』では、パリのパンテオンで、先の階段落ちや、優雅な起き上がりこぼしなど独特な舞台美術と一体化した奇妙な5つのパフォーマンスが行われる。

とくに「高速回転する床の上でダンサーがパフォーマンスをする」のは、『Celui qui tombe(He who falls)』という作品で見られる。しかし回転は、この作品中で床を使う方法の一部に過ぎない。ときに「床」がパフォーマーへ襲いかかったりするのだ。
ぜひとも来日を待ちたい。

ちなみに「動きにくい舞台美術ナンバーワン」は、ピエトロ・マルーロ『wreck』である。
舞台上には、黒く四角い巨大なバルーンが舞台のアクティングエリアの大部分を占めて、ダンサーにとっては邪魔でしょうがない。
嵐のような音響のなか、ダンサー達はバルーンの陰から不意に現れたり、呑み込まれるように見えなくなる。なぜか全裸だ。タイトルは「難破」という意味もあり、バルーンは人が抗いがたい厄災そのもののようなコンセプトを具現化していた。

美術=劇場=作品

●「舞台美術の究極の形」とは?

以上、舞台美術の4つの役割について述べてみた。
ここからはそれ以外の視点から、いくつか見てみよう。

舞台美術の究極の形とはなんだろうか。
それは「作品のために劇場そのものを作ってしまう場合」かもしれない。

さすがにそれは無理だろ……と思うことをやってしまったのがシルク・ド・ソレイユである。残念ながらコロナ禍で破産の報道がされたが、それ以前に経営は創業一族から中国系資本に移っていた。結果、同工異曲の作品ばかりになっていたが、初期は根本的なクリエイティビティがあったのである。

シルク・ド・ソレイユはカナダのカンパニーで、ブレイクのきっかけとなったのがラスベガスでの大成功だった。多くのカジノが劇場を持ち、家族で楽しめるショウを売り物にしていく波にうまく乗ったのである。

とくに話題になったのが、『O(オー)』『KÀ』
筆者は幸いにも最前列近くで見ることができたが、度肝を抜かれた。
『O』は舞台にシンクロナイズドスイミングができるくらいの深さのプールがあり、見事な水中パフォーマンスが展開する。
かなりの量があるはずなのだが、その水がなんと一瞬で床に吸い込まれ、普通の舞台になってしまうである。

『KÀ』はカナダを代表する演出家ロベール・ルパージュの演出。
この劇場には「舞台の床」というものがない。全てが空中で行われるからだ。
巨大な船が宙を飛び、サーカスの空中技が出てくる。そしてとにかく人がバンバン落下する。もちろん下にネットが張ってあるのだが、落ちていく人間を間近で見るのは、やはりヒヤリとしたものだ。

アーティストにしても、作品のために劇場を作るのは究極の夢のひとつだろう。
この無謀なプランが可能になったのは、ラスベガスという街の特殊性が大きい。
それは「毎日フレッシュな客が山ほど来る」ことだ。ひとつの演目をやり続けていても、初見の客が大量に供給され続けるので飽きられることがない。しかもここでしか見られない。見たければ来るしかないわけだ。
数億円かけて劇場を作っても、昼夜2000席が連日満員になれば、あっという間に元が取れてしまう計算だ。

●劇場=美術

だが日本にも「劇場=美術」の成功例はあった。
主宰の松本雄吉死去とともに解散した伝説の劇団「維新派」である。

維新派は、野外演劇の雄。なにもない場所に巨大な劇場を建て、1ヶ月ほど上演し、更地に戻して釘1本残さずに去る、という常識外れの上演形態を取っていた。
もちろん膨大なスタッフと役者は、劇場の横にプレハブなどで宿泊施設を作って泊まり込み、終演後に観客と一緒に焚火を囲んで飲み食いする。やがて周囲には戦後の闇市のごとく屋台村ができ、これも含めて作品の舞台美術として機能していた。

劇場のブラックボックスの制約からは解放されており、舞台美術も小さな町内をまるごと造るくらいの勢いだ。松本は自らのスタイルをジャンジャン・オペラと称し、歌とダンスもてんこ盛り、そのダンスもいわゆる「うまいダンス」とは違う彼ら独特の動きが、またたまらない魅力だったのだ。

伝説は数々あるが、今はビル街の東京の汐留がまだ「旧国鉄汐留貨物駅の広大な跡地」という「都心の闇の中」だったときに上演された『少年街』、びわ湖に開け放った形で舞台を組んで借景とし、湖の向こうから怪しい者が来訪する『呼吸機械』、明治政府によって銅精錬所が造られるも瞬く間に引き上げられリアルな廃墟だらけの岡山県・犬島での『カンカラ』『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』など、「人生に一度の体験」がゴロゴロあった。

もちろん仮設舞台での公演やテント公演など「劇場=美術」は他にもある。
しかし巨大なスケールなのにアングラの精神を失わない維新派は別格だった。すべては松本雄吉という、人が集まる磁場があってのことで、ああいう舞台は、もう二度と体験できないだろう。

舞台美術の未来は

●舞台美術とエコ

では、これからの舞台美術はどうなっていくのかを考えてみよう。
一概には言えないが、無視できない動向として「エコ」がある。
最近のアーティストは環境への意識が強まっているのだ。

ジェローム・ベルは2019年に「大量の燃料を使い環境を汚染する飛行機での移動が必要な公演を拒否する」と宣言。
これに賛同する声も多く、あるカンパニーはツアー先でメンバー全員で話し合い、帰りは列車を乗り継いで帰ってくるなど、静かな広がりを見せている。

たしかに舞台美術は、終わってしまえば基本的に棄てられる運命であり、エコとは言い難い。
保管するにも経費がかかりすぎ、そもそも再演のあてがある作品はごく一部。その場合も新しく造った方が安くすんだりする。

バレエには専門の舞台美術の貸し出し業者があるが、それが成り立つのは「演じられる作品が決まっている」「上演機会は結構多い」「ほとんどが数日の公演なので、造るよりも借りた方が安くてクオリティも高い」等の独特な環境のためだ。

舞台美術の代わりに映像でやればいい、と思うだろうか。
アメリカは実際そうなっており、舞台の背景に映像を流して、ダンサーが出たり入ったりして踊る、といったスタイルがけっこうある。ツアーも負担が少なくて済むので、有名カンパニーでも採用している。

ただその場合は、映像がよほど作品のコンセプトと深く関わって考え抜かれている必要がある
単なる美しい映像を舞台美術の代わりに使っているだけでは、どうしても「カラオケ映像で踊ってる人たち」に見えてしまうのだ。残念ながらアメリカのカンパニーには非常に多く、どんな劇場も公民館と化してしまう

プロジェクション・マッピングやVRも、機材をそろえてセッティングするには結構な手間と金がかかるので、舞台美術として誰もが普通に使えるようになるのは、まだ先だろう。

もちろん映像とダンスの共演作品は多々あるが、それは別の機会に述べよう。

●ゴミを出さない、作り置きも

舞台美術を持ち歩くのではなく、ツアー先で調達して作る場合もある。
現地で大量の雑誌や新聞紙や段ボールを破って舞台に敷き詰めるなど。
山田うんの初期作品『ハイカブリ』では梱包用の白いビニール紐を大量に使って舞台上空から垂らし、雪にもガラスにも見せた。ツアー先のドイツでは「梱包アーティスト」と呼ばれていたそうだ。

また一時期流行した「ジャンク・アート」、つまりゴミを美術品として再利用する場合もある。
山海塾の初期代表作『金柑少年』も初演の頃は、築地魚市場で棄てられている大型魚の尻尾の切れ端を大量に壁に貼って舞台美術としたが、当然に傷んで匂いがすごかったとか。

オランダのナニーニ・ライニング『クライ・ラブ』では観客が舞台裏から入り舞台を通って客席に着くのだが、舞台上には何人もの半裸の人間が逆さ吊りになっている。これはもっとも「ゴミの出ない舞台美術」かもしれない。

ルーマニアを代表するシルヴィウ・プルカレーテの作品は、彼が拠点にしているラドゥスタンカ国立劇場を擁するシビウ国際舞台芸術祭の目玉として上演される。演劇だが、非常に強い身体性で、ダンスの目から見ても傑出している。彼の作品は劇場のレパートリーとなっているので日替わりで何作品でも上演が可能なのだ。
このあたり、新作主義の日本の舞台芸術とは違う。

プルカレーテの舞台は大がかりで強烈な舞台美術でも有名だが、なかでも『ファウスト』はすごかった。
物語の後半で舞台美術の一部が割れて通路ができる。観客は席を立って奥へ進むよう促される。

するとそこには全く別の空間が広がっているのである。
火がバンバン焚かれ、妊婦のような女が腹からスイカを出して床にたたきつけ、と狂乱の限りが尽くされる。まさに魔女達の祭り「ワルプルギスの夜」が展開するのだ。

が、ひとしきり終わるとまた元の座席へと歩いて戻らされ、何事もなかったかのようにパフォーマンスの続きが行われる。
観客はリアルに魔界から現世に帰ってきたような、悪夢から覚めたばかりのような、不思議な体験に陶然となるのだ。
「世界を体感させる舞台美術」なのである。

そしてこれは劇場ではなく郊外の廃工場を改造した大がかりな舞台美術であるのがポイントだ。
『ファウスト』を演じるときだけ、観客はバスに乗せられてここに連れてこられる。舞台美術はそのままで、公演のないときは放置されているのだ。

専用劇場は大変でも、廃工場なら足立区や葛飾区にもいっぱいあるので、オススメしたい。床は重量に耐えるコンクリート製だし、備え付けのクレーンを使えばエアリエルも可能だ。
ただ近年『ファウスト』の場所も取り壊されたとの情報もあったので大変だろうとは思うが……。

●シンプルだけど、ガラリと変わる

最後に海外の舞台美術についていっておくと、とくにヨーロッパの舞台美術は、あまり説明的・具象的なものは少ない
むしろ一見すごくシンプルに見える。だが作品が進行していくと、ある瞬間に、完璧なタイミングで、ガラッと様相を変える。堅いと思っていたものが割れたりフニャフニャだったり、まったく別のものになったり。そこは本当にセンスで、呻らされることが多い。

日本の若手は、抽象的な美術を使う際に、わりと「抽象的なモノ」として扱う以上にならないことが多い
抽象的な存在が、ふっとパフォーマーの内面と結びついたり、ああこれはここでテーマと繋がるのか、と観客の心が沸き立つミラクルが起こらなければ、舞台美術はそこに立っているだけの存在に過ぎない。

ときにダンサーの身体を包み、ときにダンサーの存在や内面を舞台いっぱいに拡張する。
舞台美術は、エネルギーを「美術→ダンサー」へ発するのか、「ダンサー→美術」と受け止めるのか、場面ごとに変わるその役割を理解している必要があるのだ。
舞台美術が真に輝くのは、そういうときだ。

すでに何度か書いているように、現代の振付とは身体の動きを創るだけでは足りない。舞台空間全体の演出・設計まで振付家の仕事なのである

何も舞台美術を置いていない、素の舞台で踊ることもあろう。
しかしそれでも、そこには床があり壁があり天井がある。屋外ならば景色がある。
身体はつねに、周囲の環境と互いに影響を与え合うなかで存在しているのである。

中には舞台奥のスクリーンも上げてしまい、後ろの壁や搬入口や掃除道具などをあえて見せて、「剥き出しになった舞台空間」をダンスとリンクさせる作品もあるだろう。

初めのうちは自分の身体をいかに動かすかを考えるのもいい。
しかし意識を「外」に持ち、自分の身体が周囲によって「動かされる感覚」を持つことで、踊る世界が何倍にも広がっていく

身体の周りにあるもので、無意味なものなど何ひとつないのだ。

身体の動きにしか目がいかないようではいかん。
総合芸術であるダンスの、最も大きな空間を占める舞台美術との関わり方を、若いアーティストはもっと意識的に、分析的、構造的に考えてみてくれ。

先人達が切り拓いてきたダンスの表現の地平は、君たちが思うよりも、もっともっと広大なものなのだ。

□ ■ □

さて次回は「ダンスと照明&映像」である。
舞台におけるヒカリモノ。
これまた重要さを理解せず「照らすか照らさないか」程度の認識しかないアーティストが多くて舞台の魅力を生かし切れていない分野である。
なので、さらに力を入れて語っていきたい。

★第8回は2020年10月10日(土)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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