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英国バレエ通信〈第32回〉英国ロイヤル・バレエ「ライク・ウォーター・フォー・チョコレート」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「ライク・ウォーター・フォー・チョコレート」

日本の新国立劇場バレエ団が『不思議の国のアリス』を上演していたのと時を同じくして、英国ロイヤル・バレエはクリストファー・ウィールドンの待望の新作『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』を上演し、2021/22シーズンを締め括った。

ウィールドンにとっては、2014年に初演された『冬物語』に続いてロイヤル・バレエでは3作品目となる全幕ものの物語バレエ。『不思議の国のアリス』以来のコラボレーターである作曲家ジョビー・タルボットとデザイナーのボブ・クローリーというお馴染みのチームが再結集した。メキシコ人作家ラウラエスキヴェルによるベストセラー小説のバレエ化にあたり、エスキヴェル本人と、メキシコ人指揮者のアロンドラ・デ・ラ・パーラ(公演でも指揮を担当)もアドバイザーとして協力し、メキシコ文化に敬意を払いつつ、どこまでもオリジナルで新しい形のドラマティック・バレエが誕生することになった。

作品タイトル『Like Water for Chocolate』は、原題『Como agua para chocolate』(チョコレートを溶かす水のように)の英語の逐語訳。南米ではホットチョコレートを作るためにぐらぐらと煮たったお湯を使うことから、〈感情的に熱く沸騰したような状態にある人や物事〉を表す慣用句として使われ、転じてオーガズムを表すこともあるという。原作小説と映画の邦題『赤い薔薇ソースの伝説』は、小説の中の一場面に登場するウズラの薔薇ソース添えという料理にちなんでいるが、煮えたぎるような感情をうちに秘めた人々を描く作品のタイトルとしては、やはり原題の方がしっくりくる。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

原作は、1年のカレンダーに沿った12章構成で、ひと月ごとに料理のレシピとともにそれにちなんだ物語が展開する。登場人物も多く、世代を超えて展開するストーリーは精緻なタペストリーのようで、そもそもこの複雑な小説をバレエ化しようと考えたウィールドンの慧眼と勇気にはただただ感心してしまう。

ウィールドン自身、この作品はあらすじを読んでから観てほしいと言っていたが、幕が開くとすぐに、「末娘は結婚せず母親が死ぬまで面倒を見なければならない」という主人公一家のしきたりがスクリーン上に手書き文字で映し出される。キッチンで生まれた主人公のティタは、その不条理な伝統のために恋人ペドロとの結婚を許されず、母親エレナは、残酷にも姉のロサウラとの結婚を提案。ペドロは心から愛するティタのそばにいるためにロサウラとの結婚を承諾し、心打ち砕かれたティタは、自らの抑圧された感情を込めた料理を通じて、ペドロと交感していく。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

あらすじを読んでいれば舞台上で展開される物語の大筋は追えるはずだが、この作品に限っては、事前に原作小説を読んでいく方がより楽しめるだろう。ウィールドンが取った手法は、物語を原作通りになぞるのではなく、抽象バレエのような詩的なイメージを散りばめることで物語の本質を浮かび上がらせるような、物語バレエに対するコンテンポラリーなアプローチ。豊かな言葉で語られる物語が頭に入っていればなお、舞台上の表象から、観る者のイマジネーションがさらに広がっていくことだろう。

具体的には、12章構成の小説を3幕構成のバレエ作品にするため、数多くの登場人物たちの中から、特にティタ、ペドロ、母エレナ、そして姉のロサウラとヘルトルーディス、ティタに思いを寄せる医師ジョンの6人の関係性に焦点をあて、数あるエピソードの中からも、彼らのキャラクターがはっきり浮かび上がるようなシーンを厳選。さらに、小説に登場する象徴的なイメジャリーをそこかしこに散りばめた。

例えば美術においては、小説内にたびたび登場するクロシェ編みの巧みな取り入れ方が興味深い。1幕では、幕開きに登場する黒い伝統衣装に身を包んだ女たちが、舞台後方に一列に並んで座ってせっせと編み棒を動かし、彼女たちの前で物語が展開するにつれクロシェ編みがどんどん長くなっていくのだが、1幕の終わりにはそれが背景幕ほどの巨大な大きさになっており、ティタはそれをマントのように纏って支配的な母親の住む家を出る。料理やクロシェ編みなど、母親の言いつけ通りのことだけをして生きてきたティタが、母親の住む家で過ごしてきた長い時間の重みを背中に背負って新しい人生に一歩を踏み出すイメージは、ともすると小説の同場面を凌駕する鮮烈さだった。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

振付も、バレエの様式美をベースとしながらも、同時にそこから解放されたラインが、登場人物たちの感情の迸りを巧みに表現している。また、男女が心を通わせていく場面で繰り返される、ニジンスカ振付『結婚』を彷彿とさせる頭を重ねていくアイコニックな造形や、ティタの抑圧された情熱を象徴するようなフレックスの足、髪の毛で首を絞めることで文字通り表現されるティタの絶望など、それぞれの登場人物のライトモチーフとなるような動きが心情を鮮やかに浮かび上がらせ、さらにそうした象徴的な動きを、次の世代が繰り返していく。家族という命の繋がりやその呪縛について考えさせられる、示唆に富んだ振り付けだった。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

また、不思議な現象があたかも普通のことのように起こるマジックリアリズムの原作小説において鍵となるのが、料理。ティタの作る料理を食べた者は、料理中のティタの感情をそのまま経験し、それがカオスを引き起こす。ティタの料理の魔法のような効果を描写するダンスの中でもとくに印象深かったのは、一家の料理人である年老いたナチャが、ティタの涙が入ったウェディングケーキを味見して、かつての恋人を思い出す場面。その悲しみに耐えきれず命尽き果てる瞬間、魂が身体から抜け出すさまを象徴する動きが秀逸だった。

いっぽう、ティタがペドロからもらった薔薇の花びらを入れた料理を食べて姉ヘルトルーディスが発情するシーンでは、テーブルの下から胸をはだけた男性ダンサーたちが登場し、服を剥ぎ取ったヘルトルーディスが露骨なまでに艶かしいポーズを繰り返す。ウィールドンとしては意図的にコメディのような効果を狙って、ブロードウェイのエクストラバガンザ的な場面を想定していたのかもしれないが、この場面だけが他と比べて異質で浮いていた印象は否定できない。シーンの終盤で、裸のヘルトルーディスが、その身体から放たれる薔薇の香りに引き寄せられた革命軍兵士フアンに拾われ、ワイヤー製の馬に乗って上下に揺れながら退場する場面では、座っていた席の前後左右から失笑が漏れていた。(個人的には、ウィールドンならば、性の目覚めをそれこそ現代版の『薔薇の精』のようにしてもっと詩的に描くこともできたのでは、と思わずにはいられなかった。)

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』アナ=ローズ・オサリバン ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』アナ=ローズ・オサリバン、セザール・コラレス ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

他にも、農場労働者たちの生き生きとした群舞が見応えのあるロサウラとペドロの結婚式のシーン、ペドロとロサウラの子にティタが自らの母乳をあげる奇跡のようなシーンなど盛りだくさんの1幕だったが、その中でもとくに目を奪われたのが、眠れぬ夜にティタとペドロが干されたシーツの間で束の間の逢瀬をする場面。姉と母の目を恐れ、本来惹かれあっているふたりがお互いの身体に触れることなくお互いの身体を感じて踊るデュエットは、先述の薔薇ソースを食べたヘルトルーディスの発情場面よりもはるかに官能的で、独創的な造形に満ちていた。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

終幕、次世代となるペドロの娘とジョンの息子の結婚式で、ティタたちを苦しめた一家の伝統が崩れると、ティタとペドロは22年越しにやっと誰にも邪魔されることなく、ありのままの姿で向かい合う。火がついたふたりの情熱を表現したクライマックスのパ・ド・ドゥでは、お互いを慈しむ気持ちが高みに向かっていくさまが、流れるようなスパイラルやダイナミックなリフトの連続で表現される。メゾソプラノ歌手シアン・グリフィスが歌う、メキシコの詩人オクタビオ・パスによる『太陽の石』に基づいた歌にのせ、ふたりの感情と魂、肉体がひとつに溶け合い、文字通り燃え盛る火でできた雲のように昇華していくさまは、これまでに見てきたバレエの中でも最も忘れ難いラストシーンのひとつとなった。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』フランチェスカ・ヘイワード、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

今回の公演では、主役3組のキャストを全て鑑賞した。中でも初日に出演した第一配役のフランチェスカ・ヘイワードマルセリーノ・サンべは、抑圧された感情がほとばしるようなソロなど、どこまでも情熱的な表現で圧倒。クライマックスのパ・ド・ドゥでの、ふたりの感情の高まりが抽象の世界へと昇華されていく造形は神々しささえ感じさせ、涙を禁じ得なかった。

物語をよりリアルに描き出していたのが、久々の舞台復帰となった高田茜と、アレクサンダー・キャンベルのふたり。とくに高田は顔の表情と全身からセリフが聞こえてきそうなほどの精緻な演技が素晴らしく、キャンベルも苦悩や嫉妬、焦燥といったこれまでにない一面を見せてくれ、カップルとしてのバランスが一番取れているように感じた。

ヤスミン・ナグディセザール・コラレスのペアは、ふたりとも演技も踊りも達者なのだが、個人的にはケミストリーがあまり感じられなかったのが残念。コラレスは、ペドロ役よりもむしろ、初日に踊った革命軍兵士フアン役の方が似合っていたようで、短い登場シーンながら野生的なリズムに合わせたカリスマティックな踊りが主役を霞ませるほどの強烈な印象を残した。

主役ふたりよりもインパクトの強い役が、初日にラウラ・モレーラが演じた鬼母のエレナ。2幕では、彼女の過去の悲恋が劇中劇のようにして描かれ、ジュリエットのような情熱的な女性を演じたかと思えば、次の場面ではメキシコ独特の死生観を反映する亡霊となって、逆立った髪と巨大なドレスが強烈なインパクトを放つカリカチュアのような姿で登場。腕の角ばった動きなど、『不思議の国のアリス』のハートの女王役にも通じるこの役を、別日に怪演した金子扶生の振り切れた演技も圧巻だった。

英国ロイヤル・バレエ『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』ラウラ・モレーラ、マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

メキシコ建築の巨匠ルイス・バラガンにインスパイアされたというテラコッタ色の梁とナターシャ・カッツによる時の流れを表現する照明のコントラストや、オカリナやパーカッション、ギターなどメキシコ特有の楽器による音色がメキシコの空気を感じさせながらも、ステレオタイプを表面的になぞることに終始せず、20世紀前半のメキシコ文化を尊重しながらそこにとらわれない独創的な世界を生み出した『ライク・ウォーター・フォー・チョコレート』。大人向けの作品であることは間違いないが、料理に代わってバレエという魔法が描く普遍的な愛と家族、伝統と解放、そして傷と癒しの物語は、多くの現代人が共感できるものであり、そのモダンなアプローチが、未来に向かう物語バレエの新たな可能性を提示してくれたように思う。

★次回更新は2022年7月30日(土)の予定です

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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