バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 観る
  • 知る
  • 考える

英国バレエ通信〈第29回〉〜英国ロイヤル・バレエ「白鳥の湖」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「白鳥の湖」

数え切れないほど観てきた『白鳥の湖』だが、こんなにもさまざまな思いが交錯するなかで観た舞台は、これまでになかったように思う。前回筆者がロイヤル・オペラハウスでリアム・スカーレット版『白鳥の湖』を観たのは、ロックダウン直前の2020年3月上旬。開幕からほどなくして、多くのダンサーが初役デビューを控えていたにも関わらず、ロイヤル・オペラハウスはその扉を長期間閉ざすこととなった。あれから世界はまるで変わってしまったが、そんな『白鳥の湖』が2年ぶりに劇場に戻ってきてくれた。

2022年2月末にほぼすべての新型コロナ関連規制が緩和されたこともあって、3月4日のオペラハウスは、自由を謳歌する観客の熱気であふれかえっていた。開演前の舞台には、ケヴィン・オヘア芸術監督が登場。満席の劇場に静寂が訪れ、ウクライナ国歌『ウクライナは滅びず』が場内一斉起立で演奏された。オペラハウスに響きわたる哀愁に満ちた音楽は、どこまでもロシア的なこのバレエ作品の序曲のようでもあり、男性ダンサーの軍服風の衣裳や、女王の側近として王冠を我が物にしようと企むロットバルトといったこの版独自の設定に、図らずも新たな文脈が加わったことを告げているかのようだった。また、この作品の悲劇的な結末に、1年前のリアム・スカーレットの若すぎる死を重ねずに観ることも難しいだろう。

ウクライナの国旗の色にライトアップされたオペラハウス @Ayako Jitsukawa

3月4日の主演は、2年越しのオデット/オディール役デビューを飾る金子扶生と、ノーザン・バレエ芸術監督就任が決まり、今回の『白鳥の湖』でロイヤル・バレエを退団することになったフェデリコ・ボネッリ。2年前と同じようにこの作品を観ることが叶わなくなってしまった哀しい現実のなかで、私たちの晴れない心を浄化してくれるかのようなふたりの踊りは、神々しささえ感じさせた。金子は、2年間待ち続けた間にも表現を磨き続けていたのだろう、デビューとは信じがたいほどの完成度の高いオデット/オディールを披露。バレリーナを美しく見せる術を知り尽くしたボネッリが、そんな彼女の大輪の花のような魅力を花開かせ、奇跡のような舞台を生み出した。

金子扶生とフェデリコ・ボネッリによる『白鳥の湖』リハーサル風景

金子のオデットは、女王然とした気高さと威厳を感じさせる中に、さり気ない首の傾きや繊細な指先の使い方で優美な白鳥らしさを表現。なかでも第2幕のグラン・アダージオは、恐る恐る王子の手を取ったオデットが、躊躇いながらもしだいに王子に心を寄せていく過程が丁寧に描かれていて秀逸だった。とくに後半で見せた、哀しみを湛えながらも微笑んでいるような、えもいわれぬ表情が印象的。王子の腕の中にいる今この瞬間の幸せを噛み締めているかのような、人間味を感じさせる白鳥に深い感動を覚えた。いっぽう黒鳥は、期待を裏切らない艶やかかつダイナミックな踊り。ソロでは、音楽に完璧に調和したトリプル・ピルエットなどで抜群の安定感を見せ、頭上高く上がるア・ラ・スゴンドの美しいラインで魅了。コーダの32回転のグラン・フェッテ・アン・トゥールナンでは、前半片手を上げながらダブルを連続で入れ、スピード感あふれる回転に客席の興奮は最高潮に達した。

対するボネッリは、1996年にローザンヌで『白鳥の湖』のジークフリートのソロを踊った時から26年経ったとは信じがたい瑞々しいエネルギーを湛えつつ、気品と洗練、そして風格を感じさせる踊り。先日ウェイン・マクレガーによる新作で引退したエドワード・ワトソンとは対照的に、44歳で究極のクラシック作品で引退するということそのものが、キャリアの最後の最後まで、ロミオ役や王子役を含めたあらゆる役柄を万能に踊りこなしてきたボネッリらしいダンサー人生の終え方と言えるだろう。人間の繊細な内面を自然体で描き出し、物語を雄弁に語る力。エレガントな王子らしい振る舞いの中に滲む、観る者に親しみを感じさせる人間らしさ。女性ダンサーたちへの配慮にあふれる磐石のサポート。一見派手な技巧こそないかもしれないが、ステップの一つひとつを丁寧に繰り出すことで生まれる優美で洗練された踊りには、長年のキャリアを通じて熟成された、ボネッリにしか出せない味わいがある。これぞロイヤル・スタイルと思わせてくれる品格あふれる第3幕のソロの後では、長い長い拍手が続いた。

この日は、主演のふたりを盛り上げるようにして、助演陣も大健闘。とくにメリッサ・ハミルトンとともに王子の妹の王女役を演じた佐々木万璃子は、音楽性の豊かさ、優美なアームス、小気味よく、時に流れるようなフットワークが際立っており、ソリスト昇進も近いと思わせる華があった。産後復帰して間もない崔由姫も二羽の白鳥役で登場し、相変わらずの類い稀な音楽性で魅了(別日には王子の妹役も好演)。12組もの男女ペアが登場するスカーレット版独自の第1幕のワルツとポロネーズは、初演時には複雑な振付やフォーメーションに戸惑っているようなところも散見されやや煩雑な印象があったのだが、今回はダイナミックなリフトや弾けるようなジュテ・アントルラセが音楽と見事に調和し、見応えのある群舞が展開した。

カーテンコールでは、主演のふたりを指導したゼナイダ・ヤノウスキーやアレッサンドラ・フェリをはじめとするかつて共演したパートナーのほか、モニカ・メイソン元芸術監督、ケヴィン・オヘア芸術監督、ウェイン・マクレガー、現プリンシパルたちが花を持って登場。オヘア監督は、ボネッリを体現する言葉として、マクレガーの作品タイトルにもなった「幽玄」を挙げてこれまでの彼の功績を讃えた。さらに、ロイヤル・バレエのダンサーだった妻の小林ひかると愛娘のジュナちゃんも登場。これまでお世話になった人々に感謝の言葉を伝えるボネッリの誠実な人柄に、あらためて心打たれる引退セレモニーとなった。今後オペラハウスでオデット/オディール役を数え切れないほど踊っていくだろう金子と、最後にダンサー人生の集大成としてのジークフリート王子を踊ったボネッリの一期一会の舞台。亡きリアム・スカーレットにも、このふたりによる『白鳥の湖』だけはその目で見届けて欲しかった、と思わずにはいられなかった。

★次回更新は2022年4月30日(土)の予定です

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

もっとみる

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ