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英国バレエ通信〈第23回〉〜ロイヤル・バレエ「Beauty Mixed Programme」/ベアトリス・スティックス=ブルネル引退

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「Beauty Mixed Programme」/ベアトリス・スティックス=ブルネル引退

2021年7月11日は、英国ロイヤル・バレエの2020/21シーズン最後のプログラム「Beauty Mixed Programme」の千秋楽だった。もともと初日の様子について書く予定だったところを、最終日にも足を運ぶことにしたのは、ファースト・ソリストのベアトリス・スティックス=ブルネルのラストステージを見届けたいと思ったからだ。

9月から母国アメリカのスタンフォード大学に入学するため、ダンサーとして脂の乗り切った28歳という年齢で、今シーズン末でのロイヤル・バレエ退団とダンサーとしての引退を発表したスティックス=ブルネル。入団して間もないコール・ド・バレエの時に『不思議の国のアリス』の主役に大抜擢されて以来、飛び級で瞬く間に昇進し『パゴダの王子』のローズ姫、『くるみ割り人形』の金平糖の精、『冬物語』のパーディタ、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『ザ・チェリスト』のタイトルロールなど、数々の主役を踊ってきた。そんないつプリンシパルに昇進しても不思議ではない期待のダンサーが、怪我もしていない状態で、まだ20代のうちにバレエとは全く違う道に進むというのは、ロイヤル・バレエではほとんど前例のないこと。記憶に新しいのは、2009年に同じ28歳で引退し、コロンビア大学に進学した元プリンシパルのアレッサンドラ・アンサネッリくらいだろうか。

『ジュエルズ』(バランシン振付)より「エメラルド」第1ヴァリエーションを踊るスティックス=ブルネル

周囲をあっと驚かせたスティックス=ブルネルの決断だが、じつはパンデミック前から長年温めてきた考えだったとのことで、SAT(大学進学適性試験)も、マチネ公演とソワレ公演の合間に舞台メイクのままで受験したらしい。「ダンサーのキャリアは必ずしも長くない、ということを常に意識していたので、再び勉強して大学に行くという考えはいつも頭の片隅にありました。[中略](長年バレエで培ってきた)メンタルにおける厳しい規律と、常に改善していきたいという欲求のおかげで、新しい人生に移行していくための準備ができたと思っています」

この日はロイヤル・バレエ設立90周年記念プログラムということもあって、開演前にケヴィン・オヘア芸術監督が登場して簡単なスピーチをし、その中でダンサー人生に終止符を打つことを選んだスティックス=ブルネルのバレエ団での11年間の功績を讃えた。ロイヤル・バレエに限らず、若くして退団するダンサーについて語られることは通常あまりないが、この日は、バレエ団をあげて彼女の新たな門出を祝福しようというポジティブな雰囲気に満ちていたのが印象的だった。(ちなみにオヘア監督が選ぶ彼女のパフォーマンスベスト3は、ジュリエット、アリス、そして『二羽の鳩』の少女役だそう)。

彼女のラストステージの演目は、クリストファー・ウィールドン振付『アフター・ザ・レイン』。7歳からスクール・オブ・アメリカン・バレエ、12歳でパリ・オペラ座バレエ学校に学び、わずか14歳でウィールドン率いるカンパニー〈モルフォーセス(Morphoses)〉のメンバーに抜擢され、そのロンドン公演でモニカ・メイソン元芸術監督の目に留まったスティックス=ブルネルは、17歳で異例の審査なしでのロイヤル・バレエ入団を果たした。そんな彼女のウィールドンに見出されて始まったキャリアが、ウィールドン振付作品で締めくくられるというのは、なんとも粋な計らいだ。「世界で最も優れた振付家のひとりであるクリストファー・ウィールドンと長年仕事を共にしてきたことで、振付家のヴィジョンを解釈し、動きを身体に取り込む私なりのやり方を確立することができたと思っています。いくつかの忘れ難い作品を一緒に生み出すことができました」

『アフター・ザ・レイン』は、ダンサーの内面を映し出すような、どこまでもシンプルで静謐な作品。英語では、白鳥は死ぬ前に最も美しい声で歌うという伝説から、アーティストの最後のパフォーマンスのことを〈スワン・ソング〉というが、スティックス=ブルネルの最後の歌は、まさにその言葉を彷彿とさせる、これまでになく優美で繊細な踊りだった。音楽も踊りもすべてがスローで、最後のダンスを永遠に空間に刻みつけようとするかのように、長い四肢がゆっくりと軌跡を描いてゆく。パートナー(リース・クラーク)に支えられてその腿の上に片足で立ち、何かを掴もうとするかのように腕を宙に差し出して天を仰ぐ場面は、この作品の中で最も美しい造形のひとつだが、あの場面での、まるでこれまでのダンサー人生に完全に満足し切ったような彼女のうっとりとした微笑みを、私はきっと忘れないだろう。

クリストファー・ウィールドン振付『アフター・ザ・レイン』を踊るベアトリス・スティックス=ブルネル(抜粋)

Instagramでのウィットに富んだ投稿からもわかるように、持ち前のユーモアでバレエ団のムードメーカー的存在だったスティックス=ブルネル。カーテンコールでは、エドワード・ワトソンやギャリー・エイヴィスなど、バレエ団を代表する男性陣による花束贈呈があり、彼女がいかにバレエ団から愛される存在だったかが伝わってきた。若くして才能を認められ、ロイヤル・バレエでアーティストとして成長し、この先もまだまだ踊れるはずの彼女が今ここでバレエをすっぱり辞めてしまうというのは、きっと彼女の踊りを知る誰もが心から惜しいと思っているはずだ。でもそれと同時に、彼女の勇気ある決断とまっすぐな生き方は、ダンサーに限らず、多くの人にインスピレーションを与えることだろう。「これまで、途方もない時間を身体を動かすことに費やしてきました。だからこそ、今後は可能な限り頭を動かすことに専念したいんです」と語る彼女の、好奇心の探究を心から応援したいと思う。

最後のパフォーマンスを終え、舞台を後にするベアトリス・スティックス=ブルネル

「Beauty Mixed Programme」は2021年8月8日まで以下のサイトで有料配信中(配信されるのは7月9日公演。マッツ・エック振付『woman with water』は含まれない)。視聴はこちらから。

※本文中で引用したコメントは以下の記事より拙訳:
https://news.stanford.edu/today/2021/07/20/royal-ballet-star-trades-stage-frosh-life-stanford/
https://www.theguardian.com/stage/2021/jul/05/beatriz-stix-brunell-royal-ballet

★英国バレエ通信〈第24回〉は2021年9月30日(木)公開予定です

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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