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【第20回】英国バレエ通信〜英国ロイヤル・バレエ「The Nutcracker Reworked」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「The Nutcracker Reworked」

英国ロイヤル・バレエのクリスマスの伝統である、ピーター・ライト版『くるみ割り人形』(1984年初演)。2020年11月5日から12月2日までイングランド全土で2度目のロックダウンが敷かれ、 解除後も警戒レベルが最高値の「3」となった地域では劇場が閉鎖されたままという状況のなか、ロンドンのオペラハウスでは、12月11日、なんとかその伝統を崩すことなく『くるみ割り人形』の初日を迎えることができた。ソーシャル・ディスタンシング対策に則った今回の改訂振付版は全17公演が予定されていたが、ロンドンではいつ警戒レベルが 「3」に引き上げられてもおかしくない状況にあったたため、観られるうちに観ておこうと考える熱心なバレエファンが多かったのだろう。チケットはほとんどの公演が平日マチネにもかかわらず発売から一瞬で売り切れた。

今回の公演は、ロイヤル・バレエが今年3月以降初めて一般客を入れて行う全幕公演。サーモグラフィーが設置された入り口を抜け、ポール・ハムリン・ホールに向かうと、例年この時期に設置されている大きなクリスマスツリーの姿はなく、開幕前に賑わうシャンパンバーも閉鎖されており、初日とは思えないがらんとした空間が広がっていた。

シャンパンバーが閉鎖され、人気のない開演前のポール・ハムリン・ホール

「使用禁止」と書かれたオペラハウス内のベンチ

通常2200人を収容する客席は、今回もソーシャル・ディスタンシング対策のため、観客数はわずか850人。それでも、指揮のコーエン・ケッセルスが登場すると、観客の少なさを感じさせないほどの大歓声が響き渡り、誰もが待ちわびたこの日、観客としてこの場に居られることの喜びをかみしめた。

オーケストラは72人から44人へと大幅に縮小され、合唱団の代わりにハープとチェレスタが舞台左手のボックス席に配置されていた点がユニーク。たしかに音の重厚感や奥行きは減ったかもしれないが、逆に一つひとつの楽器の澄んだ音を味わうことができ、チャイコフスキーの楽曲の繊細さが際立つ演奏が身体中に染み渡るようだった。

今回のコロナ対策に則って改訂された『くるみ割り人形』でまず目に止まったのは、子役の少なさだ。1幕ではクララの弟フリッツを含め子役はたった5人。プレゼントを受け取った後の場面など、子どもたちだけの踊りはほぼカットされ、代わりにクララとパートナーのパ・ド・ドゥが挿入されていた。最も大きな振付変更は、通常48人もの子役が登場する、ネズミと兵隊の対決の場面。ウィル・タケットによる新振付で、12人の若手男性ダンサーが子役には出せない迫力ある踊りを見せた。ケヴィン・オヘア芸術監督、ギャリー・エイヴィス、サマンサ・レインが手がけたその他の場面の新演出も巧妙。雪の場面は24人のコール・ド・バレエが16人に縮小されて対人距離が保てるようにフォーメーションが変わっていたり、2幕ではスペインとアラブの踊りが省かれ、中国の踊りでクララが一緒に踊らなかったりと、よくぞここまでと感心せずにはいられないほど、物語の説得力や自然な流れ、見た目のインパクトに大きな影響がないようにリスクを減らす工夫が随所に凝らされていた。クリスマスに『くるみ割り人形』を上演するためなら、というバレエ団の情熱がひしひしと伝わり、それがさらに観る者の胸を熱くする。

The Battle Scene, restaged by Will Tuckett © ROH | Emma Kauldhar

1幕のパーティーのシーンでは子どもだけでなく客人たちの数も20人程度に減って、やや寂しい印象は否めなかったものの、それを埋め合わせたのはやはり、ドロッセルマイヤー役を十八番とするギャリー・エイヴィスの存在感だ。 もはや彼以外のキャストでは物足りなくなってしまうほどに、〈生きた〉ドロッセルマイヤーの表情や仕草の一つひとつに吸い寄せられてしまう。今年は、我々観客にも魔法が届くようにと願ってか、いつにもましてキラキラと光る金の粉を大盤振る舞いしていたように見えた。

2015年にクララ役デビューしたアナ=ローズ・オサリバンは、少女らしさの残る愛らしい顔立ちと、瑞々しい印象を残す繊細なフットワークがこの役にぴったり。 ハンス=ペーターを踊ったジェームズ・ヘイも、躍動感に満ちた正確な脚さばきはもちろん、カリスマ性あふれる存在感で魅了。若々しくさわやかな魅力に満ちたペアは、おとぎ話の主人公にうってつけで、例年以上に現実逃避を必要としているロンドンの観客に至福の時間を与えてくれた。

そして圧巻はやはり、金平糖のグラン・パ・ド・ドゥ。マリアネラ・ヌニェスワディム・ムンタギロフという脂の乗り切ったふたりによる、究極のクラシック・バレエを堪能することができた。ヌニェスのポワントワークの素晴らしさについては今さら語ることではないかもしれないが、ケーキの上の生クリームをすくい取るかのようにスムーズで、コンマ1秒の余裕を感じさせるポワントからのふわりとした降り方や、首、手足の微妙な角度など、すべてが計算し尽くされた完成度の高い踊りは眼福のひと言。ムンタギロフは、伸びやかで高い跳躍と同じくらいに柔軟な着地のプリエまで美しく、すべてが見せ場で無駄が一切ない。ふたりが魅せる繊細な砂糖菓子のような純度の高いクラシック・バレエに、客席の興奮も最高潮に達した。

Marianela Nuñez and Vadim Muntagirov in the Royal Ballet’s ‘The Nutcracker’ © Alastair Muir

夢のようなパ・ド・ドゥが終わりクララが現実世界に戻るエピローグは、つねに一抹の切なさを感じさせる場面だが、今年はそこに、このバレエという舞台芸術が現在直面している厳しい現実を重ね合わせずにはいられなかった。リスクを減らすためあらゆる手段を講じ、お金と時間をかけてリハーサルを重ねても、一瞬で舞台がキャンセルとなってしまう可能性とつねに隣り合わせの状態の中で、このように儚い夢のような世界を生み出すことがいかに尊いかを、観客の一人ひとりが実感していたのだろう。終演後のカーテンコールでは、手拍子だけでなく足拍子までが会場中に鳴り響き、バレエ団のすべての人々へ大きな喝采が送られた。

(追記)

12月15日、ロンドンの警戒レベルが「3」に移行したことにより、2021年1月3日までの残りの公演はすべてキャンセル。さらに20日には新型コロナの変異種の感染拡大により警戒レベルがそれまでになかった「4」となり、無観客でライブ中継される予定だった12月22日の公演も中止になってしまった。後半には前田紗江のクララ役デビューやオサリバンの金平糖の精役のデビューなども控えていただけに残念だが、来季こそ彼女たちがさらに輝かしいデビューを飾ってくれることを祈りたい。

コヴェント・ガーデンに置かれたロイヤル・オペラハウスのクリスマスツリー

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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