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【第15回】英国バレエ通信〜ロイヤル・バレエ 桂 千理インタビュー〈前編〉バレエとの出会い〜ロイヤル・バレエ・スクール時代のこと

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

【Interview】桂 千理〈前編〉バレエとの出会い〜ロイヤル・バレエ・スクール時代のこと

7月から屋外公演が許可されるようになったロンドン。7月初旬から毎週末、ソーシャル・ディスタンシングに配慮したダンス・パフォーマンスが、ロンドン東部のリージェンツ運河沿いで行われている。通行人が撮った動画がツイッターで拡散され、一気に注目が集まったプロジェクト、DistDancingだ。

Video: ©︎Andrej Uspenski

仕掛け人は、英国ロイヤル・バレエのファースト・アーティストとして活躍するダンサー、桂千理(かつら・ちさと)さん。ロイヤル・バレエ・スクール時代から学校公演で数々の主役を踊って注目を集めていた、バレエ団期待の若手ダンサーだ。ここ数年観た中では、『Infra』や『Yugen』といったウェイン・マクレガー振付作品での、プリンシパルにも引けを取らない強烈な存在感を発揮した彼女の踊りが、今も目に焼き付いて離れない。8月中旬、本格的なインタビューを受けるのは今回が初めてという彼女に、これまでの経歴やDistDancingプロジェクトについてじっくり話を聞くことができた。

桂千理「ジゼル」よりパ・ド・シス ©︎Andrej Uspenski

“Infra” with Calvin Richardson(写真提供:桂千理)

ご出身はどちらになりますか?
大阪で生まれました。両親は中国の出身なんですが、ふたりとも今の私の年齢くらいから日本で働いていて、そこで出会って結婚したんです。姉と私が生まれ、家族で日本に帰化し、日本国籍になりました。私が5、6歳になるまで、日本で暮らしていたのですが、両親が起業することになり、家族で上海に移住したんです。
ちなみに、桂さんの第一言語は何語になるんでしょう……?(筆者注:インタビューは英語で行われました)
私の場合ちょっと複雑なんですが、今の第一言語は英語です。上海に移住するまでは、日本語しか話せなかったのですが、上海では、中国語をまったく話せないのにいきなり現地校に行くことになったので、始めはすごく大変でした。でも、小学校3年生を終える頃には、中国語を流暢に話せるようになっていましたね。まだ子どもだったし、友だちや環境のおかげで比較的早く習得できたんだと思います。ただ上海では両親が仕事で忙しくて、私も姉も、中国語しか話せない祖父母に面倒を見てもらっていたので、日本語を話してくれる両親が周りにいない状況で、日本語を維持するのは難しかったんです。
バレエはいつから始めたのですか?
3歳の時に、日本で始めました。家から徒歩15分くらいの場所にバレエ教室があって、母が先にそこで大人バレエクラスに通っていたんです。姉が生まれて、姉もそこで週に2回くらいバレエを習うようになり、私が生まれた時には、みんなでそこのレッスンに通うことが一家の伝統みたいになっていました。
バレエを始めた時は、バレエが何かよくわかっていなくて、ただ小さな女の子の習い事くらいにしか思っていませんでした。母いわく、バレエクラスでは私は全然集中力がなくて、いつもクラスの前に寝ていたり、クラスに出たくないと駄々をこねたり、姉に一緒のクラスに出てほしいとせがんだり、いろいろ問題を起こしていたみたいで、バレエそのものにはあまり関心がなかったみたいです(笑)。
それでも、上海に移住された後もバレエを続けたということですよね。いつ頃からバレエに真剣に取り組むようになったのでしょうか?
それがじつは、上海に行ってしばらくは、踊りをやめていたんです。入学した小学校が改修工事をしたんですが、その壁の塗料にひどいアレルギー反応が出てしまって……。2ヵ月ほど入院しなければならないくらい、ひどい状態でした。それでやっと退院した時、祖父母に「もう二度と踊っちゃだめ。体に負担のあることはいっさいしないように」と言われて、バレエもやめたんです。
でも8歳くらいの時に、ミュージカルの『キャッツ』や、バービーが出てくる『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』の映画をテレビで観ながら一緒に踊るようになって、ちゃんと踊れるようになりたいと思うようになりました。それで母に頼みこんで、8歳の時にまたバレエスタジオに通うようになったんです。バレエの好きな母はすぐ賛成してくれたんですが、祖母はまだ心配していましたね。ラッキーなことに家のすぐ近所にバレエスタジオがあったので、体調をみながら慎重に、ということで再開したんですが、それ以来今までずっと踊り続けています。

10歳。まだロンドンに移り住む前の頃

英国へは、どういった経緯で移住したのでしょうか?
上海では最終的に、私立のバレエ学校の中では当時最も規模が大きかった金宝龍バレエ学校に移りました。母が、私にはプロのダンサーになれる可能性があるから、いい学校で学ぶべきだと考えてくれたんです。そこの校長先生が、「君にはポテンシャルがあるから上級クラスを受けなさい」と声をかけてくださり、私はまだ11歳くらいだったんですが、17歳くらいの生徒たちのいる上級クラスに入りました。この校長先生が後押ししてくださったおかげで、バレエの道が拓かれていったと思っています。

そしてそこで、ゲスト教師の朱美麗先生に出会いました。朱先生は、(上海舞踊学校で学んだ)ヒューストン・バレエのプリンシパル、加治屋百合子さんの恩師でもあります。週に一度、とくに上手な生徒ばかりが集まった特別クラスを指導していらしたので、私はそれを自分のクラスの後に残って、ガラス戸の向こうからずっと見学していたんです。ある時先生が、「あなたの踊りを見せてもらえるかしら?」とおっしゃって、私の骨格や筋肉の付き方、踊りを少し見てくださり、その後私もそのクラスに入れてもらえることになりました。朱先生の熱心なご指導のおかげで、プロのダンサーに近づくことができたと思っています。

何回か朱先生のクラスを受けたあとで、先生が「あなたにはバレエに適した身体と才能があるから、プロになれる可能性がある。そのためには、ちゃんとした学校に行く必要がある」とおっしゃってくださり、英国ロイヤル・バレエ・スクールのロウアースクールを勧めてくださったんです。ロイヤル・バレエ・スクールも、バレエ団についても、何も知らなかったけれど、踊りたいということだけははっきりわかっていたので、とりあえず挑戦してみようということになりました。そこで、オーディション用の動画を撮るために、1ヵ月間猛特訓したんです。でも、動画をロイヤル・バレエ・スクールに送ったものの、まさかオーディションに呼ばれるとは思ってもみませんでした。忘れもしない、家族旅行でオーストラリアに滞在していた時、メールが来たので開けてみると、なんとそれが、ロンドンのホワイトロッジでのオープンオーディションへの招待状でした。びっくりして、そこで初めてちょっと怖くもなりましたね。

それでロンドンまではるばるオーディションにを受けに行ったんですが、当時英語をひと言も話せなかったので、自分が今何をすべきなのかもよくわからなかったし、会場の受験者たちはみんな知り合いみたいだったので、ひとりぼっちでものすごく寂しかったのを覚えています。でも、クラスが終わったら女の子たちがわっと寄ってきて、すごく不思議でしたね。無事合格して、11歳の時にホワイトロッジに入学しました。寄宿学校だったので、家族と離れてひとりでロンドンに移住することになったんです。ロンドン行きの飛行機には、母と先生が付き添ってくれましたが、初日に学校に一緒に行ってそこでお別れをして、すぐにふたりとも中国に帰っていきました。何もかもが新しくて、英語もまったく話せず、すごく怖かったのを覚えています。始めの1ヵ月は、とてもつらかったですね。

お母様は、まだ11歳の子を外国に出すのはすごく勇気がいったでしょうね。でも逆に子どもだったから、新しい環境に慣れるのも早かったんでしょうか。
はい、母はとても勇気があるだけでなく、とてもストレートな考え方をする人です。母自身バレエが大好きだったからこそ、私をロイヤル・バレエ・スクールに送る選択を後悔しないとわかっていました。それに私も今、まったく後悔していませんから、母の選択は間違ってなかったと思います!

入学が決まった当初は、2年飛び級して10年生から始める予定だったのですが、英国で10年生というのは学業の方でGCSE(全国統一テスト)の準備に入る年なんですね。でも、英語がまったくできなければ試験もできないので、1年だけ飛び級してホワイトロッジの9年生から始めたんです。

英語がまったくできなくても、同級生たちはとても親切でしたね。でも、英国の先生方が中国の先生とまったく違うので最初は戸惑いました。英国の先生たちは、すれ違っただけでハグしたりキスしたり、たとえ知らない生徒にも普通に話しかけるので、始めはびっくりしてしまって。ハグされるたび、どうしていいかわからなくて完全に固まっていました(笑)。

でもそれも、入って1ヵ月で慣れました。やっぱり子どものうちに新しい環境に行くと、慣れるのも早いんだと思います。周りもみんなまだ子どもだったから、言葉ができなくても一緒に遊べたし、そのおかげですぐに友だちもできました。英語は、彼らがしゃべっているのを聞いて学びました。子ども同士だからすぐに悪い言葉も覚えてしまったんですけどね(笑)。

バレエのレッスンはいかがでしたか?
9年生ではホープ・キーラン先生、10年生ではジェシカ・クラーク先生に習い、11年生では、チェケッティ・メソッド エンリコ・チェケッティ・ディプロマ」のDVDにも出演されていたダイアン・ヴァン・スクーア先生に指導していただきました。学業が半分、バレエが半分の割合なんですが、バレエはソロやレパートリー、群舞のクラスの他、年度末の舞台のリハーサルなどさまざまなクラスがあります。9年生はもちろん、ロイヤル・バレエの『くるみ割り人形』にも出演します。私も小さなネズミ役をやったんですよ。10年生の時には、『ピーターと狼』に猫役で出演して、素晴らしい経験になりました。

10年生の時に踊った「ピーターと狼」の猫役

『ピーターと狼』は、ロックダウン中にもロイヤル・バレエがストリーミング配信していましたよね。もう少し上かと思っていたんですが、当時まだ12歳くらいだったんですね。
子ども時代の踊りをあらためて見るのは、見たいような見たくないような……という感じでした。結局見たんですけどね(笑)。それで、11年生でロイヤル・バレエ・スクールのロウアースクールを卒業して、アッパースクールに入学しました。
ロイヤル・バレエ・スクールのロウアースクールを卒業しても、全員がアッパースクールに入学できるわけではないですし、厳しい競争だったと思うのですが。
はい、入学するにはオーディションがありました。それに毎年進級試験があって、それに合格しないと次の学年に進級できないんです。11年生でも、もちろん試験はあるんですが、その年はアッパースクールのオーディション準備に集中しなければなりません。みんな、希望するアッパースクールを少なくとも1、2校選んで、オーディション準備をする決まりになっています。私の場合は、ロイヤル・バレエ・スクールのアッパースクールと、イングリッシュ・ナショナル・バレエ・スクールのアッパースクール2校を受験しました。
ロイヤル・バレエ・スクールのアッパースクールでは、どんなことが思い出に残っていますか?
友だちと過ごした時間です。学校生活はバレエ中心で、学年が上がるごとにストレスも大きくなっていきます。午前中はバーとセンターの基礎練習、午後にはソロクラスやパ・ド・ドゥのクラス、レパートリーのクラス、キャラクターダンスのクラスなどがあって、さらにバレエ団の公演のリハーサルや舞台にも参加します。『くるみ割り人形』の雪の場面などのコール・ド・バレエの振付を覚えて、バレエ団の団員に怪我人が出た時にカバーできるようにするんです。だからもう毎日目一杯で、そんな生活そのものを楽しむ余裕はありませんでした。だからこそ、友人たちと過ごした時間はすごく楽しかったですね。あとはやっぱり、年度末の学校公演で舞台に立ったこと。毎年感動的で、それはもう、ベスト・フィーリング・エバー(最高の気分)!という感じでした(笑)。
アッパースクールの学校公演では、毎年主役を踊られていましたよね。
はい、とてもラッキーだったと思います。1年目には、ダイアン・ヴァン・スクーア先生と、現在イングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)でバレエマスターをされているアントニオ・カスティーリャ先生が振付けた作品に、主役で出演しました。2年目には、『ライモンダ』の主役を踊りました。本当は卒業生が主役を踊る予定だったんですが、その子が怪我をして、私にライモンダ役が回ってきたんです。ちょっと怖くもありましたが、一生忘れられない経験になりました。もう一度と言わず、何度でもやりたい作品ですね。卒業年には、『ラ・バヤデール』のガムザッティを踊りました。

アッパースクール2年目の学校公演で踊った「ライモンダ」 ©︎Brian Slater

卒業学年での学校公演では「ラ・バヤデール」ガムザッティを踊った ©︎Bill Cooper

それにしても、入学して2年目で、卒業生のための作品で主役を踊ったなんてすごいですよね。
もちろん、やりにくい部分もありました(笑)。身体的にも、2年生のための作品に加えて、3年生のための作品のリハーサルに出ていたので、かなりハードでした。でも一度私が踊りだしたのを見れば、3年生も納得してくれたようです。一生懸命やってるねと。

「コンチェルト」卒業学年の学校公演にて ©︎Johan Persson

★「英国ロイヤル・バレエ 桂千理インタビュー〈後編〉〜ロイヤル・バレエ入団、そしてDistDancingのこと」は2020年9月6日(日)公開の予定です

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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