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【第11回】英国バレエ通信〜英国ダンス界へのコロナショックの影響とさまざまな取り組み

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ダンス界へのコロナショックの影響とさまざまな取り組み

新型コロナウイルスの影響で、3月23日よりロックダウンになったイギリス。これを書いている4月23日、英国ではウイルスの感染を予防するワクチンの臨床実験が開始されたが、それが実用化されるまでの間は、ソーシャル・ディスタンシング対策を取り続けなければならない可能性が高いとの見通しが政府より発表された。現時点で夏までの舞台公演はほぼ全てキャンセル。中には秋に延期された公演もあるが、劇場再開のめどは今のところ立っていない。国民が一斉に自宅での隔離生活を強いられる非常事態が1ヶ月以上続く中で、その対極にある身体の自由の賛歌とも言える舞台芸術界は、これまで経験したことのない困難な状況に直面している。

経済対策に関しては、英国政府による給与の8割を補償する雇用維持制度(※1)と自営業収入支援制度(※2)に加えて、 アーティストや芸術団体を対象にしたアーツ・カウンシル・イングランド(ACE)による1億6000万ポンド(約212億円)の緊急助成金(※3)が一定の評価を得ているものの、英国クリエイティブ業界の40%以上を占めるフリーランサーへの補償をはじめ、まだまだ問題も多いのが現状だ。4月23日には演劇、舞踊、音楽、アート、映画、デザインの分野の組織が参加するクリエイティブ業界連合が#OurWorldWithoutキャンペーンを開始し、 業界存続のための資金援助を政府に呼びかけている。

また、経済面だけでなく、舞台で踊れなくなったダンサーをはじめとする、アーティストへの精神的なケアの必要性も叫ばれており、元ダンサーの心理カウンセラーによるダンサー専門の無料カウンセリングや、ダンサーのキャリアチェンジをサポートする組織Dancers Career Developmentによる無料キャリア・コーチングなどの提供も始まっている。

命あってこその芸術であるから、このような厳しい外出禁止措置そのものには、不平不満を言う者はほとんどいない。イングリッシュ・ナショナル・オペラの衣裳部が医療用白衣を制作し病院に寄付したり、北ウェールズにある劇場にベッドが運び込まれコロナウイルス感染者専用の臨時病棟となったり、ダンサーがオンライン・バレエレッスンを通じて国民保健サービス(NHS)への寄付を募ったりと、さまざまな芸術団体や個人が、時に本来の役割を一時保留して、命を守るために「いま、自分たちにできること」をしている。

それでも、隔離生活も1ヶ月半以上続くと、心が疲弊してくる。人間も動物も、たとえどんなにポジティブでいようとしても、「通常通り」の生活が崩れると、ストレスを感じるものだ。そんな時に、心に活力を与えてくれるのが芸術の存在であり、いまこそそれを必要としている人たちがたくさんいる。それは逆に言えば、ふだん舞台芸術に触れる機会のない人にも、「芸術は生活になくてはならないもの」というメッセージを伝えるまたとないチャンスになりうる。

それをうまく利用して、芸術を求める人々、芸術を必要としている人々に適切なデジタルコンテンツを届けていく芸術組織は、このコロナショックでどんどん変わりゆく世界にも柔軟に対応していける強さがある。イングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)は、劇場閉鎖が始まってすぐにタマラ・ロホ芸術監督によるプロダンサー向けのオンライン・バレエクラスを始め、その後ビギナー向け、ティーン向け、大人向け、パーキンソン病患者向けなどに細かく分かれたバレエクラスや、ポアントシューズの加工方法のレクチャーなどの、幅広い内容のエンゲージメントプログラム「ENB at HOME」を提供するようになった。また、4月22日からは「Wednesday Watch Party」と称して、アクラム・カーン振付『Dust』をはじめ、映像としては未公開の作品を週に1回公開。あらゆる人にバレエを届けることをミッションとするENBらしい活動と、その対応の柔軟さと素早さは、ブランドとしての存在感をますます強めていくものだろう。

ロイヤル・バレエは、劇場閉鎖から1ヶ月後の4月17日、休校中の子どもたちのための「Create and Learn」プログラムをリリース。7月17日までの毎週金曜日に、子どもたちの創作意欲を刺激するクリエイティブな課題が出されるとのことだ(初回は、シリアルボックスを使ってミニチュアの舞台セットを作ったり、『不思議の国のアリス』に基づいた短いダンスを創作したりといった課題だった)。その他、ウィールドン振付『冬物語』などの無料ストリーミング配信も行っている。また、CNNニュースでも取り上げられていたように、ダンサーたちが自宅の限られたスペースの中で、日々のレッスンに励んでいるようすをSNS経由で見るのを楽しみにしているファンも多いことだろう。

劇場では、サドラーズ・ウェルズ劇場が、「Digital Stage」という無料のデジタルコンテンツ・プラットフォームを開設。BalletBoyzによる新作『Deluxe』や、ナタリア・オシポワの座長公演の映像など、週替わりで新しい作品が公開されているほか、ファミリー向け、シニア向けのダンスワークショップも開催している。

バーミンガム・ロイヤル・バレエは、BBCが3月よりスタートさせた「Culture in Quarantine」プログラムの中で、4月3日にはカンパニークラスの中継、4月8日には、プリンシパルのセリーヌ・ギッテンスが『The Swan』を自宅で踊るようすを生中継した。後者は、カルロス・アコスタ芸術監督が、未来への希望を込めてミハイル・フォーキン振付『瀕死の白鳥』のエンディングを変えた実験的なパフォーマンスで、3つ並んだ画面の中央にギッデンス、左にピアニストのジョナサン・ヒギンズ、右にチェリストのアントニオ・ノヴァイスが映し出された。

実際に生中継を見ていてまず感じたのは、過去の上演作品をスクリーン画面で見るのとは違い、あらゆることが停滞しているいま、「この瞬間に、私たちのために踊られている」という事実そのものの贅沢さだった。世界各地にいる、自宅隔離生活を送っている人々が一斉に見守る中、これまた同じように家の中に囚われたダンサーが踊り、ミュージシャンが演奏する。これまで、私たちが舞台芸術に魅了される理由のひとつは、他者と同じ空間を共有することで、強烈な生の体験を享受することにあるはずだった。でもいま、私たちは、パフォーマーも鑑賞者も、一人ひとりが切り離された状態で、そんな舞台芸術への陶酔を再現しようとしている。もちろんそれを100%再現することは不可能だ。プロセニアムアーチ状の舞台の、舞台上の世界と観客のいる現実世界を隔てる想像上の壁を「第4の壁」と呼ぶことがあるが、いまのこの隔離された世界において、舞台芸術を享受しようとする私たちの前を遮るものは、画面のスクリーンにならざるをえない。さらに、ライブで鑑賞しなければ、そこに「時間」という新たな壁も追加される。このふたつの壁は、パフォーマーと観客との距離を限りなく遠ざけるもののようでありながら、同時にこの両者がそれぞれ隔離されたいまの状況が、圧倒的なまでの心理的共感をパフォーマンスの前提としてもたらし、遠いようで近い、不思議な感覚を生み出す。そして、観る側にとっては、どこかプライベートな空間を一方的に侵しているような後ろめたさも。

戦争と違って、明確な終わりのないウイルス感染。このあとしばらく、私たちはこの強烈な全人類の共通体験と一抹の不安を抱えて生きていかなければならないのだとしたら、パフォーマンスの内容だけでなく、その手段も、観客とパフォーマーの関係そのものも変化していかざるをえないのだろう。そしていつか、この時期に生まれた芸術のコンテクストが忘れ去られ、元々の意味がまるまる失われることもあるのかもしれない。ちなみに、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ジュリエットが本当は死んでいないということを説明する手紙がロミオに届かなかったのは、単なる行き違いではなく、ローレンス修道士が手紙を託した人物がペスト感染を疑われて隔離しなければならなかったからだが、ロンドンでペストが大流行した1592~94年の間に劇場の閉鎖を目の当たりにし、その数年後の初演時にこの作品を見た観客には、まだそれが鮮烈な記憶として生々しく思い起こされたはずである。コロナショックを経験したいま、これから先『ロミオとジュリエット』のコロナ版を作るアーティストが現れてもおかしくないし、この『The Swan』のように、他者との直接的な接触を徹底的に避けたパフォーマンスの在り方(※4)が、ダンスのひとつのスタンダードになっていく可能性も、なくはない。劇場という空間の、あまりにも大きすぎる存在の喪失を絶えず喚起させるパフォーマンスに、一刻も早く「もとどおり」になってほしいと切に願う自分がいながら、今回人間の意思に反して変化を強いられているダンスが、この先どこに向かっていくのかという興味も頭をもたげてくる。アコスタが振付に託したという「新しい始まり」は、きっとどこかで、もうすでに芽を出し始めているのだろうか。

(※1)非営利の芸術団体を含む全事業者に対し、休業を余儀なくされ休暇扱いになっている被雇用者の給与の80%を、1人当たり月額2,500ポンド(約33万円)を上限に英国政府が支給。

(※2)フリーランスのアーティストを含む自営業者の場合は、過去3年分の確定申告に基づき月当たりの平均営業利益が計算され、その80%を、1人当たり月額2,500ポンド(約33万円)を上限に英国政府が支給。期間は3ヶ月を予定(延長される可能性もあるとのこと)。ただし収入の半分以上を個人事業から得ていること、年間営業利益が50,000ポンド以下(約660万円)であること、昨年度の確定申告をしていることが申請条件となっており、最近フリーランスになった者や兼業者など、条件に当てはまらない自営業者が多数いることや、支給開始が予定される6月までの生活に困る者がいることなど、問題点も指摘されている。

(※3)アーツ・カウンシル・イングランドの緊急助成金の内訳は、ロイヤル・オペラハウス、イングリッシュ・ナショナル・バレエ、サドラーズ・ウェルズ劇場などの定期的に助成を受けている芸術団体に9000万ポンド(約120億円)、それ以外の芸術団体に5000万ポンド(約66億円)、文化芸術の分野に従事する自営業者に2000万ポンド(約26億円)。
フリーランスの振付家やダンス教師、などの自営業者の場合は、公的助成を受けた文化芸術事業での実績があれば、上限2500ポンド(約33万円)の助成金を申請することが可能に。すでに4月中に2度にわたって申請受け付けが行われ、最初の支払いは6週間以内に行われる。
ただしフリーランサーを含む自営業者への資金援助に対しては、最大8000人しか対象にならないこと、個人事業の助成にあてられていたはずの予算を緊急資金として投下することにより、長期的には彼らをより苦しい状況に追い込む可能性があるという点に批判も集まっている。

(※4)現にイングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)は、出演者がソーシャル・ディスタンスを保ち、かつ観客がドライブイン形式で車に乗ったまま鑑賞するオペラ公演を9月に企画しているという。

 

#おうち時間どうしてますか?
本来なら今頃日本に一時帰国している予定だったのですが、英国がロックダウンになる以前から早1ヶ月半、買い物もひたすら宅配を駆使して、ずっとロンドンの自宅に引きこもっています。保育園に通えなくなった2歳児(絶賛イヤイヤ期・トイレトレーニング中)の相手をしつつ、料理・洗い物・掃除・洗濯の無限ループをどうにかこなし、かつ息子が寝ている深夜早朝に集中して仕事をするというのは、想像以上にチャレンジングで、1日があっという間に過ぎていきます。

正直なことを言うと、自宅隔離生活のはじめの3週間は、感染者や死亡者の話を身近に聞くようになったこともあり、常に気が張り詰めていて、身も心もすっかり疲弊してしまっていました。でも、この隔離生活が「一時的」ではなく既に「日常」となってきていることに気づき、この状態の中で健康な身体と精神を保つために、自分に最適な方法を真剣に考えていかなければ、と思うようになりました。

いま、なるべくストレスをためないように意識して心がけているのは、①こまめに日光を浴びること、②運動すること、③同居家族や仕事以外の人とコミュニケーションすること、④自分ひとりの時間を作ること、そして⑤感謝すること、の5つです。

例えば、このところのロンドンは天気が良いので、息子の室内遊びや私のPC作業などを庭でするだけで、気分がだいぶ変わります。また、英国では同居人以外の家族・友人とは会ってはいけないということもあって、あえてチャットでなくビデオ通話でマメに連絡を取り合うようになったほか、仕事のミーティング以外でもZoomなどのツールを活用して、幼児向けプレイグループやバレエレッスン、関心のあるトピックのワークショップなど、親子共々バーチャルで他者と交流する機会を設けるようにしています。

また、英国では1日1回のエクササイズ目的の外出は許可されていますが、息子の好きな児童公園も立ち入り禁止になっているので、唯一の外出として徒歩1分くらいのところに走っている電車を見に行くのが日課となりました。

橋の下を通る線路を見下ろしながら、本数が減ってなかなか通らなくなった電車を辛抱強く待つと、昼間の時間帯にやってくるのは、ほとんど乗客が乗っていないガラガラの電車です。それでも、息子が橋の上から「バイバーイ」と手を振ると、運転手さんも手を振り返してくれ、十中八九、サービスで警笛を鳴らしてくれます(本当はいけないのかもしれませんが……)。コロナもロックダウンも誰かの名前だと思っている息子は、「でんしゃぴっぴーした!」と毎回無邪気に喜んでいます。

4月某日、朝のニュースで多数のロンドン交通局(通称TfL)職員が新型コロナウイルスに感染して死亡した、と報じられていました。 そのうちのひとりは、私の自宅近くを走る路線バスの運転手だった30代男性で、その母親が涙を堪えながらインタビューに応じていました。リスクを負いながら最前線で働く医療従事者や介護スタッフと、彼らを職場へと運ぶTfL職員たち。私の住む界隈でも、毎週木曜日夜8時に、そんなキーワーカーに向けて家の外に出て拍手を送り、花火を打ち上げる習慣が続いています。我が家も大人は連日寝不足となり大変さは増しましたが、全員家に居られるだけ感謝しなければなりません。電車の運転手さんが息子に向かって警笛をならしてくれるたび、心の中でありがとう、と呟いています。

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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