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【第9回】英国バレエ通信 英国ロイヤル・バレエ 「ザ・チェリスト」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ 「ザ・チェリスト」

『ジェーン・エア』(※1)や『ヴィクトリア』(※2)、『チャタレイ夫人の恋人』(※3)といった英国的なテーマを数多く取り上げ、斬新な物語バレエ作品を次つぎと生み出している振付家キャシー・マーストン。ロイヤル・バレエ・スクールで学んだ物語バレエの俊英が、卒業から25年以上の年月を経て、ついに古巣ロイヤル・オペラハウスのメインステージでのデビューを果たした。

クラシック・バレエにおける女性振付家の数が圧倒的に少ないことはあちこちで指摘されているが、ロイヤル・オペラハウスにおいても、女性振付家の作品がメインステージに上ることは稀で、その多くは小劇場での実験的な作品がほとんど(※4)。アーティスト・イン・レジデンスであるリアム・スカーレット(※5)のように、20代でメインステージの作品を委託され、バレエ団で最も大切なレパートリーのひとつである『白鳥の湖』の演出・振付を任されるような機会は、残念ながら近年女性振付家には与えられてこなかった。

だからこそ、在学中に振付コンクールで入賞して頭角を現し、2002〜07年にロイヤル・オペラハウスのアソシエイト・アーティストとして小劇場で13の小作品を発表したマーストンが、45歳にしてようやくメインステージで物語バレエを発表できたことは、ロイヤル・バレエにおける歴史的な出来事と言っていいだろう。

2月17日に初日を迎えた『ザ・チェリスト』は、つねにテーマに真摯に向き合いながら、大胆かつ独創的な解釈で物語を紡ぐ、マーストンらしい野心作。英国が生んだ伝説のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの一生をテーマにした作品だ。

「ザ・チェリスト」ローレン・カスバートソン(チェリスト)、マルセリーノ・サンベ(楽器)©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

実在の人物、それも比較的人々の記憶に新しい人物を描く作品は、とくにリスクが大きい。いまなお現役指揮者兼ピアニストとして活躍する元夫のダニエル・バレンボイム氏(※6)をはじめ、彼女に近しかった人々のことも考慮する必要があるし、ロンドンのオペラハウスの観客の中には、実際にデュ・プレの演奏を生で聴いた人もいるだろう。しかしマーストンはそのリスクも厭わず、デュ・プレのチェロへの愛、そして突然訪れた両者の別れを独創的に解釈することで、伝記作品というよりはむしろ、その刹那的な関係に捧げられた一編の詩のような作品を生み出してみせた。

「ザ・チェリスト」ローレン・カスバートソン、マルセリーノ・サンベ、マシュー・ボール(指揮者)©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

たとえ複雑な物語を描く場合であっても、小道具をあまり使用せず、可能な限りダンサーの身体を使って表現することが多いマーストンだが、『ザ・チェリスト』でもそのスタイルが顕著。チェロの内部を彷彿とさせるシンプルな舞台美術の中で、楽器がダンサーの身体によって表現され、コール・ド・バレエも、オーケストラになったりコンサートの観客になったり、家具や病状を表現したりと自由自在に変化して、3人の主人公を中心に展開される物語の進行を助ける役割を果たした。フィリップ・フィーニーによるデュ・プレのレパートリーを使用した音楽もまた、物語と実際の演奏(ヘティ・スネルによるチェロ演奏)をよどみなくつなぎ合わせて、デュ・プレの感情にぴったりと寄り添って観客の感傷に訴えてくる。

「ザ・チェリスト」マルセリーノ・サンベ ©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

物語の鍵となる〈楽器〉役を踊ったマルセリーノ・サンベは、ほぼ舞台に出ずっぱりで、運命の相手である〈チェリスト〉役を、幼少期からその晩年まで、そっと見守り続ける守護天使のような存在。単に楽器を表象するだけでなく、それはデュ・プレが恋に落ちた対象であり、彼女の音楽への愛そのものでもある。中でも深い印象を残したのは、子ども時代の〈チェリスト〉が、初めてレコードでチェロの音色を聴き恋に落ちるシーン。〈楽器〉役であるサンベが彼女の背後から腕を差し出して抱え上げ、あたたかな音色で彼女の身体を包み込むように揺らすと、それまでぎこちなかった身体が滑らかに動き出し、才能が溢れ出すようにして神童が誕生する。

「ザ・チェリスト」ローレン・カスバートソン、マルセリーノ・サンベ ©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

チェロと運命の出会いを果たした〈チェリスト〉はいつしかローレン・カスバートソン演じる大人になり、二者の関係はより密なものになっていく。〈楽器〉としてのサンベはまず、拳を握った片腕をチェロのネック部分のように上方にかざし、跪いて片足を前に伸ばして、チェロのモチーフ的なポーズをとる。その後ろで膝を曲げ、チェロを抱え込むように立ったカスバートソンが、見えない弓で弦を弾くように腕を左右に動かすと、ふたりの演奏が始まる。音楽の高まりとともにいつしかそのポーズから解けたふたりは、お互いを引いては寄せる波のように交互に抱え上げ、ふたつの身体がひとつの音楽として溶け合っていく。弓のようにしなやかな身体が際立つサンベとのデュエットは、実際の恋の相手である、マシュー・ボール演じるカリスマ性溢れた〈指揮者〉役とのパ・ド・ドゥよりもずっと親密で、官能的でさえあった。

「ザ・チェリスト」ローレン・カスバートソン、マルセリーノ・サンベ ©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

〈チェリスト〉役を踊ったカスバートソンは、実際のデュ・プレに似ているところはほとんどないにもかかわらず、ブロンドに染めた髪をたなびかせながら身体を揺らし、時には全身を弓のようにしならせてチェロに絡みつき、足をビブラートのように震わせて戯れるように音楽を奏でる姿は、まさにどこまでも自由でフィジカルな弾き手であったデュ・プレの魂を感じさせる熱演だった。多発性硬化症の症状も、不器用な歩き方や微妙な手の震えなどの繊細な動きで大げさになりすぎることなく表現。弾けなくなったチェロを突き放すシーンも、恋人との別れのように胸に迫る場面となった。終幕、椅子に座って動かないカスバートソンの周りを、音楽のベールで包み込むように、サンベがチェロのモチーフのポーズを維持しながら回転する場面は、音楽の神に選ばれながら、その翼を折られたデュ・プレの魂を天使が祝福しているような神々しさがあり、涙を抑えることができなかった。

「ザ・チェリスト」ローレン・カスバートソン、マルセリーノ・サンベ ©ROH, 2020. Photographed by Bill Cooper

ただ、中盤では伝記的側面とプロットの進行にフォーカスしすぎたせいか、デュ・プレが学校で落ちこぼれている様子やバレンボイムとの演奏旅行に明け暮れる描写など、急ぎ足で詰め込みすぎになった感のある場面や、コール・ド・バレエの意図が不明瞭な場面などがあり、1幕物の作品としてはややアンバランスさも感じたのも事実。しなやかなダンサーの身体が紡ぐリリカルなイメージとデュ・プレの感情がリンクした感傷的なシーンが際立って鮮烈だったので、ぜひ再演に期待したいと思う。

(※1)『ジェーン・エア』ノーザン・バレエ初演(2016年)
(※2)『ヴィクトリア』ノーザン・バレエ初演(2019年)
(※3)『チャタレイ夫人の恋人』レ・グラン・バレエ・カナディアン初演(2018年)
(※4)過去20年間で、ロイヤル・オペラハウスのメインステージ用に制作された女性振付家による新作バレエは、2017年初演のクリスタル・パイト振付『フライト・パターン』のみ。
(※5)本来なら、今回のダブルビルでは、スカーレットの新作『オクラホマ』が同時上演される予定だったが、現在セクハラ疑惑で取り調べが行われており、リハーサルは延期になっている。
(※6)マーストンは、ケヴィン・オヘア芸術監督とともにベルリンにいるバレンボイム氏を訪ね、デュ・プレをテーマとする作品を制作する許可を受けたとのこと。

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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