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【第5回】英国バレエ通信 英国ロイヤル・バレエ 「マノン」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ 「マノン」

英国ロイヤル・バレエの2019/20シーズン大劇場開幕作品は、マクミラン振付『マノン』。2017/18シーズンにも上演されたばかりだが、カンパニー総出での<物語を語る力>を存分に発揮できるこの作品への自負が感じられる選択といえるだろう。

ローレン・カスバートソン(マノン)、マシュー・ボール(デ・グリュー)© 2019 ROH. Photograph by Alice Pennefather

18世紀に出版されたアベ・プレヴォーによる小説『マノン・レスコー』に基づいたこのバレエ作品は、修道院に行く途中の無垢な美少女マノンがパリに到着し、ボロをまとった乞食や売春婦、客引き、スリといった街のいかがわしい面々に出会うシーンから始まる。売春婦たちは脚をちらちらと見せて男たちを引き寄せようと躍起になり、マノンが馬車から降り立つその瞬間も、兄レスコーは妹を利用して金儲けしようと画策している。聖なる世界へ行こうとしていたマノンは、そんな汚れきった俗世界へと、文字通り足を踏み外すのだ。

そんな中で、マノンの運命を左右するふたりの男が現れる。ハンサムでロマンティックな神学生のデ・グリューと、好色の老富豪ムッシュー・DMである。初恋の高揚感に浮き足立ったまま、あっという間にデ・グリューと駆け落ちし一夜を共にするも、DMがきらびやかな宝石や毛皮でマノンを誘惑すると、その目もくらむような華やかな世界の誘惑に打ち勝てずあっさりDMについていくことを選ぶマノン。マクミランのバレエは、退廃的なブルジョワ世界と、悲惨なまでの貧困の残酷な対比を鮮やかに提示し、その中で恋の情熱と容赦ない現実の間で揺れ動く、聖女にも悪女にもなりきれないアンビバレントなヒロインを描く。

この、不完全な人間性そのものを体現するようなヒロインの中にある矛盾こそが、ダンサーによって多様な解釈を可能にし、だからこそ、数多くのバレリーナがこの役を踊ることを切望してきた。そしてマノンだけでなく、デ・グリューやレスコーなど、単純な善悪二元論に収まらないキャラクターたちの複雑な人間心理が、ダンサーの個性や解釈によって様々な形で浮かび上がり、濃厚なドラマを織りなしていく。何度見ても新たな発見があり、観客にとっても鑑賞力を試される作品と言えるかもしれない。

フランチェスカ・ヘイワード(マノン) ©ROH, 2018. Photographed by Bill Cooper

今季は魅力的なキャスティングが並ぶ中、これまで未見だったローレン・カスバートソン/マシュー・ボール(10月3日)、ナタリア・オシポワ/デイヴィッド・ホールバーグ(10月15日)、フランチェスカ・へイワード/アレクサンダー・キャンベル(10月19日)の3キャストを鑑賞し、三者三様のマノンを堪能した。

ベテランのカスバートソンのマノンは、デ・グリューとの初恋に陶酔するピュアさと、同時に自らの魅力が大の男をかしずかせる力を持つことに気づき、それをゲームのように楽しむ小悪魔的な狡猾さとの両方を、絶妙なバランスで表現。マノンのシグネチャーである、ロン・ド・ジャンブから脚をクロスさせて前進するステップが、1幕では未知の世界に足を踏み入れる不安、2幕では自分の魅力を完全に意識した自信、といったように各幕で全く違う表情を見せるさまが見事だった。そして2幕の、彼女を崇める男たちの腕から腕へ、まるでモノのように手渡しされる場面では、まんざらでもなさそうな表情を見せつつ、デ・グリューにだけは、その様子を見られたくないと葛藤する姿に、彼女の完全に悪女になりきれない繊細な女性心理が表現されていた。

ローレン・カスバートソン(マノン)、マシュー・ボール(デ・グリュー) © 2019 ROH. Photograph by Alice Pennefather

いっぽうオシポワのマノンは、移り気で、どこまでも自由奔放なマノン。前半、男たちの視線を糧に、後先を考えず今この瞬間のことだけを考えて生きているような衝動的なマノンは、炎のようなエネルギーを秘めたファム・ファタルだった。中でもオシポワの本領が発揮されていたのは3幕の沼地のパ・ド・ドゥ。オシポワの驚くべき身体能力と、フィギュアスケートに着想源を得たというダイナミックな振付の相乗効果で、彼女の身体が打ち上げ花火のように舞台上で完全に解放されているのを、ホールバーグ演じるデ・グリューの静謐な情熱が水のように包み込む絵図がドラマティックだった。

ナタリア・オシポワ(マノン)©ROH, 2018. Photographed by Bill Cooper.

この3キャストで個人的に最も心揺さぶられたのが、ヘイワードによるマノンの解釈だ。彼女のマノンは、他のマノンと違い、金持ちの男たちに対して媚びるようなところが希薄。男たちの腕から腕へ泳ぐように移動する場面でも、自分が求めているのは何なのだろうかと答えを探し求めているようなつかみどころのない表情が、リアルな若者らしさを感じさせた。そしてこの、他者に答えを求めているようでその実自分探しをしているような、現代的で洗練されたマノンの解釈が、3幕においてこれまでの人生を振り返る場面をより胸に迫るものにしてくれた。相手役のアレクサンダー・キャンベルは、昨年同作品で高田茜と組んだ時には正直あまり強い印象を受けなかったのだが、ヘイワードとの相性は抜群で、献身的なデ・グリューを好演。特に3幕の全てを失ったふたりの絶望が凄まじい勢いのリフトに体現されていくさまは圧巻だった。ヘイワードは、舞台上での華やかな存在感と、どこまでも自然体な振る舞いが魅力のダンサーだけに(彼女が映像に多用されるのも、これが理由のひとつだと思う)、リアリズムを重視するマクミラン作品との相性が殊のほかいい。私がこれまで最も心動かされたマノンはシルヴィ・ギエムとアリーナ・コジョカルなのだが、ヘイワードのマノンも、それに匹敵するような彼女の十八番としてこれから語り継がれていくような予感がする。

フランチェスカ・ヘイワード(マノン) ©ROH, 2018. Photographed by Bill Cooper

ちなみに今季の『マノン』で最も注目されたのは、マノン役ではなく、3日にカスバートソンを相手にデ・グリュー役でデビューした若手プリンシパルの筆頭、ボールだろう。2015年、まだファーストアーティストだった時に『ロミオとジュリエット』の主役に抜擢されて頭角を現し、昨年『うたかたの恋』で衝撃的なルドルフ役デビューを果たしたロイヤル期待の星は、今回の『マノン』でマクミラン3大バレエを制することになり、公演日の客席の緊張感もいつも以上だったが、ボールはデビューとは思えない堂々たるパフォーマンスを見せてくれた。ボールは、盲目的にマノンに献身し身を滅ぼすナイーヴな男というよりは、彼が本来持つ理想主義的な情熱ゆえにマノンとの恋に生き、無情な運命に必死に抗おうとする強い意志が感じられるデ・グリュー。終始終幕の悲劇を予感しているような憂いを湛えたボール独特の存在感が、原作の小説と同じように、この作品があくまでデ・グリューの視点で描かれたマノンの物語であることを思い起こさせてくれた。難度の高いステップで美しいラインを見せるだけでなく、一瞬一瞬命を燃やすデ・グリューの情熱をそこに昇華させ観客を魅了し、もしマクミランが生きていたらきっと、ボールに創作意欲を掻き立てられたのではないだろうか、と勝手な想像をしてしまった。

ローレン・カスバートソン(マノン)、マシュー・ボール(デ・グリュー)© 2019 ROH. Photograph by Alice Pennefather

主役のふたり以外にも、全てのキャラクターが個性豊かに演じられ、どこを見ても常に何かが起こっている舞台は、ロイヤル・バレエの真骨頂といえるパフォーマンス。中でも、時にデ・グリュー役よりも鮮烈な印象を与えるレスコー役はダンサーにとって踊りがいのある役だが、19日にレスコー役でデビューしたセザール・コラレスは、切れ味抜群の踊りと野性味あふれる視線が野心満々のレスコー役によく似合っていた。ただ、今回見た3キャストの中で最も印象強かったのは、昨年シネマ中継もされた平野亮一のレスコー(15日)。実は私は、彼がプリンシパルになるずっと以前から、彼の『白鳥の湖』の王子の友人役での新橋ガード下が透けて見えるような振り切れた酔っ払いぶりを毎回密かに楽しみにしていたのだが、今回もまたレスコーの酩酊演技における絶妙なタイミングのコメディアンぶりに英国の観客が大受け。ミストレス役のクレア・カルヴァートとの掛け合いもぴったりで、この役を完全にものにした風格を漂わせ、カーテンコールでもひときわ大きな喝采を受けていた。

 

Column
16日の高田茜/スティーヴン・マックレー組の公演では、舞台の途中で負傷したマックレーが降板、コール・ド・バレエにいたリース・クラークが急遽デ・グリュー役を踊るという衝撃的なドラマがあったとのこと。今年6月の日本公演も怪我のために出演を見合わせたマックレーだが、SNSで怪我から復帰に向けてリハビリに取り組む過程をオープンに発信し、そのポジティブな投稿に感銘を受けた人は沢山いるはずだ。私が来日公演前にしたインタビューでも、「怪我は、より多くを学び、成長するためのチャンスを与えてくれます。もちろん、怪我をしたいと願うダンサーはいませんが、残念ながら怪我はこの職業にはつきもの。バレエを踊るにあたって、試練がないということはあり得ないので、アーティストというものは、その試練を、より良いものを目指し、自らを成長させる機会に変えることができる人のことを言うのだと思います」と前向きに語ってくれたマックレー。今回の試練もきっと乗り越えて、さらなる成長を見せてくれることを祈ってやまない。

 

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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