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【第4回】英国バレエ通信 イングリッシュ・ナショナル・バレエ アクラム・カーン版「ジゼル」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

イングリッシュ・ナショナル・バレエ アクラム・カーン版「ジゼル」

2016年にアクラム・カーンイングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)のために振り付けた『ジゼル』は、ここ数年で最も大胆なダンス作品のひとつと言えるだろう。日本ではシルヴィ・ギエムとのコラボレーションで知られるベンガル系英国人振付家のカーンだが、そもそもバレエの経験は皆無。そんな彼が、古典バレエの名作を翻案することになったと聞いて、はじめは多くの人がいったいどんな作品になるのだろう?と懐疑的だったし、インタビューによれば、本人も〈挑戦したことのない未知の領域〉を前に、畏怖の念さえ抱いていたようだ。

しかし蓋を開けてみれば、21世紀に誕生した新・『ジゼル』に、観客は熱狂した。芸術監督タマラ・ロホによると、英国内外のツアー(この夏はあのボリショイ劇場で上演され、来年はバルセロナとパリ公演が予定されている)、日本を含む世界中の映画館での上映、そしてテレビやDVDを通し、たった3年間で33万人以上の観客がこの作品を観たとのこと。現代のダンス作品で、これは驚くべき数字と言えるだろう。

Tamara Rojo in Akram Khan’s “Giselle” ©️Laurent Liotardo

9月18日、ENBの2019/20シーズンは、こうしてバレエ団の看板作品となったカーン版『ジゼル』で幕を開けた。創立から70周年を迎え、新しい本拠地に移転したばかりの記念すべきシーズンの開幕に、これほどふさわしい作品はないだろう。そして初演から3年経ったいま、この衝撃作のインパクトは少しも衰えていなかった——むしろ、それはより強烈になったと言ってもいい。世界中で再演を重ねたキャスト全員が、役を完全に自分のものとし、その自信が身体を解放させ、内から湧き上がる感情をステップに昇華し、物語を紡いでいく。これこそが、ライブアートの醍醐味と感じずにはいられない舞台だった。

Tamara Rojo and James Streeter in Akram Khan’s “Giselle” ©️Laurent Liotardo

愛と裏切りと許しの物語における中世の貴族と農民の対立を、現代の裕福な地主階級(持てる者)と閉鎖された衣料工場から追放されて行き場を失った移民労働者たち(持たざる者)の対立に置き換えたカーン版。ジゼルを、結ばれてはならない男との子を孕んだために〈社会〉に抹殺される存在として描いた点が、リアリティを伴って現代の観客の心に迫る。

Tamara Rojo in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

振付には、カーン独自のカタック舞踊からの影響や集合的身体を強調するフォーメーション、野生動物を彷彿とさせるプリミティブな動きの中に、所々効果的にバレエ的な動きが取り入れられている。特に2幕では、ウィリたち(工場での作業中に死んだ女性労働者たちの亡霊)がトゥシューズを履いて踊り、古典版『ジゼル』へのオマージュ的な、コール・ド・バレエの列がアラベスクで舞台を交差するシーンさえあるのが興味深い。

English National Ballet in Akram Khan’s ”Giselle” ©︎Laurent Liotardo

ただし、古典版のウィリたちが、ポアントでこの世のものならぬ軽さを表現する精霊であるなら、カーン版のウィリたちは、ポアントで地を突き刺し、文字通り地下に囚われた怨霊タマラ・ロホが踊る死後のジゼルは、そのつま先が地面に括り付けられているかのように、ポアントで微動だにせず佇む姿が強い印象を放った。2幕のデュエットでも、ジゼルの生を失った身体の〈重み〉が強調され、死後もなお、壁で隔離される世界に囚われたアウトキャスト(社会のはみだし者)たちのどうにもならない宿命と絶望が、観客の心にずしりとのしかかる。

English National Ballet in Akram Khan’s ”Giselle” ©︎Laurent Liotardo

タイトルロールのロホだけでなく、初日のキャストは全員が自信に満ちた秀逸なパフォーマンスを見せた。その中でもとくに目を引いたのは、ジゼルに横恋慕するヒラリオンを演じたジェフリー・シリオジェームズ・ストリーター演じるアルブレヒトとの対決シーンは出色で、すばしこく野性味に溢れ、やすやすと重心を上下に移動させながらの切れ味鋭い踊りは、まるでシリオの周りだけ別の時間軸があるかのようだった。プログラムにはヒラリオンの人物設定に〈シェイプチェンジング・フィクサー〉(=上流階級に取り入り、自己利益のために姿形や立場を自在に変える仲介役)という記載があったが、シリオの踊りは確かに、変幻自在の狡猾な狐のようであり、凄まじい気迫に満ちていた。

Jeffrey Cirio in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

初演時からミルタ役を踊るスティナ・クァジバーも特筆に値するパフォーマンスで、ほとんどこの役と同化したかのように、冷徹極まりない女王役を体現。特に、パ・ド・ブレでジゼルを引きずりながら召喚するシーンは強烈だった。ちなみに、イギリスの評論家たちの中には、2幕のウィリたちを「日本のホラー映画のよう」と評している人が多く、そのおどろおどろしさがいまなお新鮮に映るようだった。

Stina Quagebeur and 
Jeffrey Cirio in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

Stina Quagebeur and Jeffrey Cirio in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

そして忘れてはならないのが、舞台後方にある巨大な〈壁〉の存在だ。映画『グリーン・デスティニー』で第73回アカデミー賞美術賞を受賞したティム・イップが手がけた壁は、2つの階級の間に立ちはだかり、時に上昇して回転し、ダンサーにも負けない存在感を放った。同じくイップによる衣裳も興味深い。労働者やウィリの衣裳は、一見簡素でみすぼらしいが、味わいのあるニュアンスが醸す美しさが絶妙なバランスで、まるで美と醜は表裏一体と言っているかのようだ。対照的に、地主階級の衣裳は、まるでプレタポルテのショーを見ているかのような、威圧感さえ感じさせる豪奢なもの。ヒラリオンの角笛を思わせる不協和音が鳴り響く中、上に持ち上がった〈壁〉の向こうから地主階級が登場するシーンでは、マーク・ヘンダーソンによる巧みな照明がその仰々しいシルエットを白い光の中に浮かび上がらせ、鮮烈な印象を放った。

English National Ballet in Akram Khan’s ”Giselle” ©︎Laurent Liotardo

ヴィンチェンツォ・ラマーニャによる音楽は、アダンの原曲にみられるモチーフを随所に使いながら、『ジゼル』のストーリーを音楽で表現するというよりは、作品の中に渦巻く〈感情〉を効果的に増幅させる役割を果たした。この作品には、プログラムの解説を見なければ分かり得ない複雑なドラマツルギーに問題があるという批判もあるが、ラマーニャの音楽同様、この作品の焦点にあるのはむしろ、原典の物語というよりは、そこに描かれる普遍的な人間の感情であり、それが生み出す『ジゼル』という作品全体に漂う空気感なのだ。力強い感情表現が、斬新な音楽、美術、衣装、照明と相まって放つ総合芸術としての強烈なインパクトは、紛れもなく古典版『ジゼル』を踏襲するもの。終演後は、割れんばかりの拍手とスタンディングオベーションとなり、改めて、この作品が21世紀を代表する作品のひとつとなったことを再確認した夜だった。

Stina Quagebeur, Tamara Rojo and James Streeter in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

Stina Quagebeur, Tamara Rojo and James Streeter in Akram Khan’s “Giselle” ©︎Laurent Liotardo

Column
すっかり秋らしくなったロンドン。芸術の秋といえばミュージアム、ということで、今回はヴィクトリア&アルバート博物館(通称V&A)を紹介したい。以前ENBが拠点としていたマルコワハウスから歩いてすぐの、サウスケンジントンにあるミュージアムには、絵画・彫刻・金属細工・家具・服飾などあらゆるジャンルの美術工芸品が展示されているが、その中にある「シアター&パフォーマンス」 コレクションは、バレエファンならぜひ訪れてみて欲しい場所。ニジンスキーの帝室舞踊学校の卒業証書や衣裳、マリー・タリオーニが履いていたバレエ・シューズ、アシュトンの『シンフォニック・ヴァリエーションズ』のオリジナルデザイン、舞台美術の模型など、興味深い展示品の数々に出会える。個人的には、その隣にあるジュエリーコレクションもおすすめ。本物のティアラや色とりどりのジュエリーが時系列に並んでいて、時間を忘れて見入ってしまう。入場無料なので、近くに出かけた際にふらりと立ち寄り、見たい展示品の部屋にだけ行ってカフェや中庭でお茶するなど、好きな楽しみ方ができるのが魅力だ。

 

 

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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