バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 観る
  • 知る
  • 考える

【第18回】英国バレエ通信〜英国ロイヤル・バレエ「Back on Stage」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「Back on Stage」

2020年10月9日、ロイヤル・バレエが約7ヵ月ぶりにオペラハウスに観客を入れて公演を行い、その様子が全世界にオンライン配信された。通常2200人収容する劇場に入ることができたのは、オリヴァー・ダウデン文化相、医療従事者とその家族、ロイヤル・バレエ・スクール アッパー・スクールの生徒、そして有力紙の舞踊評論家というわずか400人の招待客のみ。1階のストール席からは座席が取り払われ、オーケストラが充分な間隔をあけて配置された。まだまだ通常の華やぎとはかけ離れた様子かもしれないが、ガラの最初にオーケストラが『眠れる森の美女』の序曲を演奏したのは、劇場は観客がいてこそ眠りから目覚めるのだというロイヤル・バレエの思いの表れなのだろう。6月に行われた厳かな雰囲気の無観客コンサートの時とは明らかに違う、高揚感を感じさせるオープニングだった。

英国では9月から新型コロナウイルスの感染者数が再び増え始め、現在ロンドンも第二波の真っ只中。10月に入ってからも感染拡大の勢いは止まらず、英国北部を中心に再び厳しい規制が敷かれるようになり、次はいよいよロンドンもローカルロックダウンかと緊張感が高まる中で、この「Back on Stage」公演は行われた。

さらに、公演が行われた週には、政治家たちの文化芸術への理解のなさを露呈するようなニュースが相次いで話題になった。まずは、リシ・スナク財務相がテレビのインタビューで、コロナ禍で職業面での活動の場を失っている人々は再教育を受けて「順応」することを検討すべきだと発言し、アーティストたちが猛反発。さらには、ファティマと名付けられたバレリーナの写真を使用し、ダンサーの再教育を示唆する政府支援の「CyberFirst」キャンペーンも、SNS上でマシュー・ボーンをはじめとするダンス関係者から大きな批判を集めて取り下げになった。

「ファティマの次の仕事は、サイバー空間で見つかるかもしれない。(彼女はまだ知らないだけで)」というコピーが書かれた広告

このような状況下で行われたロイヤル・バレエの団員約70名が出演したガラ公演は、長い間活動の場を失っていたダンサーたちのプライドと迸(ほとばし)るエネルギー、そして英国文化芸術の一翼を担い経済への貢献を自負してきたロイヤル・バレエの底力を見せつけるような密度の濃い3時間だった。ダンサー間のソーシャル・ディスタンシングが徹底される中でも、英国の振付家の作品を中心とするロイヤル・バレエの豊かなレパートリーをコンパクトに堪能できるよう工夫をこらしたプログラムで、間にインタビューなどを挟み、バレエファンだけでなくバレエを初めて見る人も魅きつけるような構成。3月のロックダウン以降、パ・ド・ドゥは私生活のパートナー同士のみに許可されていたが、〈カップル・バブル〉(※1)というシステムの導入によって、それ以外のプリンシパル同士のパ・ド・ドゥが見られるようになったのも嬉しい。

最初に登場したのは、タイトルがそのまま現状と重なるホフェッシュ・シェクター振付『アンタッチャブル』(抜粋)。ロックダウン後のロンドンで初めて披露された群舞の、うねるようなエネルギーと重力を感じさせる踊りが鮮烈なオープニングを飾った。この7ヵ月の間に我々が失っていたものの重みに気づかされると同時に、2015年の初演時にオリジナルキャストとして踊ったアクリ瑠嘉の圧倒的な存在感に思わず目を奪われた。

パ・ド・ドゥのなかでとくに目を引いたのは、通常よりはるかにスローテンポで演奏された音楽の中、研ぎ澄まされた身体で空間の中に軌跡を刻みつけるような踊りを見せた高田茜の、儚さの中にも力強さを秘めた『白鳥の湖』。ほかにも、はじけるような若々しいエネルギーと豊かな表現力で魅せたアナ・ローズ・オサリバンマルセリーノ・サンベのフレッシュな『リーズの結婚』や、ロイヤルのゴールデン・カップル、マリアネラ・ヌニェスワディム・ムンタギロフによる完璧な『ドン・キホーテ』、昨年のこの作品での共演がきっかけで実際に恋に落ちたというフランチェスカ・ヘイワードセザール・コラレス『ロミオとジュリエット』、打ち上げ花火のような若い恋の高揚感に満ちたマヤラ・マグリマシュー・ボール『回転木馬』、今年引退を発表したエドワード・ワトソンが、戦争神経症によって過去のトラウマと現実世界の間で引き裂かれるセプティマス・スミス役を踊って小説『ダロウェイ夫人』の世界を描いた『ウルフ・ワークス』など、一瞬で物語の世界に引き込んで現実を忘れさせてくれる作品が次々と登場した。

Marcelino Sambe and Anna Rose O’Sullivan in The Royal Ballet: Back on Stage © 2020 ROH. Photograph by Tristram Kenton

フィナーレを飾ったケネス・マクミラン振付『エリート・シンコペーションズ』は、私生活でのパートナー同士と〈カップル・バブル〉以外はペアダンスでもお互いに触れずに一定の間隔をあけて踊る特別なヴァージョン。通常キャストの倍の人数が出演し、再び群舞のエネルギーを見せつけた。黒人歴史月間にふさわしいラグタイムの音楽にのせて踊る、解放感に溢れたダンサーたちの笑顔が眩しかった。

The Royal Ballet: Back on Stage © 2020 ROH. Photograph by Tristram Kenton

公演を観ながら、「文化は人々に、恐ろしい現実を忘れさせてくれます。健康に欠かせないものなのです。文化ほど、人々の精神を自由にできるものはありません」というケヴィン・オヘア芸術監督の言葉(※2)を再びかみしめた。「(このガラ公演は)ダンスにできること、つまりダンス鑑賞がどんな感情を喚起するのかということを、人々に知ってもらう良い機会だと思っています。そしてこうした機会を生み出すことは、(王立バレエ団である)私たちの義務でもあるのです」と語るオヘア芸術監督の思いが詰まった公演は、11月8日まで16ポンドで視聴可能となっているので、ぜひ一人でも多くの方に見ていただけたらと思う。

ちなみにロンドンでは、10月17日より、新型コロナウイルス感染の再拡大をめぐって警戒レベルが「中」から「高」に引き上げられ、屋外での7人以上の集会に加えて、屋内での世帯間交流が禁止されることとなった。今後さらに規制が強化される可能性もあるため、11月にロイヤル・オペラハウスで予定されている『エリート・シンコペーションズ』『ウィズイン・ザ・ゴールデン・アワー』、そして12月のソーシャル・ディスタンシングを保った特別版『くるみ割り人形』の上演がスムーズに行われることを祈りたい。

(※1)バレエ団内で、生活をともにするパートナー以外のダンサーと組んで踊るには、特定のパートナーと〈カップル・バブル〉を形成し、週に2回PCR検査を行ったうえで、バレエ団内ではそれ以外の人と接触しない決まりになっている。

(※2)以下の記事より拙訳:Crompton, S. (2020) ‘A Christmas gift from the Royal Ballet — a socially distanced Nutcracker’, The Sunday Times, 1 October.

【Column】

10月から少しずつロンドンの劇場が営業再開する中で、私もついに、ロックダウン後初めて、約7ヵ月ぶりに劇場で観劇をすることができた。ただし、観たのはバレエではなく、子ども向け人形劇の『はらぺこあおむし』。

自宅から徒歩圏内の劇場まで、もうすぐ3歳になる息子を連れて歩いて行った。開演45分前に来場するよう事前連絡があり、到着するとまずはチケットボックスでグループ番号を告げられ、その番号ごとにドアを割り当てられて、ひと組ずつ名前を呼ばれて席に案内されていく。昨年同じ公演を見た際にはほぼ満席だったのに、約400席の劇場には、ソーシャル・ディスタンシング対策で1列につきたった2組しか座っていないのには驚いた。息子の友だちも同じ会場にいたものの、別世帯同士では隣に座ることもできず、息子は「〇〇ちゃんといっしょにすわりたい」と大騒ぎ。なぜ一緒に座れないのかを説明するのにひと苦労した。

照明がついて舞台の上が明るくなると、それまで落ち着きがなかった息子が急にじっと動かなくなった。舞台上に次々と現れる動物の人形やそれを操作する役者たち、そして照明が背景幕に落とすさまざまな影のかたちに、丸い目をさらにまんまるくして見入っている。原作の絵本はもう何百回と読んでいるはずだけれど、「ママ、おつきさまがでてきたよ。あおむしもうすぐでてくるかなぁ」と話しかけてくる息子の顔からは、期待でワクワクしている様子が伝わってきた。役者さんたちの演技に笑ったり不思議そうな顔をしたり、くるくると変わる息子の表情から目が離せない。

3月のロックダウン以降保育園にも戻らず、自宅周辺エリアからほとんど出ずに、少数の友だちと時折公園で一緒に遊ぶだけで、文字どおり小さな世界で生きてきた子が、一瞬で舞台の上の別世界に魅了されているのを見ていたら、ふいに涙がこみ上げてきて自分でも驚いた。コロナ禍で活動の場を失ったダンサーたちが劇場で踊る機会を必要としていることについてはここでも何度も書いてきたけれど、いち観客である自分にとっても、いかに劇場での観劇体験が必要不可欠なものであったかという事実をあらためて突きつけられた気がして、愕然とした。

この7ヵ月の間仕事と育児に追われる合間にいくつものバレエのオンライン配信を見てきたが、正直なところ情報としては見ることができても心揺さぶられるような経験は稀で、そのうえ舞台芸術に関しては気の滅入るニュースばかりが耳に入ってくるので、この連載の方向性にも悩んだ。まさか『はらぺこあおむし』で泣く日がくるとは思っていなかったけれど、上で引用したケヴィン・オヘア監督の言葉のように、劇場で現実を忘れて別世界に没入する観劇という行為は、心を健やかに保つためにも有効な、何物にも代えがたい体験なのだということを、7ヵ月以上失ってみて初めて身をもって実感した1日となった。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

もっとみる

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ