鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。
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イングリッシュ・ナショナル・バレエ「ライモンダ」
「ENBの大躍進」――2012年にタマラ・ロホがイングリッシュ・ナショナル・バレエ(ENB)の芸術監督になってから、何度このフレーズを書いただろう。この10年でENBはカンパニーとして大きく成長を遂げ、その勢いはとどまるところを知らなかった。アンナ=マリー・ホームズ版『海賊』やアクラム・カーンの『ジゼル』などのヒット作を次々と生み出し、女性振付家に焦点をあてたプログラムで注目を集め、ダンサーの質も、ダンサーたちを取り巻く環境も、10年前とは比較にならないくらいに飛躍的に向上させたロホは、いまや誰もが認めるバレエ界の力強いリーダーだ。2022年1月11日、そんなロホが本年の年末よりアメリカの名門サンフランシスコ・バレエの芸術監督になることが発表された。今回およそ5年がかりで完成した『ライモンダ』は、ロホが手がける初の振付・演出作品にして、彼女のENBへの最後の置き土産となることになった。
1898年に初演された、プティパ最後の大作と言われる『ライモンダ』。日本では新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版をレパートリーとしているが、英国では『ライモンダ』全幕を上演するバレエ団はなく、長い間第3幕のみが単独上演されてきた(最近では、ロイヤル・バレエが2019年にルドルフ・ヌレエフ版の第3幕を上演している)。芸術監督に就任して以来、「現代の観客の心に訴える古典作品の上演」をビジョンのひとつに掲げてきたロホにとって、そんな『ライモンダ』の全幕上演は成し遂げなければならない使命のようなものだった。ロホは、グラズノフによる美しい音楽とプティパによるクラシック・バレエの真骨頂ともいうべき振付は、後世に引き継がれていくに値する芸術的価値があるものの、中世の十字軍遠征という設定や貴族の娘がアラブ人に略奪されるという物語は再考の余地があると分析。プティパの振付をできる限り残しつつ、設定と物語を一新するというアプローチを取り、舞台を中世フランスから、現代の英国の観客にとってより馴染みのある19世紀の英国とクリミアに移した。クリミア戦争は、写真家ロジャー・フェントンが世界で初めて写真で記録した戦争でもあることから、フェントンを思わせる写真家の役を登場させ、背景にも古い写真を採用。ポートレート写真に映る歴史の向こうに、それ以上の物語があることを暗示する枠組みを取り入れた。
自立した強い女性の生き方を自ら体現するロホにとって、従来の主役ライモンダがつねに受け身で、深みのないキャラクターであることは大きな懸念点だった。そこで、映画『リリーのすべて』の脚本を手がけたドラマトゥルクのルシンダ・コクソンとリサーチを重ねた末に新たなインスピレーションとなったのが、プティパと同時代に生き、クリミア戦争で看護婦として活躍した新時代の女性を象徴するフローレンス・ナイチンゲールだ。婚約者ジャン・ド・ブリエンヌは騎士ではなく兵士のジョン・ド・ブライアンとなり、ライモンダの結婚相手に相応しい条件を備えた幼馴染という設定に。また、オリジナルに登場するライモンダを略奪するアブデラクマンのキャラクターは、アラブ人に対する偏見に満ちた描写に問題があるとして、ジョンの友人でありオスマン帝国軍の高官のアブドゥル王子という設定に変更され、ロマンティックな情熱を秘めた紳士的な人物として描かれる。
使命感に駆られて看護婦として戦地に赴いたライモンダは、幼馴染ジョンにプロポーズされ、断りきれずに承諾してしまう。そんなライモンダとジョンのパ・ド・ドゥでは、それぞれが逆の方向に進もうとしてふたりの息がまったく合っていない、ギクシャクしたやりとりが繰り返され、会ってすぐに強烈に惹かれ合うアブドゥルとの情熱的なパ・ド・ドゥとは対照的。全幕を通して、ふたりの男性の間で揺れ動く若い女性という三角関係に焦点があてられているが、ライモンダは終幕の結婚式の場面になってようやく、自らの使命を全うするために男性に左右されない生き方を選ぶ。
イングリッシュ・ナショナル・バレエ『ライモンダ』加瀬栞、ジェフリー・シリオ ©Foteini Christofilopoulou
ロホが振付の基盤にしたのは、プティパ存命時の1903年頃にステパノフ式記譜法で舞踊譜に残された振付。とはいえそこにはほとんど男性の踊りは記録されておらず、研究者ダグ・フリントンによって舞踊譜から復元されたのは、主に女性のソロが中心。男性陣の踊りに関しては、ENBの男性ダンサーの層の厚さを誇示するような跳躍と回転技をふんだんに取り入れた、スピーディかつパワフルで見応えのある振付が加えられた。
バレエファンならすぐに気づくであろう、ロホが過去の偉大な振付家たちへの敬意を表して取り入れたとみられる場面も多数。例えば第1幕の夢の場面の導入部で、1日の仕事を終えたライモンダが手紙を書きながらまどろむシーンは、クランコ振付『オネーギン』のタチヤーナを彷彿とさせる。その後、ライモンダの夢の中でジョンが踊る場面では、ライモンダがその中央で完全に静止して佇んでいるが、それはマクミラン振付『ロミオとジュリエット』第3幕での決意を固めたジュリエットがベッドの上で微動だにせずにいる場面と重なる。
また、何人もの戦死した兵士たちがスロープをアラベスクしながら降りてくる場面は、明らかに『ラ・バヤデール』の黄泉の国の場面へのオマージュだろう。さらに第2幕のパーティの場面では、ワガノワ・バレエ・アカデミーの教師ワディム・シローチンによる、スペインやトルコ風のダイナミックなキャラクター・ダンスが展開する。
舞踊譜から復元されたどこまでも純粋な19世紀のクラシック・バレエ、リアリズム的な表現を重視した20世紀のバレエ、旧ソ連的なスタイルを踏襲したキャラクター・ダンスと、さまざまなスタイルのダンスが盛りだくさんで、ほとんどガラ公演を見ているかのようにエンターテインメント性の高い作品となったロホ版『ライモンダ』(さらに3幕の結婚式の場面では、ミュージシャンが舞台に上がって演奏する)。ただ正直に言えば、究極の様式美といってもいいプティパによる振付とその他の場面のスタイルの違いが明白なので、プティパによる振付の場面になるとどうしてもそこだけオリジナル版の『ライモンダ』の世界に引き戻されてしまい、絢爛豪華の対極にあるヴィクトリア朝風の衣裳に違和感を感じざるを得なかったのは残念だった。新たな物語をわかりやすく伝えることと、プティパによる古典バレエの原振付を残すなどオーセンティシティにこだわること、現代の観客にも見応えのあるダイナミックな踊りを取り入れること、そのうえで全幕バレエとしての統一感をもたらすことーーそのすべてをバランスよく実現するのはかなりの難題である。
とはいえ、鑑賞した1月22日の夜公演は、初日(18日)を飾ったファーストキャストとほぼ同じ顔ぶれで、全員が素晴らしい熱演を見せてくれた。中でもライモンダ役を踊った加瀬栞が、難易度の高いソロでも力の入ったところが一切ないエフォートレスな踊りで秀逸。完璧にコントロールされたメリハリのあるフットワークと、空間を大きく使ったしなやかなアームスが美しく、義務と情熱の間で揺れる主人公を繊細に演じてみせた。ツィンバロムというハンガリーの打弦楽器で演奏された第3幕のライモンダのソロでは、激しく手を打ち合わせる代わりに、躊躇いがちにかすかに手を合わせるさまから、自分の決断に対して迷いと恐れを抱きながらジョンとの結婚式にのぞむライモンダの心情が伝わってきた。男性陣では、ジョン役のイサック・エルナンデスを完全に霞ませてしまったアブドゥル役のジェフリー・シリオが、舞台全体を支配するようなエネルギーとスピードで圧倒。ヒョウのような野性味あふれるしなやかさと高貴さが混じり合う情熱的な踊りを見せた。また2幕、3幕ともにカリスマ性にあふれるキャラクター・ダンスを踊った鈴木絵美里も、持ち前の華やかさで魅了。各幕でそれぞれ英国、トルコ、ハンガリーと様々なスタイルのダンスを迫力たっぷりに踊った男性群舞も、10年前のENBとは比較にならないほどの充実ぶりを見せた。
イングリッシュ・ナショナル・バレエ『ライモンダ』加瀬栞 ©Foteini Christofilopoulou
この日は終演後にタマラ・ロホが登場し、加瀬栞のリード・プリンシパル(バレエ団最高位)への昇格を告げるサプライズがあった。加瀬は、ロホの芸術監督就任とともに驚くべきスピードで昇格し、2016年に『海賊』のパリ公演でプリンシパルに昇進した、まさにロホのもとで大輪の花を咲かせたダンサー。プリンシパル昇進後は怪我で舞台から離れていた期間も長かったが、そんな苦しい時期を乗り越えて、強い体幹が可能にするしなやかで精緻な踊りと人間味のある細やかな演技で、初日を任されるに相応しい堂々たるプリマへと成長を遂げた。また前日21日にも、主演したアイトー・アリエッタ(22日はジョンの友人役を好演)とエマ・ホーズのペアが終演後にプリンシパルに昇進。ロホ版『ライモンダ』は、ロホが芸術監督就任時に掲げていたもうひとつの目標である「次世代ダンサーの育成」が達成されたことを証明する、絶好のショーケース的作品となったと言えるだろう。