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英国バレエ通信〈第26回〉〜英国ロイヤル・バレエ「ダンテ・プロジェクト」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「ダンテ・プロジェクト」

2020年5月に予定されながら延期になっていた、英国ロイヤル・バレエとパリ・オペラ座バレエの初の共同制作となる『ダンテ・プロジェクト』が、2021年10月14日、ついにロイヤル・オペラハウスで初演された。

振付を担当したのは、ロイヤル・バレエの常任振付家ウェイン・マクレガー。彼の長年の熱心なアプローチにより、「ベンジャミン・ブリテンの再来」との呼び声高い現代を代表する英国人作曲家/指揮者/ピアニストのトーマス・アデスが音楽を手がけた。美術と衣裳は、数々の受賞歴を誇り、テート・ブリテンで個展も行った英国出身のビジュアルアーティスト、タシタ・ディーンが担当。アデスもディーンも、コミッションを受けてバレエのための作品を手がけるのは今回が初めてとなる。

主人公ダンテ役を踊るのは、マクレガーの長年のミューズであり、その独自の身体性と感性でユニークなキャリアを築いたエドワード・ワトソン。10月30日の千秋楽では、この公演をもって27年間在籍したロイヤル・バレエを引退するワトソンに華を添えるかのように、12人のプリンシパルを含むカンパニー総出の豪華キャストが出演した。

これだけの才能が結集するのだから当然期待度も高かったが、実際予想をはるかに超える大胆な野心作で、総合芸術が何たるかを五感で体感させてくれるパフォーマンスとなった。マクレガーにダンテの『神曲』をテーマにすることを提案したのは、作曲を担当したアデスだったそうだが、あの壮大な叙事詩を、今を生きるアーティストたちの力で想像力豊かに再構築することは、途方もなくリスクの大きな賭けだったことは間違いない。確かに、万人受けするバランスの取れた作品とは言い難いかもしれないが、それでもあらゆる人が困難な時を経て癒しや救いを求めている今、この作品をこのタイミングで世に送り出すことは、ある意味必然だったのだと思わせてくれる作品だった。

作品は、暗闇の森に迷い込んだ主人公のダンテ(ワトソン)が、古代ローマの詩人ウェルギリウス(ギャリー・エイヴィス)、そして永遠の憧れの女性ベアトリーチェ(サラ・ラム)に導かれて死後の3つの世界を旅していく構成になっており、第1幕のインフェルノ(地獄界)では、ダンテとウェルギリウスが道中でさまざまな罪を犯した罪人たちに出会う。背景にあるのは、黒板にチョークで描かれた、荒涼とした印象の逆さになった山々。大胆な筆致と構図が鮮烈なインパクトを与え、ルーシー・カーターによる照明によってさまざまに表情を変える。ダンサーたちが身を包んでいるのは、そんな背景の色味と呼応するグレーがかったユニタードに、白墨をまぶした衣裳。ディーンによれば、この白墨は、彼らが犯した罪を象徴するものだという。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』マヤラ・マグリ、メリッサ・ハミルトン ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

振付は、マクレガーの他の作品に比べるとよりクラシックなステップを基調にしている印象を受けたが、身体の限界に挑むようにバレエ言語を極限まで拡張するスリリングなステップとのコントラストが鮮烈だ。不義の愛のために殺された〈フランチェスカとパオロ〉を踊るフランチェスカ・ヘイワードマシュー・ボールの疾風のようにパワフルなパ・ド・ドゥ、カルヴィン・リチャードソンによるスリルに満ちた〈ユリシーズ〉、ジェームス・ヘイによる自惚れの強い教皇など、それぞれの特徴をよく表した音楽にのせて13ものエピソードが次々に展開していく。重々しい場面が続くのかと思いきや、掴みかかっていがみあうマヤラ・マグリメリッサ・ハミルトンの〈憤怒者たち〉やジョセフ・シセンズポール・ケイの〈予言者たち〉などのコミカルな場面もあって飽きさせない。そして圧巻は、アクリ瑠嘉マシュー・ボールマルセリーノ・サンべら11人の男性ダンサーが人間離れした超高速の回転や息を呑む跳躍を見せる迫力満点の〈盗賊たち〉。ブラヴォの掛け声があちこちから沸き起こり、客席の興奮が最高潮に達した(11人の中で誰よりも目を引いたのは、マクレガーの振付で圧倒的な輝きを見せるジョセフ・シセンズだった)。そして最後に地獄界の底にある氷の湖で待っていたのは、金子扶生演じるサタン。1週間前に可憐なジュリエットを演じたとは信じがたい冷徹な表情の金子は、そのカリスマあふれる存在感で舞台を支配した。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』エドワード・ワトソン、金子扶生 ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

『ダンテ交響曲』、『ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲』などを手がけたフランツ・リストにインスパイアされたという音楽は、『マイヤリング』などのバレエファンに馴染みのあるリストの旋律とアデス独自の旋律の間を自在に行き来し、9つの領域を通って下降していく、地獄界の深さを感じさせる重層的な音楽。プログラムの解説の中で、アデス自身は1幕の地獄界での冒険を、『くるみ割り人形』のお菓子の国の場面と比較していたが、エイヴィス演じるドロッセルマイヤーならぬウェルギリウスの案内で、ダンテがさまざまなダンサーの踊りを目撃しながらサタンに出会うまでの過程は、確かにあのお馴染みのフォーマットに似ている。ただし、音楽、衣裳、背景、照明、パフォーマンスといった一つひとつの要素が合わさった時に劇場内を満たす膨大なエネルギーのうねりのようなものは、『くるみ割り人形』よりもはるかに刺激的だ。鑑賞する座席の位置によってもまったく違う印象を受けるに違いなく、映像に残すのが最も難しい作品のひとつに分類できるかもしれない。

2019年に完成した1幕が50分という長さだったのに比べ、ロックダウンを経てこの夏に振付けられたという2幕と3幕はどちらも約30分とよりコンパクトにまとまっている。2幕のパーガトリオ(煉獄界)は、罪を悔い改める人々が浄化される場所。エルサレムのシナゴーグで歌われる聖歌がそのまま音楽に取り入れられており、ロサンゼルスの街に立つジャカランダの木をフィーチャーした背景が、現世との繋がりを示している。ここでは、「愛」という副題が示唆するように、ダンテの幼馴染であり永遠の恋人であるベアトリーチェへの愛を思い出すことが、天国へと上昇する鍵となっており、子ども時代、そして青年時代のベアトリーチェとダンテがそれぞれ登場する。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』 ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

青年時代のダンテに抜擢されたのは、2020年のローザンヌ国際バレエコンクールで優勝したマルコ・マシャーリ。柔軟性のある肢体と躍動感あふれる踊り、そして卓越した表現力がかつてのワトソンを彷彿とさせるロイヤル期待の新星だ。若きベアトリーチェを演じたフランチェスカ・ヘイワードやワトソンと並んでもまったく引けを取らない華やかな存在感と、そのしなやかな四肢が描くマクレガーらしい造形からとにかく目が離せない。そんな新進気鋭のダンサーとして注目されているマシャーリとワトソンの最初で最後の共演は、ワトソンが築いたレガシーが次世代へと引き継がれていくことを象徴しているようでもあった。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』エドワード・ワトソン、マルコ・マシャーリ ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

そして2幕の最後に登場したのは、24歳という若さで死に、スピリットとなったベアトリーチェ(サラ・ラム)。舞台の奥からひそやかに登場し、ダンテを光のほうへ導くように踊る姿は、この世のものならぬ軽やかさと神聖さに満ちており、ウェルギリウスにかわってダンテを天国へと案内する。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』エドワード・ワトソン、サラ・ラム ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

3幕のパラディーソ(天国界)は、惑星をイメージしたさまざまな色や円形のモチーフで構成された、抽象画のような世界。形や色を変えていく惑星の映像が背景のスクリーンに映し出され、メタリックな煌めきを放つ白っぽいユニタードに身を包んだ18人のダンサーが登場する。高田茜平野亮一マルセリーノ・サンべアレクサンダー・キャンベルら8人のプリンシパルを含む豪華な面々が、一人ひとりが天体になったかのように回転し、ヒプノティックな音楽とともに夢の中にいるような印象を与える。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』 ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』高田茜、マシュー・ボール ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』マルセリーノ・サンべ、カルヴィン・リチャードソン、平野亮一 ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

そして、そのすべての道程の中心にいるのがワトソン演じる悩めるダンテだ。『マイヤリング』のルドルフ皇太子や『変身 METAMORPHOSIS』の虫に変身していく男など、彼にしか表現できない世界で観客を魅了し、時に驚嘆させてきたワトソンが、全幕を通してその稀有な存在感、音楽性、目を見張る柔軟性を存分に発揮。ダンテの、そしてワトソン自身の魂を刻みつけるような踊りで魅了した。3幕最後のベアトリーチェとの親密なデュエットの後、まるで「もう大丈夫」というかのようにベアトリーチェが暗闇の中へ消えていくと、たったひとり残されたダンテは、客席全体を白く包む光のほうへ向かって進んでゆく。ダンテとワトソン自身の長い旅の終わりに相応しい、ドラマティックな幕切れだった。

英国ロイヤル・バレエ『ダンテ・プロジェクト』エドワード・ワトソン、サラ・ラム ©2021 ROH. Photograph by Andrej Uspenski

ダンサー、スタッフ、観客の多くが文字通り地獄と煉獄を経験した18ヵ月を経て、やっと完成した舞台。ダンサー全員が熱狂のうちに踊り、今の私たちが必要としている希望の光が何かを問いかけるさまはそれだけで胸に込み上げてくるものがあり、それは同時に、ロイヤル・バレエを今ある姿にした立役者でもあるワトソンに対する賛歌のようでもあった。プログラムを読み込まなければ分かりづらい部分も多々あり、確かに現時点では完璧な作品とは言えないのかもしれないが、そんなことはどうでもよくなるくらい力強い全体のエネルギーを、あの場で共有し、肌で感じることができた観客は幸運だと思う。

カーテンコールでは、ケヴィン・オヘア芸術監督マクレガー、団員、スタッフ、そしてリャーン・ベンジャミンらワトソンのかつてのパートナーが登場。舞台上のスクリーンにも、吉田都新国立劇場バレエ団芸術監督をはじめとするワトソンのダンサー人生を支えてきた人々が、彼の人となりを3語で表現する映像が流れた。あとからあとから花が投げ込まれ、「唯一無二のエドワード・ワトソン」に相応しい、盛大なセレモニーとなった。

ちなみに、引退が何度も延期されて文字通り煉獄にいるような状態を経験し、この18ヵ月の間『ダンテ・プロジェクト』を完成させることだけをモチベーションとしてきたというワトソンだが、引退後もバレエ団に残り、引き続きダンサーのリハーサル指導にあたることが決まっている。ワトソンによって命を吹き込まれた役の数々が、次世代のダンサーたちに直接引き継がれていくことこそ、ロイヤル・バレエにとって何よりの貴重な財産になることだろう。

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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