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英国バレエ通信〈第31回〉〜ノーザン・バレエ「カサノヴァ」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

ノーザン・バレエ「カサノヴァ」

英国北部の都市リーズに拠点を置くツアーカンパニーのノーザン・バレエは、物語バレエの伝統で知られる英国5大バレエ団のひとつ。創立者のラヴァーン・マイヤー、英国ロイヤル・バレエのスターとして活躍したクリストファー・ゲーブルをはじめ、現役時代その演技に定評のあったダンサーが歴代芸術監督を務めてきた。現在は、前芸術監督デイビッド・ニクソンが手がけた『嵐が丘』『グレート・ギャッツビー』、キャシー・マーストン振付『ヴィクトリア』など、文学作品や実在の人物の人生を下敷きにした演劇的な全幕バレエ作品をレパートリーの中心にしている。

2022年5月に元英国ロイヤル・バレエのプリンシパルのフェデリコ・ボネッリが芸術監督に就任したことで、今後の活動に注目が集まっているノーザン・バレエだが、新芸術監督の就任以来初めてのロンドン公演が、5月10日〜14日にサドラーズ・ウェルズ劇場で行われた。

演目は2017年に初演された話題作『カサノヴァ』。2015年まで同バレエ団のダンサーとして踊っていたケネス・ティンダルが振付を手がけた初の全幕物の物語バレエである。カサノヴァといえば、生涯で1000人以上もの女性と関係を持ったと言われる18世紀に実在したジャコモ・カサノヴァのことであり、〈女たらし〉の同義語でもある。ティンダルは、カサノヴァの伝記を執筆したイアン・ケリーに台本を依頼し、その波瀾万丈な一生を色鮮やかに描き出してみせた。

舞台は、ヴェネツィアでカサノヴァが聖職者の見習いをしている場面から始まる。そびえ立つ金色の支柱、薄暗い教会内に上から差し込む光のコントラストなど、ミュージカル『アナと雪の女王』の美術も手がけたクリストファー・オラムによる重厚感のあるセットが幕開きから鮮烈な印象。そんななかで際立った存在感を放つのが、キューバ出身のプレミア・ダンサー(バレエ団最高位ダンサー)、ハビエル・トレス演じるカサノヴァである。ナネッタとマルタの姉妹と肉体関係を持ったことで教会での職に見切りをつけ、楽団でヴァイオリニストになったかと思えば、持ち前のウィットを発揮して貴族ブラガディンやポンパドゥール夫人に気に入られて政治の世界にも足を踏み入れ、いっぽうで作家としての才も発揮する。女たらしのイメージばかりが一人歩きしてしまったカサノヴァを、多才で魅力あふれる人物としてさまざまな角度から描こうとした点が興味深い。

官能的なシーンも多々あり、誘惑者としてのカサノヴァももちろん描かれるが、いちばん見応えがあったのは、カサノヴァが魅了された男装の女性たちとのデュエット。女性であることを隠してカストラートとして活動するベリーノとの踊りでは、顔を手で覆うようにする〈仮面〉をモチーフにした動きが鍵になっている。完全に相手を信頼して身を委ねることが求められるリスクの高い振付によって、プリンシパル・ソリストのミンジュ・カン演じるベリーノがカサノヴァに女性として心を開いていく過程が巧みに表現されていた。カサノヴァを惹きつけるもうひとりの異性装の女性は、ファースト・ソリストの白井沙恵佳が演じたアンリエット。暴力的な夫から逃れるため兵士に扮装し、我が子を思う気持ちとカサノヴァへの恋心の間で葛藤する難役である。そんな弱い立場にある女性たちを思いやり、彼女たちから信頼されるカサノヴァ。おそらく、彼の人間味あふれるこうした一面をもっと拡大することができれば、よりドラマに深みが生まれたことだろう。バレエ作品にしてはプロットが複雑すぎ、エピソードに継ぐエピソードでやや忙しい印象になってしまったのが残念だった。とはいえ、インパクトのある18世紀風の衣裳を纏ったダンサーたちはじゅうぶんに魅力的で退屈する瞬間はなく、野心に満ちた大胆な意欲作であることは間違いない。

この日は、カリスマあふれるカサノヴァ役を踊ったハビエル・トレスの引退公演ということもあり、プログラムにはトレスこれまでの経歴と、キャリアをともにした人々からの愛あるメッセージがまとめられた冊子が添えられていたほか、終幕後にはボネッリ新芸術監督やトレス自身によるスピーチを含む引退セレモニーがあった(ボネッリは、この日のために来英したトレスの両親に向け、一部スペイン語でスピーチしていた)。レベルの高いクラシック・バレエで知られるキューバ国立バレエの最高位ダンサーとして活躍したのちに、まったく異なる環境と文化、レパートリーを持つノーザン・バレエに移籍し、12年間看板ダンサーとして活躍した異色の経歴の持ち主であるトレス。温かい拍手がいつまでも鳴り響き、バレエ団のひとつの時代の終わりを告げていた。

★次回更新は2022年6月30日(木)の予定です

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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