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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第9回〉ナポレオンとオペラ座〜余の辞書にも「オペラ座」の文字はある

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのために、マニアックすぎる連載を始めます。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

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「フランスの歴史に名を残す有名人を1人挙げて」と言われたら、読者のみなさまは誰を思い浮かべるでしょうか? 最も有名な歴史上の人物のランキング上位に必ず食い込んでくる常連は何人かいますが、その中でもとくに広く知られているのは、ナポレオン・ボナパルト(1769–1821)かもしれません。2021年は彼の没後200年という節目の年であり、フランスでも展覧会や研究会、コンサート、特集番組などが企画されて、フランスを代表する超有名人のさまざまな側面を再検討する機会があったそうです。

ナポレオン・ボナパルト

ナポレオンが実際に天下を取っていたのは短い期間だったのですが、彼は近代フランスの社会・政治・法律制度へつながる礎を築いたということもあり、当時とその後のフランスのありかたに対する影響力には、計り知れないものがあります。しかし、ナポレオンとパリ・オペラ座、あるいはバレエとの関わりについて触れられる機会はそう多くありません。今回は、このフランスの英雄とパリ・オペラ座の関係についてご紹介します。

英雄の「推しメン」、エミリー・ビゴッティーニ

革命の混乱を収め、皇帝として即位したナポレオンには、ご贔屓にしたオペラ座のダンサーがいたと言われています。そのダンサーの名は、エミリー(エミリア)・ビゴッティーニ(1784–1858)。

エミリー・ビゴッティーニ

フランス南西部の中心都市のひとつ、トゥールーズに生まれたビゴッティーニは、パリのいくつかの舞台に出演して初期のキャリアを築いたのち、1801年に17歳でオペラ座の舞台にデビューしました。彼女の踊りを指導していたのは、当時オペラ座のメートル・ド・バレエを務めていた、ルイ・ミロン(1766–1849)です。彼はビゴッティーニの義理の兄でもあり、そのためか、ビゴッティーニはミロンの振付作品で大いに能力を発揮しました。彼女の得意技はマイムだったらしく、オペラ座の先輩ダンサー、マリー・ガルデル(旧姓ミエ、1770–1833)が演じていた役をデビュー直後から引き継ぎ、ジャンル・セリウー(ノーブル)のダンサーとして、引退する1823年まで「向かうところ敵なし」の大活躍を繰り広げました。

今日、ビゴッティーニを描いた版画や絵画はいくつか残っており、彼女が目鼻立ちのくっきりとした顔立ちをしていたことがわかります。ナポレオンはその彼女を「推しメン」とし、公邸としたチュイルリー宮殿で催すバレエ公演の出演者にも選抜するなどして、高額な特別手当を与えたという逸話もあるようです。英雄もやはり人の子、と言いましょうか、ご贔屓のダンサーに出演の舞台を提供してしまう、というのは、国を統べる皇帝ならではのビッグスケールな「推し活」ですね!

……というところで今回の連載を終えても良いのですが、これでは読者のみなさまにはまったく物足りないですよね。というわけで、本題はここからです。

そもそも、フランス本土よりもイタリアのほうにより近い地中海の島、コルシカ島で生まれ育ったナポレオンは、どのようにしてバレエ、そしてオペラ座への興味を持ったのでしょうか? 上流階級のたしなみだったから? あるいは、芸術に対する熱意を持っていたから? 確かにナポレオンは貴族階級の出身ですが、17〜18世紀にフランスのバレエを振興したブルボン朝の王様たちとは異なり、本人がバレエを踊ったり、楽器を演奏したりすることはありませんでした。また、10代のころからナポレオンを知り、後年、彼の秘書となるルイ・ブーリエンヌが語ったとされるところによると、少年時代のナポレオンは、当時の貴族にとって重要な教養だった文学や美術などの芸術に、大して関心を示さなかったそうです。

つまり、ナポレオンはオペラやバレエといった舞台芸術にどハマりしていたわけではないようなのですが、じつは彼は、皇帝即位以降の内政において、パリ・オペラ座の存在を非常に重視していたのです。その裏には、ナポレオンの巧みな自己プロデュース戦略がありました。

自己アピールのための芸術活用術

1804年に自らの頭に月桂冠を乗せ、「フランス人の皇帝」として即位したナポレオンは、政治や法律、軍事面以外のものごとに関しても、フランスにとって非常に重要な政策を次々に実行していきます。そのうちのひとつが、芸術を使ったプロパガンダでした。

たとえば美術分野では、ナポレオンは自身を賛美する内容の絵画や野外モニュメントを制作させることで、側近や政府関係者だけでなく、市民による皇帝への崇拝心も高めようとしました。その一例が今日のチュイルリー公園にあるカルーゼル凱旋門であり、あるいはパリを象徴する名所のひとつ、エトワール広場の凱旋門(ナポレオンの死後に完成)です。圧倒的な建造物に刻まれた皇帝の勝利の記録を見上げれば、人々の高揚感は大いに高まり、知らず知らずのうちに「ナポレオンの偉大さ」を胸に刻むことになったでしょう。

こうしたプロパガンダの手法は、フランス革命の際に革命政府が採った、オペラやバレエの活用方針と共通しています(本連載の第6回を参照)。つまり、ナポレオンもオペラやバレエが持つ世論操作の力、芸術作品が持つ人々への影響力を、よく見抜いていたのです。そのため彼は、西洋の絵画で伝統的に描かれてきた、統治者をギリシャ神話の登場人物などになぞらえる寓意画ではなく、ナポレオンその人を主人公とする造形芸術作品をより好んだ、と言われています。

そして、音楽分野でナポレオンが自己アピールのために大いに利用したのがオペラでした。大規模な舞台装置に華麗な衣裳、美声を誇る歌手と鍛え抜かれた身体の技術で魅せるダンサー、オーケストラの壮大な演奏が集結するフランスのオペラは、どこをとっても豪華絢爛。これらの特徴が自身の偉大さのありようと一致する、とみたナポレオンは、オペラをフランスにおける音楽芸術の中心的なジャンルとし、自身の戦功をイメージさせるような作品も作らせました。

これまでの連載でもご紹介してきたように、フランスのオペラやバレエは、18世紀までの貴族階級、とくに王家との伝統的なつながりも持っています。そうしたジャンルを重視することは、フランス革命後の世界で君主として振る舞うナポレオンにとって、極めて重要でした。なぜなら、ナポレオンが専制君主の立場になるには、絶対君主制を否定した革命を、さらに否定しないといけないからです。王家という伝統とのつながりを思わせつつ、しかし王以上の「皇帝」という存在へ自らを導く。すべては自己アピールのためのツールであり、ナポレオンはそのツールを使いこなした情報戦略の天才とも言えるでしょう。

1807年の劇場法整備

皇帝に即位したナポレオンは、その後、より具体的にオペラ座への介入を強めます。それが、1806年と1807年に発布された、パリ市内の劇場における上演ジャンルを規制する法律の導入でした。

フランス革命後のパリでは、革命政府の方針によって劇場の開設が自由化されたため、まるで雨後の筍のごとく、新しい劇場が次々に生まれました。しかし、どこでも同じような作品を上演してしまったり、劇場間での観客の取り合いが起こったりしたことで、パリ市内の舞台芸術文化は無秩序化します。これはナポレオンにとってもゆゆしき事態でした。というのも、劇場が乱立し、そこで上演される演目の内容を把握できなくなると、せっかく作り上げた英雄的な自分のイメージが損なわれてしまうかもしれないためです。

そこで彼は、パリ市内の劇場の数を8つだけに絞り、それぞれの劇場を確実に監督できるようにした上で、各劇場が上演できるジャンルを細かく定め、劇場どうしの違いを明確にしました。この当時、パリ市内で歌や踊りが付属する舞台作品を上演していた劇場はいくつか存在していたのですが、ナポレオンの政令によって、オペラとバレエをパリ市内で上演できるのはパリ・オペラ座だけになります。他の劇場が常設のバレエ団を持つことや、バレエを含む作品を上演することは厳しく制限されました。

この規制はナポレオンが帝位から去った後も継続され、1864年にナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンによって廃止されるまで、パリのオペラ・バレエ界にとても深い影響を及ぼしました。実際、パリ・オペラ座が「オペラ・バレエを唯一上演できる劇場」だったからこそ、19世紀のフランス・バレエの名作は、オペラ座の舞台から発信されていったのです。そして何よりこの政令は、パリのバレエ文化におけるオペラ座バレエ団の絶対的な立場を、より強固にしました。ナポレオンの業績は、特に行政・経済・教育の面で評価されることが多いのですが、彼が音楽や舞台芸術にもかなりの影響を及ぼしたことも、じつは無視できない一面なのです。

★次回は2022年3月5日(土)更新予定です

参考資料

今谷和徳、井上さつき 2010年。『フランス音楽史』東京、春秋社。

杉本淑彦、2018年。『ナポレオン——最後の専制君主、最初の近代政治家』東京、岩波新書。

ド・プラース、アデライード 2002年。『革命下のパリに音楽は流れる』長谷川博史訳。東京、春秋社。

Auclair, Mathias et Ghristi, Christophe (dir.) 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris, Albin Michel.

Guest, Ivor. 2002. Ballet under Napoleon. Hampshire, Dance Books Ltd.

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

1984年生まれ。桐朋学園大学卒業、慶應義塾大学大学院を経て、パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。2012年度フランス政府給費生。専門は西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)。現在、20世紀のフランス音楽と、パリ・オペラ座のバレエの稽古伴奏者の歴史研究を行っている。

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