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ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第15回〉「性差を巡る冒険」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

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性差を巡る冒険

この世にはしばしば、奇妙なルールが当たり前のような顔をして横行している。是正・解消されたあと、「どうしてあんなものを受け入れていたのだろう?」と、狐につままれたような気持ちになるのだ。性差に関する慣習も、その一つ。男の子は青色や黒色で女の子はピンク色や赤色、学校の出席番号は男子が先、男子は勇ましく女子は慎ましく……といった具合に、小さい頃から様々な刷り込みが行われ、会社に入っても親になっても、どこまでもそれは続くけれど、もっと自由で多様であってもいいはずだ。舞台芸術は時として、そのことを気づかせてくれる。

旧弊な男女のルールに抗して〜トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団、グランディーバ バレエ団、Ballez〜

歴史と共にスタイルを確立させたダンスは必然的に、旧弊な男女観を反映することになる。筆者は多感で生意気な10代の頃、女子だけの体育の授業でフォークダンスを練習し、とあるイベントにおいて別のところから来た男子と合同で踊るという局面で、女子だけの授業で覚えた男性の振りを踊ったことがある。バレエのリフトやサポートほど実用的な理由があるとも思えないのに、男子が女子をエスコートする振付に反発心を覚えたのが理由だが、組んだ男子はさぞ困惑しただろう。申し訳ないことをしたものだ。

この種の反発心はしかし、新たな表現に向かうこともある。トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団グランディーバ バレエ団も言ってみればその一つ。コメディタッチではあるが、男性がトウシューズを履き、バレリーナ役をこなすというスタイルで世界中を回ったのは画期的だった。

近年では、旧来の男女の役割から脱却した作品をコメディとは違う形で世に問うカンパニーも出てきている。レズビアンの振付家ケイティ・パイルが2011年に創始したBallez では、バレエの世界で当たり前とされていた前近代的な価値観からの脱却をミッションとし、古典の独自解釈を含む新しい作品を世に送り出している。

また、保守的な慣習が根強い社交ダンスの世界でもジェンダーフリー化が進み、同性ペアのダンスも目にするようになってきた。男性がリードし女性がフォローするという従来のスタイルに対して、ダンサーのトレバー・コップとジェフ・フォックスが新たな「流動的リード」を提案するTEDの以下の動画は示唆的な内容となっているので、ぜひ見てみてほしい。

女性の視点から読み直す〜演劇『ウェンディ&ピーターパン』〜

「シンデレラ・コンプレックス」「ピーターパン・シンドローム」という言葉を聞いたことがある方は多いだろう。前者は1981年にアメリカの作家コレット・ダウリングが、後者は1983年にアメリカの心理学者ダン・カイリーが提唱した。ダウリーはさらに、ピーターパンに対するウェンディのように自分のことは後回しで男性の世話を最優先してしまう女性を「ウェンディ・ジレンマ」と定義している。程度の差はあれ、いつか白馬の王子様が迎えに来てくれるという女性のシンデレラ願望も、いつまでもピーターパンのように童心を忘れず気ままに生きたいという男性の理想も、そんな男性に翻弄されてしまう女性心理も、決して珍しいものではないだろう。持って生まれた性格、家庭環境、さらには冒頭に述べたような“刷り込み”も、影響を及ぼしていると言える。

今月上演されるエラ・ヒクソン作『ウェンディ&ピーターパン』は、『ピーターパン』の生みの親ジェームス・マシュー・バリーによる戯曲を、ウェンディの視点から翻案し2013年に英国ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが世界初演した作品だ。

〈『ウェンディ&ピーターパン』あらすじ〉
ダーリング家の子どもたち、ウェンディ、ジョン、マイケル、トムのうち、身体の弱いトムが熱を出す。すると子供部屋の窓からピーターがやってきてトムを連れて行ってしまう。トムは命を落としたのだった。1年後。子供部屋の窓が開き、再びピーターパンが現れる。ティンカーベル(ティンク)も一緒だ。トムが帰ってきたのではないかと期待したウェンディは違うとわかってがっかりするが、ピーターから、いなくなった男の子たち=ロスト・ボーイズがネバーランドにいると聞き、ジョンとマイケルを起こして、トムを探すためネバーランドへ旅立つ。

ネバーランドで、ロスト・ボーイズや、ピーターパンと敵対するフック船長と海賊たち、フック船長らに滅ぼされた種族の生き残りタイガーリリーらと出会うウェンディ。しかしトムはみつからない。
そんな中、最初は反目し合ったネバーランドの数少ない女子であるウェンディ、タイガーリリー、ティンクの関係性が変わっていき……。

原作では、男子たちの都合に振り回され、翻弄される、ウェンディ、タイガーリリー、ティンカーベル。彼女たちが、受動的であることを止め、主体的に行動を起こし始める姿は爽快だ。また、ウェンディらの両親、ミセス・ダーリングとミスター・ダーリングの夫婦像も非常に現代的。

今回は、本作初演も手がけたイギリスの演出家ジョナサン・マンビィの演出のもと、ウェンディを黒木華、ピーターパンを中島裕翔が演じるほか、ジョンに平埜生成、マイケルに前原滉、ティンクに富田望生、タイガー・リリーに山崎紘菜、海賊の一人であるスミーに玉置孝匡、ミセス・ダーリングに石田ひかり、フック船長とミスター・ダーリングに堤真一という布陣。筋の大枠は変わらないようでいて、細部から確実に、新たな物語としての姿を見せていく『ウェンディ&ピーターパン』は、現代にふさわしい作品だ。

『ウェンディ&ピーターパン』公演ビジュアル

ドラァグクイーンに憧れる男子学生の青春〜ミュージカル『ジェイミー』〜

2011年にBBCのドキュメンタリーから生まれたイギリスミュージカル『ジェイミー』も、『ウェンディ&ピーターパン』同様、新時代の物語と言える作品だろう。

〈『ジェイミー』あらすじ〉
16歳の少年ジェイミーは、授業で将来何になりたいかを聞かれ、「パフォーマー」と答えるが、本当になりたいのは、ドラァグクイーン。14歳で同性愛者であることをカミングアウトしているジェイミーは、女装した姿で高校のプロムに出演したいと考えているのだ。
その思いを知っている母親から、誕生日に赤いハイヒールをプレゼントされたジェイミー。ドラァグクイーン専門のドレスショップに行き、伝説のドラァグクイーンだった店主との交流を通して、新たな世界の扉を開く。
別れて暮らす父親や学校側や同級生らの無理解・偏見に遭いながらも、母親や親友、先輩ドラァグクイーンたちの応援を受け、運命の日を迎えるジェイミー。果たして、プロムに自分が望む姿で参加できるのか??

ウエストエンドやブロードウェイのミュージカルはこれまで様々なマイノリティの苦闘を描いてきた。11月に公演予定の、ファシズムが台頭する南米の刑務所を舞台に若き政治犯ヴァレンティンとゲイのモリーナの交流を陰影深く描いたミュージカル『蜘蛛女のキス』などもその一つ。

しかし『ジェイミー』の主人公は、明るくひたむきに夢に向かって進んでいく。周囲にも、それを妨げる人たちと同じ分だけ応援する人たちがいる。悩みや葛藤もあるけれど、思春期なら誰もが直面するものの延長線上という雰囲気が特徴的。もちろん、実際には今でも問題は多いわけだが、社会にそれだけマイノリティが受け入れられてきた証左と、敢えて呼びたい作品だ。

『ジェイミー』公演ビジュアル ジェイミー役(Wキャスト)左から:森崎ウィン、髙橋颯

性別の往還・転覆〜歌舞伎『弁天娘女男白浪』、バレエ『サロメ』『エオンナガタ』、演劇『ジュリアス・シーザー』〜

出雲のお国と呼ばれる女性によって創始されながらも、江戸幕府の禁令により、男性だけで演じられることになった歌舞伎。面白いのは、ただ男性が女性を演じるだけではなく、その特性を生かし、女性と男性を行き来する役柄や演出が生まれたことだろう。中でも特に有名なのが、『弁天娘女男白浪』の弁天小僧菊之助だ。

〈『弁天娘女男白浪』あらすじ〉
若党を伴って呉服屋の浜松屋に現れた一人の娘。良家の子女だという彼女は、婚礼支度の買い物がしたいと言って品物を見るふりをしながら、自身の緋鹿子を店の緋鹿子の中に忍ばせたあと、それを懐に入れ直し、あたかも店の品を盗んだかのように見せかける。店の番頭がこれを咎め、娘の額を算盤で打つと、娘と若党は、緋鹿子が店のものではないことを示し、法外な金額を店に要求する。

ところが、この強請(ゆす)りが成功しそうになったところで、店の奥にいた侍が、二人が騙りであること、そして、ちらりと見えた腕の刺青から娘が男であることを喝破する。
正体が露見して慌てるどころか堂々と居直る二人。娘に化けていた少年は片肌を脱ぎ、有名な「知らざあ言って聞かせやしょう」以下の名台詞と共に、自らが盗賊の弁天小僧菊之助であることを名乗るのだった。

しとやかな振り袖姿の娘から、刺青の入った半裸を見せつける美少年へ。声色の変化と共に、姿も仕草も瞬時に女から男へ変わる瞬間の、なんと美しくセンセーショナルであることか。

平成31年歌舞伎座「三月大歌舞伎」『弁天娘女男白浪』より 弁天小僧菊之助を日替わりで松本幸四郎、市川猿之助が演じた

虚構の性別で演じられる役の中に、演者の性別と同じ“正体”をもつ役柄が混じるのは、宝塚歌劇団の代表演目『ベルサイユのばら』におけるオスカルにも見られる面白い現象だ。そこでは自ずと、人が「女性らしさ」「男性らしさ」として認識するものとは何かが浮き彫りになる。

ところで、性別の往還ということを考える時に思い浮かぶ舞台として、ベジャールがパトリック・デュポンのために振付けたソロ『サロメ』がある。女性と男性のどちらでもないような、あるいはその両方を行き来するようなこの作品は、歌舞伎からインスピレーションを得て作られたことで知られる。

NBS 公益財団法人日本舞台芸術振興会 公式インスタグラムより

また、生涯の前半を男性として、後半を女性として生きたとされる”エオンの騎士”に、歌舞伎の「女形」を組み合わせてタイトルにした『エオンナガタ』は、シルヴィ・ギエム、ロベール・ルパージュ、ラッセル・マリファントという、ジャンルも性別も異なる三人が、踊ったり歌ったり演じたりしながら、あらゆる“二項”の考察から人間の根源にまで迫ろうとする、示唆に富んだ舞台だった。

最後に、歌舞伎とも宝塚とも違うが、この秋注目したい同性のみの舞台を一つ。森新太郎演出のもと、オールフィメールキャストで送る10月のシェイクスピア劇『ジュリアス・シーザー』だ。英雄シーザーを暗殺するブルータス役に吉田羊、シーザーの腹心アントニーに松井玲奈、ブルータスの友人のキャシアス役に松本紀保、シーザー役にシルビア・グラブ、ほか。男たちの世界を、女性だけで演じることにより、何が見えてくるか、楽しみにしたい。

パルコ・プロデュース『ジュリアス・シーザー』出演者 写真上段左から:吉田羊、松井玲奈、下段左から:松本紀保、シルビア・グラブ

ジェンダーロールの話から、演じる性別と演じられる性別の話まで、まとめて紹介してしまったが、見方しだいで、それらは繋がったものとして考えることができる。「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」と言ったのは石川五右衛門だとされるが、私達すべてに関わるこの話題が尽きることは恐らくなく、刺激的な舞台の種も生まれ続けるに違いない。

★次回は2021年9月1日(水)更新予定です

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舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

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