事情により約1年ほど休載していた「英国バレエ通信」を再開! 執筆は連載「鑑賞のためのバレエ・テクニック大研究!」 の著者でもある海野敏 さん(舞踊評論家・東洋大学教授)です。
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英国ロイヤル・バレエ「マッドアダム」
この秋の英国ロイヤル・バレエの公演で筆者がもっとも楽しみにしていたのは、ウェイン・マグレガー振付『マッドアダム』 である。同作品はカナダ・ナショナル・バレエ(National Ballet of Canada)で2022年に制作され、改訂して今回ロイヤル・バレエでの初演である。事前の情報から期待が膨らんでいたが、期待は裏切られなかった。
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カナダ・ナショナル・バレエ「マッドアダム」トレイラー
原作は、カナダ文学の今を代表する作家、マーガレット・アトウッドの「マッドアダム3部作」で、人類の近未来を描いた長編SF小説である。マグレガーはアトウッドの壮大な物語からエッセンスを抽出し、原作のイメージを損なうことなく、全3幕、2時間40分の舞台にまとめ上げた(注1) 。
舞台は、新型ウイルスのパンデミックで人類がほぼ死滅し、遺伝子工学で造った新生物と、やはり遺伝子操作で誕生した人造人間が暮らす世界。独り生き残ったと信じているジミーは、スノーマンと名乗って新世界をさまよいつつ、かつて愛したオリクスや親友の科学者クレイクとの過去を回想する。いっぽう、やはり偶然パンデミックを生き延びた女性トビーは、銃を手に新生物「ピグーン」と戦い、少女レンとともに行動し、犯罪者集団に誘拐されたアマンダを救い出す。
ロイヤル・バレエ「マッドアダム」ジョセフ・シセンズ(ジミー/スノーマン)©2024 ROH. Photographed by Andrej Uspenski
別キャストで2回鑑賞した。まず初日は、ジミー=ジョセフ・シセンズ 、オリクス=金子扶生 、クレイク=ウィリアム・ブレイスウェル 、トビー=メリッサ・ハミルトン という配役。金子のオリクスは、バレエを解体するようなマグレガーの振付であっても、それを消化してなおオーセンティックで美しい。第1幕、シセンズとブレイスウェルとのパ・ド・トロワが素晴らしかった。前田紗江 がレン役で活躍。
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振付家自身が指導にあたった、金子扶生、ジョセフ・シセンズ、ウィリアム・ブレイスウェルによる第1幕パ・ド・トロワの場面の公開リハーサル
もういっぽうのキャストは、ジミー=マルセリーノ・サンベ 、オリクス=ヤスミン・ナグディ 、クレイク=マシュー・ボール 、トビー=クレア・カルバート 。主人公ジミーの踊りは、クラシックのポジションから四肢の関節を自在に曲げて動きを拡張するマグレガー特有の動きがとりわけ強調されている。初日のシセンズがそれを柔らかく滑らかに踊ったのに対して、サンベは力強くアクセントを付けて踊り、どちらが正解とも言えず、どちらも魅力的に感じた。佐々木万璃子 がアマンダ役、他にも桂千里、中尾太亮、五十嵐大地 が出演。
ロイヤル・バレエ「マッドアダム」©2024 ROH. Photographed by Andrej USpenski
ロイヤル・バレエ「マッドアダム」©2024 ROH. Photographed by Andrej USpenski
作品の世界観は、マックス・リヒターが書き下ろした印象的な音楽が支えていた。リヒターのアンビエントな楽曲は、ポスト・アポカリプスの情景に良く似合っている。美術、衣裳、照明も手が込んでいた。正直なところ映像をうるさく感じる場面もあったのだが、紗幕、床に置かれたオブジェ、舞台を覆うように吊るした布など、さまざまな場所へ美しくプロジェクションする技術は見事だ。また、新生物ピグーンは、人間の臓器培養のために造られた遺伝子組み換え豚なのだが、その着ぐるみの造形が可愛らしくて気に入った。
【2024年11月14・22日、ロイヤル・オペラハウス、メインステージ】
ホフェッシュ・シェクター・カンパニー「シアター・オブ・ドリームズ」
2024年下半期(6月~12月)、筆者はロンドンに滞在して60本を超える舞台を鑑賞した。そのなかでもバレエ以外の舞踊団の作品で一番印象に残ったのは、ホフェッシュ・シェクターの新作『シアター・オブ・ドリームズ』 である。休憩なしの90分間、ダンサー13人による作品で、題名の通り、覚めぬ夢を見るような感覚がもたらされる舞台だった。
開場時からスモークが焚かれており、客席にもうっすら靄がかかった状態で開演。前半は、断片的で脈絡を欠き、それでいてどこか繋がっている短い情景が畳みかけるように連続する。ダンサーが仲良く手をつないでいたかと思うと、お互いをつき飛ばしたり、相手に飛びかかったり、幕の隙間からのぞき込んだり。短い暗転の反復、引割幕の開閉、そしてブレヒト幕(注2) を駆使した演出で、ダンサーたちが現れては消える場面が延々と繰り返される。不条理な夢のようにも、何かの儀式のようにも、遊び戯れているようにも見える。闇を深く見せる照明が工夫されていて、だんだん夢と現実が判然としなってゆくような仕掛けにはまっていった。
作品の後半では、赤いスーツのミュージシャン3人が舞台上で演奏し、客席が明るくなって観客が促されて踊り、また一転して哀愁漂うポピュラーソング(注3) が流れるなど、舞台の情景が変化してゆく。終盤は、全員によるユニゾンが次第に激しくなってゆき圧巻だった。
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ホフェッシュ・シェクター・カンパニー「シアター・オブ・ドリームズ」トレイラー
シェクターはオハッド・ナハリンのバットシェバ舞踊団出身で、脱力感のあるコミカルな所作、身体を細かく震わせる動作、フォークダンスのような振付などナハリンと共通しており、群舞フォーメーションの緻密さが特徴的。2008年に自身のカンパニーを結成し、欧州のコンテンポラリー・ダンス界を先導する地位に立っている。現在「オイディプス」をテーマにした作品を制作中とのことで楽しみだ。
【2024年10月9日、サドラーズ・ウェルズ劇場】
英国ロイヤル・バレエ「レガシー」
最後にロイヤル・オペラハウスの小劇場で行われた公演を紹介したい。ロイヤル・バレエ企画の「レガシー」 と題する公演で、プリンシパルのジョセフ・シセンズ が提案したとのこと。英国の「黒人歴史月間」(Black History Month)にちなみ、アフリカ系・ヒスパニック系のダンサーを集めた公演である(注4) 。
2時間で12演目を上演。ロイヤル・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエ、イングリッシュ・ナショナル・バレエ、アルヴィン・エイリー舞踊団などで活躍する優れた黒人ダンサーたちが一堂に会し、クラシックからコンテンポラリーまで、プティパ、アシュトン、エイリー、ウィールドン、マグレガーなど多彩な演目を踊る贅沢なプログラム。以下、筆者のベスト3を上演順に紹介する。
冒頭に上演されたのは、マグレガー振付『クローマ』 からの抜粋。ロイヤル・バレエのシセンズ、キャスパー・レンチ、フランシスコ・セラーノ が舞台を縦横に跳び回った。公演の幕開けに相応しく、一気にテンションが上がる迫力の演技だった。
ハンナ・ジョセフが振付けた『AX2 』 は本公演のための新作。ジョセフ自身と、ロイヤル・バレエのエミール・グッディング、レベッカ・スチュアート、フランシスコ・セラーノ の4人が出演。ジョセフは21歳の若さで、元カンパニー・ウェイン・マグレガーのダンサーである。マグレガーの影響は否めないが、目を惹きつける造形の面白さと構成力に振付の才能を感じた。
キューバ出身の振付家アリエル・スミス (注5) の『Pass It On』 も新作。バーミンガム・ロイヤル・バレエでプリシパルを務めるセリーヌ・ギッテンズ 、ロイヤル・バレエの若手マリアンナ・ツェベンホイ とブレイク・スミス 、イングリッシュ・ナショナル・バレエのプレシャス・アダムス 、ロンドン・シティ・バレエのミランダ・シルヴェイラ の5人が共演。3曲で構成されており、それぞれ雰囲気が異なる幅のある振付だった。
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振付家自身が指導にあたった「Pass It On」の公開リハーサルより。プレシャス・アダムスが踊るソロの場面
【2024年10月30日、ロイヤル・オペラハウス、リンバリー劇場】
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(注1)「マッドアダム3部作」の日本語訳は、第1部『オリクスとクレイク』(早川書房、2010年)、第2部『洪水の年』(上下巻、岩波書店、2018年)、第3部『マッドアダム』(上下巻、岩波書店、2024年)の5冊が刊行済み。合計すると1500ページを超える。
(注2)20世紀ドイツの劇作家・演出家ベルトルト・ブレヒトが発明したと言われる舞台装置。舞台上を左右に移動する幕を使い、幕の背後で人を入れ替えたりセットを変えたりすることで瞬時に場面を変化させる仕掛け。
(注3)モリー・ドレイク(Molly Drake)の”I Remember”。1950年代にイングランドの田舎町で私的に録音された歌が、2011年にアルバムとしてリリースされ、ヒットしたもの。
(注4)英国では毎年10月が黒人歴史月間。ロイヤル・バレエの公式サイトには、本公演について「バレエにおける黒人種と褐色人種の素晴らしさを讃える祝典」(A celebration of Black and Brown excellence in ballet)と記載されていた。
(注5)アリエル・スミスは、本連載第42回 に紹介したロンドン・シティ・バレエの復活公演で上演された『ファイヴ・ダンス』の振付家。また第43回 に紹介したバーミンガム・ロイヤル・バレエの『ルナ』でも振付を担当している。
★次回はロイヤル・バレエの『シンデレラ』、カルロス・アコスタ・カンパニーの『ハバナのくるみ割り人形』などをレポート。更新は2025年2月15日(土)の予定です