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前田美波里スペシャルインタビュー〜バレエ少女からミュージカル女優へ。「根性!それが私の信条です」

若松 圭子 Keiko WAKAMATSU

前田美波里 ©蓮見徹

2024年、第49回菊田一夫演劇賞が発表されました。菊田一夫氏は1955年から東宝演劇担当役員に就任し、日本で最初のブロードウェイ・ミュージカル上演を手掛けた劇作家。この賞は彼の願いだった演劇の発展のための一助として、大衆演劇の舞台で優れた業績を示した芸術家を表彰するものです。

今回、演劇賞特別賞を受賞したのはミュージカル女優の前田美波里さん。15歳で菊田氏に見いだされ、以来60年に渡って多くの舞台で素晴らしいダンス、歌、演技を披露してきた功績が評価されました。幼少期はバレリーナを目指していたという前田さんに、バレエやミュージカルの思い出、アクティブに活動を続ける秘訣を聞きました。

第49回菊田一夫演劇賞授賞式レポートはこちらから

©蓮見徹

憧れから入った世界

あらためて、菊田一夫賞特別賞受賞おめでとうございます。
前田 ありがとうございます。
今日は前田さんが舞台女優を目指すことになったきっかけや、クラシック・バレエを習っていたという小中学生当時のお話を中心に聞いていきたいと思います。前田さんが初めてミュージカル作品に触れたのは何歳の時でしたか?
前田 9歳くらいでしたね。映画館で観た『王様と私』が、私が出会った最初のミュージカルです。家庭教師のアンナ役を演じていたデボラ・カーさんの美しさと王様役のユル・ブリンナーさんの迫力ある演技に魅了され、世の中にはこんなに素敵な世界があるんだ!と感じました。それが「ミュージカル」というものだというのは後になってから知るのですが、この映画がきっかけで、すぐにクラシック・バレエを習い始めました。バレエの優雅さに、映画と似たものを感じたのでしょうね。それに、当時バレリーナの森下洋子さんが、少女雑誌「りぼん」の表紙を飾っていたのにも影響を受けました。森下さんと同い年の私はそれに憧れて、自分もこんなチュチュを着て、トウシューズを履いて舞台に立ってみたいと思っていましたね。憧れから入った世界です。
小学4年生から、野口力子先生バレエ研究所に通い始めました。
前田 鎌倉にあったお稽古場にはハーフの方や外国人の方も来ていて、片言くらいしか日本語が喋れない人も一緒にバレエを習っていました。野口力子先生はエリアナ・パブロバ先生(※1)の第一のお弟子さんで、とても熱心でいい方でした。私がバレエを頑張ると、たくさん褒めてくださった。それがとても嬉しかったですね。
はじめてトウシューズを履いた時のことを覚えていますか?
前田 ええ、小学5年生くらいだったと思います。銀座のヨシノヤ(※2)で注文し、作ってもらいました。ピンクのサテン生地のシューズで、初めて手にした時は嬉しくて抱きしめました。履いてみると想像していたより痛くて驚いたのを覚えています。擦り切れてボロボロになるまで大事に履きました。
バレエ少女だった当時の思い出を聞かせてください。
前田 力子先生に褒めていただくのが嬉しくて、毎日のように頑張ってお稽古をしていましたね。でも、やっぱり子どもだから遊びたくなることもありますよ。夏には水着を着てプールに行ったり海に行ったり。ある日先生から「バレエの衣裳を着るのに、どうしてそんな日焼けの跡がつくような格好をするの? そんな色の白鳥はいない!」とすごく怒られました。その時は泣いて泣いて、バレリーナになるには、いろいろなことを我慢しないといけないんだ、と強く感じました。力子先生は、88歳までバレエを教えていらしたんですよ。とても厳しい方でしたけれど、だからこそ私は先生のこともバレエのことも大好きになりました。

中学生になると、プロのバレリーナになりたい、クラシック・バレエで名を成したいと思うようにもなりました。そのためには東京へ行かなくては!と、知り合いに頼み、堀内完先生のお教室(堀内完ユニークバレエ団)を探してもらいました。週に2度、鎌倉の自宅から横須賀線に乗って新橋まで通っていたんですよ。

(注1)ロシア出身のバレリーナ。1927年日本で初めてバレエスクールを開設した。教室があった七里ヶ浜は「日本バレエ発祥の地」と言われている
(注2)1930年、日本で初めて舞踏靴を取り扱った靴屋で、いち早くトウシューズの販売を開始したことでも知られる。1931年にはオリジナルのバレエシューズを開発、松竹、宝塚、日劇などのダンスシューズを一手に引き受けていた

菊田一夫氏との出会い

その後、前田さんは高校入学を機に上京し、芸能プロダクションに所属。1963年、東宝ミュージカル『ノー・ストリングス』の公演PRとして実施された“ミス・ノー・ストリングス”に合格しました。バレリーナからミュージカル俳優へと夢を方向転換させたのにはどういう理由があったのですか?
前田 ミュージカル界に道を移したのは私の意志ではないのです。オーディション合格後、東宝の演劇担当役員だった菊田一夫先生に「君は舞台をやりなさい」と言われ、女優にさせられてしまった、というのが本当のところ(笑)。そのオーディションを見つけてきたのも当時のマネージャーでしたしね。彼女は驚くことに、菊田先生のエッセイにあった「あと10年もすれば、ハーフの人たちが日本のミュージカル界で活躍するようになるだろう」をいう一文を読んだだけで、私を先生のもとへ引っ張っていったんです。
菊田さんはもちろん、マネージャーさんにも先見の明があったのですね。
前田 どうでしょうか。でも、バレエしかできないハーフの私を見て「この子を菊田先生のところに連れて行こう!」と思い立った彼女の行動で、今があるのは確かです。
授賞式で話していたオーディションのエピソードも印象的でした。8個の円が書かれた舞台に立ち、一つひとつの円を移動するたびに違うパフォーマンスをする、という課題が出て、前田さんは8つのバレエのパを披露。1位で合格したと。前田さんの自己紹介に、菊田さんは「芸能人みたいな名前だな!」と仰ったそうですね。
前田 「美波里」という名前も印象に残ったのでしょうね。私の母は日本人で父はアメリカ人。私は鎌倉の祖父母に育てられました。私の写真を見た父方の祖父母が、叔母のBeverly(ビバリー)にそっくりだから同じ名を付けるようにと言ったそうなのですが、日本の小学校に通うのに「ビバリー」ではと、母方の祖父が漢字で「美波里」と名付けてくれたのです。当時は名前のことで意地悪もされましたよ。「お母さんが美空ひばりさんのファンなんでしょう?」とかね。今は、宮澤エマさんや土井ケイトさん、シルビア・グラブさんなど多くのハーフの方がミュージカルで活躍されている。先生がエッセイに書かれていたとおりになっていますね。

©蓮見徹

振袖と「風と共に去りぬ」

合格後は、東宝で多くの演劇の舞台に出演しました。
前田 東宝現代劇8期生として1年間舞台の勉強をし、1964年『ノー・ストリングス』で初舞台。それからも菊田先生からいろいろご指導をいただきながら舞台経験を積みました。芸術座や、もっと小さな小屋も含めると数え切れないほどのステージに立ちました。
1966年には改装後の帝国劇場で上演されたストレートプレイ『風と共に去りぬ』に出演。菊田さんが制作・脚本・演出を手掛けた大作でした。
前田 『風と共に去りぬ』は、帝国劇場でやるために作られた作品なんですよ。原作がとても長いですから、舞台も前・後編に分け、帝劇初の半年以上に渡るロングラン公演でした。主役はダブルキャストでしたけれど、私たちは毎日のように舞台に立つわけです。当時は高校3年生。学校に通いながらの出演でした。
高校の卒業式の日も公演があったそうですね。
前田 そう! あの日は卒業証書を受け取ることもままならず、振袖姿のままで楽屋口の守衛さんのところに駆け込みましたよ。私は冒頭から舞台に出ていないといけないので、振袖を引っこ抜くように脱いでね、あちこちに投げ捨てて(笑)。お姉さんたちが用意しておいてくれた衣裳を着て、メイクする時間もなく舞台へ。出番を終えて舞台袖に戻ってきたら僅かな時間にお化粧しては出て……少しずつメイクが出来上がっていくの(笑)。あの日、もし菊田先生が劇場にいらしていたら私は確実にクビになっていましたね。先生はメイクをせずに舞台に立つことをお許しにはならなかったから。当時は本当に大変でしたけれど、舞台に出て、拍手を肌で感じられるのはとても楽しかったです。
前田さんの出演歴を見ると、初舞台の『ノー・ストリングス』から1979年の『コーラスライン』まで、1本もミュージカルの舞台に出ていませんね。それには何かわけがあったのでしょうか?
前田 それはね、当時の日本に「ミュージカル」がまだ定着していなかったから。それで東宝さんもミュージカル公演は打たなかったわけです。
なるほど。公演そのものがなかったのですね。
前田 菊田先生が手がけた日本初のブロードウェイミュージカルが『マイ・フェア・レディ』。主演のイライザは江利チエミさんでした。次は雪村いずみさん主演の『ノー・ストリングス』。じゃあその後も当然続くはず、と思ってこちらは待っていたのに……なんにもない(笑)。当時は、お客様もどうやってミュージカルを観たらいいかわからなかったのだから、仕方のないことでしたけれどね。

©蓮見徹

AT THE BALLET

そして、2度目のミュージカル出演となった劇団四季のブロードウェイミュージカル『コーラスライン』。その他大勢(コーラス)のオーディションに集まったダンサーが、最終試験でそれぞれの過去の話を演出家に打ち明けていくというストーリーです。前田さんはみずからこのオーディションを受けに行き、残念ながら落選。それでも諦めきれずに演出の浅利慶太さんに頼み込み、お稽古に通ったというエピソードは有名ですね。
前田 何しろクラシック・バレエしかできないのに、『コーラスライン』の踊りはジャズダンス。踊れないわけですからね。毎日練習しましたよ! お稽古の後はまっすぐ家へ帰って、部屋でやると迷惑だろうから、カセットデッキを持ってマンションの屋上へ行くんです。毎晩毎晩『コーラスライン』冒頭のジャズダンスをひとりで踊っていました。屋上まで行く時間が惜しい日はエレベーター前の踊り場で踊ったことも。でも、どこかから現れた酔っ払いのおじさんに「一緒に踊ろう」と声をかけられたの。怖くて怖くて、その日から自主練は屋上だけと決めました。
猛稽古の末、前田さんは念願のシーラ役を手にします。
前田 あの時はどうしても『コーラスライン』の舞台に立ちたかったんです。役を掴み取りたかった。やりたいと思ったら勝ち取るまでやる。根性!それが私の信条です。これは菊田先生や浅利先生から教わってきたことですね。
『コーラスライン』のシーラ役には、バレエファンにも必見の感動的な歌唱ナンバーがあります。
前田 「At the Ballet」ね! 私も同じ気持ちです。子どもの頃はクラシック・バレエのお稽古をしている時が何よりも楽しい時間だったんです。シーラは不仲な両親のもとで育った女性で「稽古場こそ我が家。バレエを踊っている時だけが幸せだった」と歌う。幼少期の自分とシーラに似た境遇を感じましたね。私の父と母は早くに離婚してしまい、母は仕事に出ていて祖父母に育てられたので、何度も寂しい思いをしました。小学校にはあまりいい思い出がありません。ハーフだからといじめられることもあったし、当時の学校の先生はどちらかといえばお勉強ができたり、家柄のいい子を可愛がりましたから。その中で私が私らしくいられたのは、力子先生のおかげです。先生はいつも誰に対してもフェアでしたし、頑張ればかならず報われると教えてくれました。先生の言葉を土台にして、今の自分が築かれているのだと感じます。

75歳のライフスタイル

バレエはいつまで続けていましたか?
前田 身体のあちこちが痛くなってしまうので、クラシック・バレエは68、9歳でやめましたが、それまではベルコモンズの「青山ダンシング・スクエア」で小川亜矢子先生のクラスに通っていたんです。朝起きたら汗を流しに行き、10時から45分間のクラスレッスンを受けて、舞台に立つという流れを毎日続けていました。
では、今はどのようなトレーニングを。
前田 今でも同じ日々を送っています。毎日、ジムに行くか劇場に行くかのどちらかですね。大好きなバレエの代わりに、最近は水泳に夢中です。初めてからやっと2年経ったところですけれど、バタフライが好きになってしまってね。
バタフライ!
前田 空いている時間はほぼジムにいますよ。いいクラスがあれば受けるし、自主練をする時は朝9時から行くこともあります。
舞台がお休みの日はどう過ごしてしていますか?
前田 ジムに。11時にスタートして計8本のクラスを受けます。
家でゆっくり休む日はありますか? そんな日は何をして過ごしていますか?
前田 それがね、私、じっとしているのがあまり好きじゃなくて。どうしても家にいなくちゃいけない、というのなら……セリフを言いながらマッサージ機に乗っているかも。でも、高熱でうなされるようなことにならない限りは、動いていないといけないような気持ちになるんです。することが見つからないならお掃除魔になりますね。汚くするのも綺麗にするのも上手なんですよ。子年生まれだからかしら(笑)。

アクティブな前田さん。移動の時もマネージャーには助手席に座ってもらい、自分で運転するのだとか ©蓮見徹

今もミュージカル『Endless Shock』や朗読劇『西の魔女が死んだ』など忙しい日々が続く前田さん、先日公開された健康サプリメントのCMでは、見事なタップダンスを披露していますね。
前田 久々にタップを踏んだので、最初は思うように音が出なくって。かといって無理すると怪我をする。舞台出演中の収録だったので少し心配していました。でも、やっぱり身体って覚えているんですね。ミュージカル『ステッピングアウト』に出演した時に指導してくださった先生に指導していただきました。フレッド・アステアの女性版のような、素敵な衣裳も気に入っています。
最後に、若い俳優と共演する機会の多い前田さんですが、高校生の頃から多くの舞台経験を積んできた先輩として、彼らをどう見ていますか?
前田 若い方にはいろいろなタイプがいますけれど、自然体でいられる子が好きですね。そういう子たちは感性や感覚が鋭くて、こちらが教わることも多い。彼らと会話ができなくなったら舞台に立つのはやめたほうがいいと私は思っているんです。だから、いつまでも若いですよ? 普段はキャップを被って、ジーンズを履いてお稽古場へ行く。それが普段の私なんです。いつまでもジーンズが似合う女性でいたいですね。それも目標のひとつです。

前田美波里 Bibari MAEDA
1948年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。オスカープロモーション所属。
1963年、高校在学中“ミス・ノー・ストリングス”のオーディションに合格し、東宝現代劇8期生として入団。翌年にミュージカル『ノー・ストリングス』で初舞台。66年に資生堂化粧品のキャンペーンガールに起用され人気を博した。結婚後は一時的に芸能活動を休止し渡米。出産、離婚を経て、29歳で劇団四季『コーラスライン』で舞台復帰。以降、現在に至るまで『アプローズ』『ステッピングアウト』『Endless SHOCK』『ピピン』『マイ・フェア・レディ』など多くの舞台に出演。TVドラマや情報バラエティ、CM等でも活躍している。2009年 第30回松尾芸能賞優秀賞、18年 第27回日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞、24年第49回菊田一夫演劇賞特別賞受賞。

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