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【第51回】ウィーンのバレエピアニスト〜滝澤志野の音楽日記〜ノイマイヤーの「椿姫」を弾く

滝澤 志野

ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。

“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく連載エッセイ。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、読者のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。

更新は隔月(基本的に偶数月)です。美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。

♪「ウィーンのバレエピアニスト 滝澤志野の音楽日記」バックナンバーはこちら

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ノイマイヤーの『椿姫』を弾く

ウィーン国立バレエは来月、ジョン・ノイマイヤー振付『椿姫』のバレエ団初演を迎えます。1978年にシュツットガルト・バレエで初演されて以来、バレエ界に燦然と輝きを放ち続ける名作。ルグリ前芸術監督もウィーンでの上演権を熱望していましたが、時が熟し、ようやく実現できることになりました。間違いなく今シーズンのハイライトとなることでしょう。

昨年11月にハンブルク・バレエから指導者のケヴィン・ヘイゲン氏がいらして、マルグリットとアルマンの第1幕のパ・ド・ドゥだけを2週間かけて稽古しました。このパ・ド・ドゥが一番難しく、そして大切だとのことです。そして、オペラ座舞踏会の終わった2月半ばから、待ちに待った『椿姫』の集中稽古が始まりました。ノイマイヤー氏率いるハンブルク・バレエでは、録音音源を使用して稽古していると聞いていたのですが、ウィーンでは初演のため、ピアノで稽古することに。しかも、私の担当はマルグリットとアルマンの稽古です。全編がショパンのピアノ曲とピアノ協奏曲で構成される、憧れの最高峰のような作品で主役の稽古全て弾くことができるとは……なんとピアニスト冥利に尽きることでしょうか。

私は2014年のウィーン国立歌劇場の「ヌレエフ・ガラ」で、『椿姫』第3幕の「黒のパ・ド・ドゥ」を演奏したことがあります。初めて弾くにもかかわらず、ゲストダンサーのイザベル・シアラヴォラさんとフリーデマン・フォーゲルさんが公演当日にいらしたため、ゲネプロなしのほぼぶっつけ本番で弾きました。その時は、ハンブルク・バレエの『椿姫』ウィーン公演を連日観に行き、映像も観て振付を覚え、ルグリ監督に練習に付き合ってもらい、なんとか準備しました。でも、今回は違います。バレエ団にとって、新たなレパートリーとなる作品を初演するのは特別なこと。振付家と指導者を招き、長い時間をかけて、幕が上がるその日に向けて作品が創りあげられるのです。そんな初演の稽古に立ち会えることが、どれほど実りのあることか。初めて「黒のパ・ド・ドゥ」を弾いてから10年。最高の機会をいただけていることへの感謝を胸に、新たな気持ちで『椿姫』に向きあう日々を送っています。

2014年の「ヌレエフ・ガラ」で「黒のパ・ド・ドゥ」を弾いた時のカーテンコール。イザベル・シアラヴォラさん、フリーデマン・フォーゲルさんと共に

ノイマイヤー氏との稽古

いま稽古しているのは、マルグリットとアルマンの3つのパ・ド・ドゥ。第1幕の「青のパ・ド・ドゥ」(ピアノ協奏曲2番2楽章)、第2幕の「白のパ・ド・ドゥ」(ピアノソナタ3番3楽章)、第3幕の「黒のパ・ド・ドゥ」(バラード1番)です。私は2022年にリリースした全曲ショパンのバレエレッスンCD「Dear Chopin」に『椿姫』の作品も多く収録しましたが、この3曲は特別な思い入れと共に選曲しました。当時のインタビューで「今まで弾いてきた思い出の作品と、いつか弾きたい憧れの作品」と語ったことを覚えています。その時は、こんな風に作品に関わる未来はまだ見えていませんでした。

先週の金曜日と土曜日に、振付のノイマイヤー氏が初演の主役キャストを最終決定するためにウィーンにいらっしゃいました。私たちは、朝から20時過ぎまで、氏と共に稽古場で濃密な時間を過ごしました。踊りよりも、まず時代背景や、当時の人々がどんな暮らしをしていたのか、マルグリットがどんな人物でどういう生き様だったのか、ということを時間をかけて話してくださいました。1時間、いえ、それ以上に及んだと思います。

19世紀半ばのパリの人々がどう生きていたのか、その社会において何が大事で、何が問題だったのか。病にかかりやすく、薬もうまく効かず、健やかに生きることが難しい環境。社交界に生きる一人の女性の生き方を変えた出逢いがあったこと。これは特別な物語ではなく、すべての人に起こりうる「人間の物語」であること。「踊り」が大事なのではない。役そのものを生き、心からの想いが全身に表れていることが大事なのだと。皆、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けます。

「青のパ・ド・ドゥ」、その冒頭5小節を何度も何度も稽古します。マルグリットは強い女性だけれど、壊れやすく、脆い状態にあること。鏡に何が映っているのか、咳に苦しむ時、背中はどういう動きになるのか、その左腕はどういう想いでそこへ向けて動いているのか、この音とどうリンクしているのか。彼女がカウチに視線を向ける時、その先に起こる未来が見えているわけではなく、自分の運命を生きている等……。1幕と3幕のパ・ド・ドゥがどう繋がっているかということも。

時には、ノイマイヤー氏みずから踊ってみせてくれます。台詞を喋りながら! 彼にとってこの作品は過去のものではない。彼が生み落とした命であり、世界初演から46年が経つ今もなお、作品に息吹を吹き込み続け、人生を賭けて育てている宝物なのだと思いました。振付が記されている楽譜を見て、私に的確な指示も出してくれます。穏やかで思慮深く、情熱的で美しくてチャーミング。深く熱く芸術の世界に生きている方。

人生には、忘れることのできない情景、時間というものがありますが、私はいま、間違いなくそんな時間のなかにいるのだと感じました。

ウィーンでの上演で予定されている主役は4組。初演キャストを決める大切な稽古、しかも初めて振付家の前で踊るとあって、みんな真剣勝負です。3つのパ・ド・ドゥを4組分弾き終えて、私もダンサーも精魂尽き果てたという感じ。「黒のパ・ド・ドゥ」(バラード1番)は去年のリサイタルでも弾いた十八番でもあるのですが、稽古終盤では限界を超えて、右手と左手がバラバラになってくる! でも、本物の芸術が持つエネルギーに心が震える、そんな時間でした。

ケヴィン・ヘイゲン氏は、音についても細かく指導してくださいます。「右手と左手を対話のように弾いてみて」「このフレーズはマルグリット、次はアルマン」「ピアニシモでもっとロマンティックに」……このバレエは、音楽と限りなく密接に繋がっている作品なのです。以前「黒のパ・ド・ドゥ」を弾いた時、本番でマルグリットが憑依しているかのような狂おしい哀しい想いに支配されたのを覚えていますが、それは音楽と踊りが一心同体となっているからなのでしょう。そしてヘイゲン氏は、私にこうも言ってくださいました。「この作品は世界中のコンサートピアニストがよく弾くけれど、うまくいかないことも多い。だけど、あなたのピアノは普通ではない。フレーズ感、情熱、音色、それらが踊りと共にある。音楽から与えてもらえることはそうあることではない。ウィーンのダンサーはラッキーだ」。……私はまだまだ道の半ばですが、それでもここまで歩いてきた道のりが間違いではなかったと思えて、涙がこぼれそうになりました。

2017年、椿姫と同じ題材のアシュトン版『マルグリットとアルマン』を弾いた時、デュマ・フィスの原作を読みましたが、今回また読み返すとノイマイヤー版は本当に原作に沿って作られているのだと感じました。『マルグリットとアルマン』を弾いた年、パリの椿姫ゆかりの場所を訪れたことを思い返しています。マルグリットが住んでいたアンタン通り、二人が出逢ったオペラ・コミック座、マルグリットが埋葬されたモンマルトル墓地。

マルグリットが住んでいたアンタン街(2017年撮影)。

そして、「Dear Chopin」を収録する為に巡ったパリのショパン巡り。ロマン派美術館は、マルグリットやショパンが生きた時代を直に感じることができました。私にとっては、すべての事柄が糸で繋がっているように思えるのです。あれがここに繋がっていたのかと、すとんと腑に落ちる感覚。まるで、未来が先に決まっていたかのように。

初演まであと1ヵ月。『椿姫』を弾くことができる幸せをかみしめ、毎日大切に過ごそうと思います。ダンサーもピアニストもこの作品に関わることで成長を促される。そして、いまは未来が見えなくても、またどこかに繋がっているのだと信じて。

今月の1曲

ここまでの流れからすれば、当然『椿姫』からショパンの曲を1曲、となると思うのですが、ノイマイヤー『椿姫』を自分のなかでもっと熟成させてから録音したくて……それは将来にとっておくことにしました。いつか必ず残したいと思いますので、待っていてくださいね。

話は変わりますが、いま書いておきたい大切なことがあります。2024年2月6日、指揮者の小澤征爾さんが亡くなられました。世界の楽壇で活躍され、ウィーン国立歌劇場の音楽監督も務めらた方です。私は人生で初めて観たオペラが、彼の指揮する『ティレジアスの乳房』(サイトウキネン音楽祭)でした。それから学生時代にオペラの仕事を始め、バレエに携わるようになり、彼が率いたこの音楽の殿堂にやってきました。お逢いすることは叶いませんでしたが、彼は音楽界に生きるすべての人間に「上を目指そうぜ」と檄を飛ばし、みんなを鼓舞して引き上げるリーダーだったように思うのです。彼の本をウィーンに持ってきて、大切に読んでいます。ウィーン国立歌劇場は彼を偲び、弔旗を掲げました。

彼の情熱、彼の音楽は生き続けると思います。この劇場にいる一人の日本人ピアニストも、彼の情熱に触れ、前へ進んでいこうと気持ちを新たにしました。いま、小澤征爾さんに捧げる私の想いにぴたりとくるのは、リヒャルト・シュトラウスの「Morgen(明日)」でした。深く優しく、明日を想う歌曲。彼の情熱が永遠に続いていきますよう、心を込めて。ご冥福をお祈りします。

★次回更新は2024年4月20日(土)の予定です

Now on Sale

Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き

滝澤志野による、珠玉の作品を1枚に収めたピアノソロアルバム。

<収録曲>
1.『眠れる森の美女』第3幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
2.『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』よりアダージオ(チャイコフスキー)
3.『ジュエルズ』ダイヤモンドよりアンダンテ/交響曲第3番第3楽章(チャイコフスキー)
4.『瀕死の白鳥』/「動物の謝肉祭」第13番「白鳥」(サン=サーンス)
5.『マノン』第3幕 沼地のパ・ド・ドゥ/宗教劇「聖母」より(マスネ)
6.『椿姫』第2幕/前奏曲第15番「雨だれ」変ニ長調(ショパン)
7.『椿姫』第3幕 黒のパ・ド・ドゥ/バラード第1番 ト短調(ショパン)
8.『ロミオとジュリエット』第1幕 バルコニーのパ・ド・ドゥ(プロコフィエフ)
9.『くるみ割り人形』第1幕 情景「松林の踊り」(チャイコフスキー)
10.『くるみ割り人形』第2幕 葦笛の踊り(チャイコフスキー)
11.『くるみ割り人形』第2幕 花のワルツ(チャイコフスキー)
12.『くるみ割り人形』第2幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)

●演奏:滝澤志野
●発売元:株式会社 新書館
●販売価格:3,300円(税込)
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Dear Chopin(ディア・ショパン)〜Music for Ballet Class

滝澤志野さんの5枚目となる新譜レッスンCDがリリースされました!
志野さんがこよなく愛する「ピアノの詩人」ショパンのピアノ曲で全曲を綴った一枚。
誰もがよく知るショパンの名曲や、『レ・シルフィード』『椿姫』などバレエ作品に用いられている曲等々を、すべて志野さんの選曲により収録しています。
それぞれのエクササイズに適したテンポ感や曲の長さ、正しい動きを引き出すアレンジなど、レッスンでの使いやすさを徹底重視しながら、原曲の美しさを決して損なわない繊細な演奏。
滝澤志野さんのピアノで踊る格別な心地よさを、ぜひご体感ください。

ドキュメンタリー風のトレイラー全収録曲リストなど、詳細はこちらのページでぜひご覧ください
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●CD、52曲、78分 ●価格:3,960円(税込)

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Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class

バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。

●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)

★収録曲など詳細はこちらをご覧ください

ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野  Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)

配信販売中!

現在発売されている滝澤志野さんのベストセラー・CDを配信版でもお買い求めいただけます。
下記の各リンクからどうぞ。

★作曲家シリーズ
♪Dear Tchaikovsky https://linkco.re/pEHd0G2A?lang=ja

★「Dramatic Music for Ballet Class」シリーズ

★滝澤志野さんのアーティスト情報ページはこちら

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

大阪府出身。桐朋学園大学短期大学部ピアノ専攻卒業、同学部専攻科修了。2004年より新国立劇場バレエ団のピアニスト。2011年よりウィーン国立バレエ専属ピアニストに就任。 レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」Vol.1、2、3、「Dear Tchaikovsky~Music for Ballet Class」、「Dear Chopin〜Music for Ballet Class」をリリース(共に新書館)。国内のバレエショップを中心にベストセラーとなっている。2023年7月大阪・東京で初のピアノソロリサイタルを開催。初のピアノソロアルバム「Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き」も同時発売。

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