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【SPOTLIGHT】ダンサーズ・ファイル〈11〉栗原柊〜バレエがあれば、舞台さえあれば、居場所はどこでもいいんです〜

阿部さや子 Sayako ABE

みなさま、現在クラウドファンディング実施中「SPOTLIGHT 私たちは踊りたい〜若きバレエダンサーたちのステージ&ドキュメンタリー」配信プロジェクトを応援してくださり、本当にありがとうございます。

2020年10月18日(日)20時〜の配信開始にさきがけて、このステージ&ドキュメンタリーに登場する全11名のダンサーたちを一人ひとり紹介するインタビュー連載。最後はヒューストン・バレエ・アカデミー出身の栗原柊さんです。

ユースアメリカグランプリ(YAGP)2017のNYファイナル。演目は『タリスマン』の男性ヴァリエーション。
そのつむじ風のようなジャンプやピルエット、そよ風のようなポール・ド・ブラに、客席からは悲鳴のような喝采が湧き起こりました。

まるで一陣の風が吹き抜けたかのようなパフォーマンスを見せた日本人ダンサーの名は、栗原柊(くりはら・しゅう)。彼の演技は大きな話題を呼び、この時のファイナルでは、TOP12入賞という素晴らしい成績を修めました。

栗原さんは埼玉県出身。東松山市のルクール・ド・バレエいわきで学び、上述のYAGPでスカラシップを得て、アメリカのヒューストン・バレエ・アカデミーに留学しました。その後コロンビア・クラシカル・バレエでプロとしてのキャリアをスタート。そしてアーツ・バレエ・オブ・フロリダに移籍すると決まった直後に、コロナ禍に見舞われました。

再び渡米できる見通しは、いまだ立たず。現在は地元の恩師のもとで稽古を続けています。

いやいやながらの小学校時代、がむしゃらだった中学時代

バレエを始めた年齢ときっかけを教えてください。
栗原 習い始めたのは7歳の時です。当時、3歳年下の妹がバレエを習っていて、親が送り迎えをするのに僕もついていってたんですね。ある日、当時まだ4歳だった妹がレッスン中にぐずってしまって、困った先生がふとスタジオの外に目をやると、僕がゲームをポチポチやっていた。それで「きみ、ちょっとこっちに来て。お兄ちゃんと一緒だったらレッスンできると思うから」と声をかけられたんです。
それで、レッスンをしたのですか?
栗原 はい、いやいやながらも……。当時の僕は、バレエなんて全然やりたくありませんでした。そんなの女の子がやるものだし、くらいに思っていたので。でも親に「妹と一緒にレッスンするならゲームを買ってあげる」と言われ、「じゃあ、やる」ということになりました(笑)。
可愛い(笑)。いやいやながらもバレエを始めてみて、どうでしたか?
栗原 最初はやっぱり、全然好きじゃありませんでした。教室に同い年の男の子がもう1人いたから、何とか続いていたという感じで。僕はスポーツ少年だったので、本当はサッカーとか野球とか、球技をやりたいと思っていました。

それなのに、バレエをやめるどころか、いつしかプロを目指すほど真剣に取り組むようになったわけですね。
栗原 大きな転機になったのは、小学校4年生の時、熊川哲也さん主演のKバレエカンパニー『ロミオとジュリエット』を観に行ったことです。舞台じたいにも感動して「すごい! バレエっていいかもしれない」と思ったのですが、さらに終演後にロビーで握手会があるということで、僕も長蛇の列に並んだんです。目の前で見た熊川さんは、とにかくオーラがすごくて、かっこよかった。そして熊川さんは僕の手を握りながら「バレエをやってるの? がんばってね」と言って、肩をポンと叩いてくださいました。その瞬間に、キュンときてしまって。「やばい、僕もこんな人になりたい……!」と、そこから一気にバレエに対する姿勢が変わりましたね。
まさに、人生が変わった瞬間ですね! 以来、栗原少年の「バレエに対する姿勢」は、どんなふうに変わったのですか?
栗原 もともと僕が通っていたスタジオは教室の支部みたいなところで、レッスンが週2回しかなかったんです。回数を増やすには、家から1時間以上かかる本校に行くしかない。だから中学校は、本校に近い私立の学校を受験しようと決めました。そのためにはまず勉強。残りの小学校時代はバレエ以上に勉学に励み、塾にも通って、何とか合格することができました。
そこまでしてバレエに賭けようと思ったわけですね。バレエの先生にも、「きみは見込みがあるから本校に来なさい」等と言われていたのですか?
栗原 それはいっさいなかったです(笑)。「あ、そう。本気でやるのね」くらいの感じだったと思います。

今回のSPOTLIGHTプロジェクトでも踊らせていただく「パリの炎」。これは小学校6年生で初めてのパ・ド・ドゥを踊った時の写真です。この時の出来はぐちゃぐちゃで、ビデオにも録っていますがもう二度と見たくないです……

ご両親は、バレエの道を志すことに賛成でしたか?
栗原 うちは両親とも絵画や音楽など芸術が好きなタイプで、僕が「本気でバレエをやりたい」と言った時も、「いいんじゃない? がんばりなさい」と応援してくれました。
そうして通い始めた中学校とバレエの本校。勉強とバレエの両立はうまくいきましたか?
栗原 それはもう、大変でした。おそらくあの中学校の3年間が、これまでの人生でいちばんしんどかったと思います。
どのようにしんどかったのですか?
栗原 僕が入学したのは農業大学の附属中学校で、当時はまだ創立4年目の新設校だったんです。そういう新興の中学とか高校って、最初に学力レベルを上げたいから、勉強をものすごくがんばらせるんですよね。だからもう毎日毎日、大量に宿題が出て。僕はバレエを2クラス受けていたので、帰宅するのは夜11時半くらい。そこから宿題をやって、朝7時には家を出て……みたいな暮らしでした。そのうちに「睡眠時間が少ないのは嫌だな」と思い始めて、学校の休み時間中に宿題をやってしまうなど、工夫するようにはなったのですが。
それは大変でしたね……!
栗原 バレエのほうでも、その頃がいちばん、先生に厳しく指導されていたので。僕が全然できていないものだから、本当に毎日毎日、ギューギューに絞られていました。レッスンが終わって更衣室に戻ると、いつも「ああ、今日も俺はダメだった」と落ち込む日々でしたね。
でも、学業もバレエも手を抜かずにがんばって、立派でしたね。
栗原 自分の中で、「バレエはがんばるけど勉強は全然できません」っていうのは、プライドが許さなかったというか、すごく嫌だったんです。別にやらなくちゃいけないから義務感でやっていたわけではなく、すべては自分から望んだことでした。

プロになっていくための道筋については、当時どんなプランを考えていましたか?
栗原 先輩たちを見ると、みんな留学→プロというふうにステップアップしていたので、僕もとりあえずひとつ目の目標として「どこかしらに留学する」ということを考えていました。でも中学生くらいというと、もうみんなコンクールにガンガン出て、地区優勝して、YAGPやジャパングランプリに出て……という感じなのに、僕はまだ全然そういうレベルではなかった。だからもう留学なんてどうすれば手が届くのかもわからず、ただただ、毎日がむしゃらにやるしかありませんでした。
そのがむしゃらな毎日の中で、心が折れそうになることはありませんでしたか?
栗原 中学校の時は、ほぼ毎日「バレエ嫌だな、やめたいな」と思っていました。先生には「その程度で何言ってるの?」と言われてしまうかもしれないけれど、僕自身はもう毎日、バキバキに心が折れていたんです。ただ、高いお金を払って私立中学まで行かせてもらって、自分が望んだバレエをできる環境に置いてもらっているのに、ここで止めたらどうしようもないな、と。それが心の根底にずっとあったから、何とか乗りきることができました。
そのがんばりが実を結んできたな、と実感できたことはありましたか?
栗原 中学時代は最後まで、希望が見えませんでした。あるコンクールで1位を獲ったけど、2位は小学5年生の子だよ……みたいな感じでしたし(笑)。本当に僕には才能がないんだなと、ずっと凹んでいたのですが、高校生になって最初に出場したコンクールで、6位に入賞することができたんですね。そこで初めて手応えを感じられて、その年の秋のYAGPに挑戦しました。結果は予選通過、入賞はできず。それでもワシントン・スクール・オブ・バレエのサマーのスカラシップをいただけて、すごく励みになりました。

海外への挑戦と挫折

それで、ついに目標だった海外留学のチャンスをつかんだわけですね。
栗原 はい。そのスカラシップで、ワシントンのサマースクールに行きました。6週間の期間中、当時のディレクターだったキー・ユアン・ハン先生が僕のことをとてもよく見てくださり、「よかったら来年からフルイヤー(年間)で来ないか?」とも誘ってくださって。本当に3回くらい熱心に誘ってくださったのですが、この時は結局、年間留学は実現しませんでした。今になって、あの時ワシントンに行っておけばよかったな……と、少し後悔しているのですが。
なぜ年間留学はしなかったのですか?
栗原 僕は、高校はあらためて受験して、バレエ教室の近くの公立に進んだんです。通っていた私立中学からそのまま高校に上がることもできたのですが、親に「もしがんばれるなら、学費の安い公立高校を受けてくれない? そうすれば留学費用を貯められるから」と言われて。それで無事に受かったのはいいのですが、やはり公立なので、年間留学をすればそれは「休学」扱いになってしまう。そして留学を終えて復学したら、自分より年下の子たちとクラスメイトになってしまうんです。それはちょっとキツいな、と思って、留学のほうを断念しました。

ワシントン留学後。ジャンプを跳ぶ感覚も、それまでとはまったく変わりました

最初の年間留学のチャンスは見送ったけれど、そこから栗原さんの快進撃が始まりましたよね。
栗原 そのワシントンのサマーで、自分でも驚くくらい成長できたんです。帰国してから出場したジャパングランプリで2位-2を受賞、ニュージーランドのバレエ学校のスカラシップをいただけたり、高校2年生の時のYAGP日本予選では2位になって、NYファイナルの出場権をいただいたり。その時はもう、自分自身何が何だかよくわからない状態でした。
そのワシントンでの6週間のレッスン、何が栗原さんをそこまで成長させたのだと思いますか?
栗原 ディレクターのキー先生も、クラス担任だった先生も、バー・レッスンがすごく長かったんです。バーで基礎を徹底的に鍛えて、その基礎がちゃんとセンターで定着していくのが、体感としてわかるようなレッスンでした。初めて経験した「丸一日バレエ漬けの生活」というのも、すごく刺激になって。とにかく吸収することの多い6週間でした。

YAGP2017ニューヨークファイナルで「タリスマン」を踊りました

リンカーン・センターで記念撮影

そして17歳、高校2年生で出場したYAGPニューヨークファイナルでトップ12に入り、ヒューストン・バレエ・アカデミーへ留学しました。
栗原 ヒューストンは、僕がいちばん行きたかった学校でした。スタジオの先輩がそこに3年くらい留学していて、憧れていたので。YAGPでいただいたのは短期のスカラシップだったのですが、「これはチャンスだ!」と思って必死にがんばり、何とか年間の入学許可をいただきました。
でも年間留学したら、高校は「休学」扱いになって、結局1年下の子たちと同級生になってしまうのでは……?
栗原 なりましたね(笑)。でも、ヒューストン・バレエ・アカデミーならば即決でした。親にも、「僕は休学してでもヒューストンに行く!復学後に後輩たちとクラスメイトになってもいいから、1年間ヒューストンに行きたい」って言いました。

ヒューストン・バレエ・アカデミーで先生&クラスメイトと

ヒューストンでは最終的に何年間学んだのですか?
栗原 1年だけです。校長先生には「あと3年くらいここでがんばったらもっと良くなるんだけどなあ」と言っていただいたのですが、でも高校を卒業したいから帰りますと言って、帰国しました。もちろん、ずいぶん悩みましたけど。
ヒューストンでの留学生活は、どうでしたか?
栗原 壁にぶち当たりまくった1年間でした。本当に苦しかった。自分が持ってないものを、みんなは持っている。身長とか、スタイルとか、つま先とか、膝が入っているかどうかとか。そしてそれらは持っていて当たり前、持っていなければスタートラインにも立てない、というような環境でした。自分の中では常にバー・レッスンから一生懸命がんばっていたし、基礎的なことはもうある程度身についていると思っていたんですね。だけど、それすらも全然足りていないんだと思い知らされた。ここで僕が認めてもらえることは何もない。その事実を目の当たりにして、つらかったですね。
「認めてもらえない」というのは、例えばスクール・パフォーマンスで役がもらえないとか、そういうことですか?
栗原 有り体に言えば、そうですね。役はもらえるけど端役だったり、踊るところが全然ない役だったり。思えばそれまでの僕は、コンクールでもある程度は賞を獲り、 YAGP に出てトップ12にも入ることができ、ヒューストンでもやってやるぜ! くらいに思っていたんですよね。でも、その鼻をポッキリ折られてしまった。これはもう、いちど日本に戻って、謙虚に自分を見つめ直さないと駄目かもしれないと思いました。だから留学を続けるより、帰国を選びました。

でもそのヒューストンでの1年間も、栗原さんのダンサー人生にとってはある意味とても大きな経験になったのでは?
栗原 本当にそう思います。つらかったけど、いい学校だったし、「バレエとは何か」みたいなものを学ぶことができたので。あの1年がなかったら、たぶん僕は足の使い方も汚い、暴れているだけのダンサーになっていたと思います。今もまだ全然、綺麗ではないですけど。
これまでバレエを学んできた中で、心に残っている言葉はありますか?
栗原 ヒューストン・バレエ・アカデミーで教わった先生によく言われていた、「パーソナリティを持て」という言葉です。「日本人は跳べるし回れるけど、踊りにパーソナリティが感じられない」と。パーソナリティ=自分らしさを持ちなさい、自分にしかないものを伸ばしなさい、ということ。それはまさに僕に欠けているものだったので、今でも心に刻んでいます。

プロとしてのキャリアのスタート、そしてコロナ禍に

帰国してからはどのように過ごしていたのですか?
栗原 自分の原点である恩師・岩木先生の元へ戻り、先生のバー、先生のレッスンをもういちど一から受けながら、自分には何が足りなかったのかを見つめ直しました。
その1年後に、栗原さんは再びアメリカへ渡りますね。きっかけは?
栗原 ワシントン・スクール・オブ・バレエに短期留学していたときにお世話になった先輩が、「これからどうするの?」と連絡をくださったんです。僕が「もういちどアメリカに行くか、それとも日本でがんばるか、迷っていて……」と正直に相談したら、「じゃあ、うちのカンパニーに来なよ」と。それがコロンビア・クラシカル・バレエで、早速ビデオとレジュメ(履歴書)を送ったところ、採用していただくことができました。

ついに、プロとしてのキャリアをスタートさせることができたわけですね!
栗原 ヒューストンでの挫折から1年間の戒めの期間が功を奏したのか、カンパニーのディレクターからも結構気に入っていただけて。たくさんの作品でソリストなどいい役を踊らせていただきました。
コロンビアにはどのくらい在籍を?
栗原 1年間です。
なぜ1年間で区切りをつけようと思ったのでしょう?
栗原 たくさん踊れたのはすごく嬉しかったのですが、『くるみ割り人形』公演の時に、1ステージで3〜4役に配役されるということが続いて……。例えば、第1幕でおもちゃの兵隊役を踊って、第2幕ではあし笛を踊って、トレパックを踊って、速攻で着替えて花のワルツのソリストで出る、みたいな。そしてツアー公演に出てからはさらに「中国も追加ね」と。
凄まじいですね……。
栗原 しかもフィナーレではトゥール・アン・レールをやって、トゥール・ア・ラ・スゴンドをやって……という調子で、これを2〜3年も続けたら僕はいつか潰れるなと、少し怖くなってしまいました。辞める時は少し揉めてしまいましたけど、最終的には「またいつでも戻って来いよ」と言っていただきました。あの1年間は本当にきつかったけど、楽しかったです。

コロンビア・クラシカル・バレエ時代

コロンビアではいい仲間たちにも恵まれました

移籍先のカンパニーも、アメリカ国内で探していたのですか?
栗原 そうです。僕はアメリカの観客の雰囲気が好きなんです。17歳のYAGPで、ニューヨークのリンカーン・センターで踊った時の、あのアメリカ人特有の盛り上がり感や拍手の気持ち良さが、忘れられなくて。ヨーロッパのカンパニーも視野に入れてみようかとも考えたけど、やはりアメリカに絞って探すことにしました。契約をいただけのは、フロリダのアーツ・バレエというところ。ここは仲良くしていただいている先輩ダンサーの田辺淳さんが最初に入団したカンパニーで、「すごくいいバレエ団だったよ」と聞いていたので、すごく嬉しかったですね。でも、さあいよいよ入団というところで、このパンデミックが起こってしまいました。
その契約は無効になってしまったのでしょうか?
栗原 無効にはなっていません。もちろんいつ行けるのか、ビザが出るのもいつになるのか、まったくわかりませんが。8月にはカンパニーから「いつかきっとこちらに来ることができる。だからいまは自分をプッシュして、がんばって稽古し続けていてほしい」というビデオメッセージをいただきました。
契約をつかみ、さあこれからというところで足止めになってしまって、どんな気持ちでしたか?
栗原 アメリカのカンパニーに就職するというのは、僕にとってひとつの大きな夢でした。その夢は、1年とはいえ一応はコロンビアで叶えることができたから、幸運だったな、と。フロリダに行けないまま帰国せざるを得なくなったのは、もちろんすごく残念です。でも、僕のもうひとつの夢は、いつか日本に帰ってきて踊ること。だからもしもこのままアメリカに戻れなかったとしても、日本でがんばるタイミングが少し早まっただけだと考えよう、と思っています。
すでに日本のバレエ団のオーディションを受ける予定がありますか?
栗原 いえ、今のコントラクトはまだ消えていないので、とりあえずは待機しておくつもりです。ただ、このまま冬になっても何の動きもないようなら、具体的に考え始めたほうがいいのかな、と思っているところです。
日本の中で目指したいカンパニーはありますか?
栗原 やっぱり、熊川哲也さんが率いていらっしゃるKバレエカンパニーに憧れています。「がんばれよ」と肩を叩いてくださった、あのひと言から、僕の本当のバレエ人生が始まったので。Kバレエは、男性ダンサーのレベルがものすごく高いですよね。プリンシパルの山本雅也さんはあまりにも上手いし、堀内將平さんの踊りも大好きだし、年齢が近いところでは関野海斗さんもすごいですし。もしもそんな方々と一緒にレッスンを受けられたら、たぶん最高のものを吸収できるんじゃないかなと思っています。
コロナのために先行きが見えなくなってしまったけど、それでも栗原さんは希望に満ちていて、お話を聞いていて嬉しくなりました。
栗原 小学校の時とは違い、今の僕はバレエが大好きなので。日本であろうとアメリカであろうと、バレエができるなら、そこに舞台があるのなら、僕はどこでもいいんです。だから今回、五十嵐脩くんからこのプロジェクトの話をもらった時、「え? 舞台やるの?! やったあ!」って。その時はちょうど自動車教習所に行っていて、筆記試験が受かるか受からないかの結果待ちをしていたところだったのですが、もうそれどころじゃないくらいテンションが上がりました(笑)。

「SPOTLIGHT」リハーサル前のクラスレッスンにて ©︎Ballet Channel

栗原さんは、バレエのどんなところが好きですか?
栗原 バレエって完璧がないし、完璧なダンサーもいないと思うんです。でも、完璧でなくても、その人なりのパーソナリティで、どれだけでも魅力的に踊ることができる。僕はバレエのそういうところにすごく惹かれます。
これから踊ってみたい作品や役はありますか?
栗原 ありきたりかもしれませんが、『白鳥の湖』の道化をやってみたいです。僕はキャラクター系、しかもちょっとふざけているような役が好きなので。
最後に、これからの夢や目標があれば聞かせてください!
栗原 いつか絶対に叶えたい夢は、日本の大きな舞台で、できれば主役とか『白鳥』の道化みたいな役を踊って、家族や先生などこれまでお世話になった人たちを招待することです。そのためにはまだまだ全然、努力が足りていない。でも必ず実現できるように、がんばります!

©︎Ballet Channel

\栗原柊さんに質問!今回のステージでは何を踊る?!/
『パリの炎』のグラン・パ・ド・ドゥ『タリスマン』のヴァリエーションを踊ります。

『パリの炎』はフランス革命の話。これから世の中を変えるぞ! という強い意気込みに満ちて、元気ハツラツで踊る作品です。今回は僕自身のバレエに対する熱意や思いを込めて踊りたいと思います。

『タリスマン』は高校生の時から踊っていて、YAGPもこのソロで出場しました。音楽も振付も好きだし、おこがましいですけど、自分に合っていると思う。間違いなく僕の人生を変えてくれたヴァリエーションなので、すごく大事な作品でもあります。だから、今回の舞台では楽しく踊りたいと思っています。よろしくお願いします!

\SPOTLIGHTダンサーズに質問! 栗原柊さんの踊りの魅力とは?!/

栗原くんの踊りの魅力はたくさんありますが、その中のひとつは間違いなく、男性らしいダイナミックなテクニックです。若いエネルギーを惜しみなく出しきって跳び、回ってくれるので、このSPOTLIGHTのステージを存分に盛り上げてくれると思います!(五十嵐脩)

配信情報

「SPOTLIGHT 私たちは踊りたい〜若きバレエダンサーたちのステージ&ドキュメンタリー」

●配信期間:2020年10月18日(日)20時 〜 2020年12月31日(木)23時59分
※配信される映像はアーカイブ視聴が可能です。視聴券の購入により、いつでも、何回でもご覧いただけます。

●視聴チケット発売日(有料 1,500円):2020年10月8日(木)
購入はこちら

●主催・制作・お問合せ:〈バレエチャンネル〉編集部
Email:info@balletchannel.jp
Tel:070-4035-1905

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